ニーチェ哲学の中核を成す 「永遠回帰説」 とはいったい何であるのか? その思想の意味するところをひと言で表現すれば
「世の中のすべての事柄は同じことの繰り返しである」 とする強烈なニヒリズムの境地である。 木阿弥は何をどう生きても 「元の木阿弥」
でしかないのである。 「目指した目的」 はその目的が達成されるやいなや、次なる目的が現れて尽きることはない。 「なぜの問い」
もまたその問いが解かれるやいなや、次なる問いが現れて尽きることがない。 それに向けての努力が永遠に報われることがないことに気づいた者は大きな絶望に陥ってしまう。
自分の人生にとって 「目的」 も 「問い」 も全てのものが無意味であるとする 「極限のニヒリズム」 はこうして訪れる。
ニーチェは自らが陥ったこの極限のニヒリズムを克服しようと苦悶を続ける中で 「永遠回帰の思想」 に行き着いたのである。 「あらゆる事柄が同じ順序と脈略にしたがって永遠に繰り返される」
ことがこの世の真象であるならば、それを自らの人生として受け入れて生きようと決意したのである。 ニーチェは 「この人を見よ」
の中で 「到達しうるかぎりの最高の肯定の形式」 であるとして、「この世で体験した喜びや苦悩は永遠に回帰することを肯定して自らの運命を愛さなければならない」
と述べている。
永遠に回帰するとは、人生の経過が 「円環を成す」 ということである。 それは未来に向かっても、過去に向かっても、同じ今の今である
「現在に回帰する」 ということである。 ニーチェは 「苦痛も幸福も同じように繰り返される。 仮に苦労が 99% 占めていても
1% の幸福があれば、再び 1% の幸福が訪れる。 それを糧に生きることができるのではないか」 と自らの人生を肯定することで陥ってしまった究極のニヒリズムからの脱却を画したのである。
それは 「自らを救済する思想」 でもあった。 だが 「同じことが永遠に繰り返される」 ということを 「絶対的肯定」 をもって自らに受け入れることはそう簡単ではない。
ニーチェにして七転八倒の苦悩の末にようよう至った境地でもあったのである。 (2022.12.16)
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