Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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エンドレスな日々〜果てなき世界
 有島武郎の小説 「生れいづる悩み」 のごとく、生れいづる悩みは果てることがない。 同様に 「生れいづる問い」 もまた果てることがない。 しかして、「生れいづる問題」 もまた、解決しても次なる問題が発生して果てることがない。 かくこのように、この世の胎動は 「エンドレス」 であって、尽きることがない宿命をおびている。
 以下は 第1698回 「永遠回帰説とは何か」 からの抜粋である。
 ニーチェ哲学の中核を成す 「永遠回帰説」 とはいったい何であるのか? その思想の意味するところをひと言で表現すれば 「世の中のすべての事柄は同じことの繰り返しである」 とする強烈なニヒリズムの境地である。 木阿弥は何をどう生きても 「元の木阿弥」 でしかないのである。 「目指した目的」 はその目的が達成されるやいなや、次なる目的が現れて尽きることはない。 「なぜの問い」 もまたその問いが解かれるやいなや、次なる問いが現れて尽きることがない。 それに向けての努力が永遠に報われることがないことに気づいた者は大きな絶望に陥ってしまう。 自分の人生にとって 「目的」 も 「問い」 も全てのものが無意味であるとする 「極限のニヒリズム」 はこうして訪れる。
 ニーチェは自らが陥ったこの極限のニヒリズムを克服しようと苦悶を続ける中で 「永遠回帰の思想」 に行き着いたのである。 「あらゆる事柄が同じ順序と脈略にしたがって永遠に繰り返される」 ことがこの世の真象であるならば、それを自らの人生として受け入れて生きようと決意したのである。 ニーチェは 「この人を見よ」 の中で 「到達しうるかぎりの最高の肯定の形式」 であるとして、「この世で体験した喜びや苦悩は永遠に回帰することを肯定して自らの運命を愛さなければならない」 と述べている。
 永遠に回帰するとは、人生の経過が 「円環を成す」 ということである。 それは未来に向かっても、過去に向かっても、同じ今の今である 「現在に回帰する」 ということである。 ニーチェは 「苦痛も幸福も同じように繰り返される。 仮に苦労が 99% 占めていても 1% の幸福があれば、再び 1% の幸福が訪れる。 それを糧に生きることができるのではないか」 と自らの人生を肯定することで陥ってしまった究極のニヒリズムからの脱却を画したのである。 それは 「自らを救済する思想」 でもあった。 だが 「同じことが永遠に繰り返される」 ということを 「絶対的肯定」 をもって自らに受け入れることはそう簡単ではない。 ニーチェにして七転八倒の苦悩の末にようよう至った境地でもあったのである。 (2022.12.16)
 ニーチェの永遠回帰の構造は、今の今という現在を起点として未来に向かうと過去に至り、その過去から再び今の今という現在に回帰するというものである。 今の今という起点は円環上のすべての点であって、そこは 「始点」 でもあり 「終点」 でもある。 八代亜紀が歌う 「愛の終着駅」 ではないが、愛の終着駅は 「愛の始発駅」 でもある。 終着駅の改札口を出たら、そこは始発駅の改札口の入り口であり、終わったと思った愛は再び同じ手順と脈絡をもって始まるというわけである。 夢があるような希望がないような話である。
  ニーチェの永遠回帰がもつ 「極限のニヒリズム」 は運命の連鎖が 「閉じた円環を成す」 という構造に帰因する。 閉じた円環では、繰り返される運命の連鎖は 「まったく同じもの」 である。 ニーチェはこの同じ繰り返しを、「到達しうるかぎりの最高の肯定の形式」 であるとして、「この世で体験した喜びや苦悩は永遠に回帰することを肯定して自らの運命を愛さなければならない」 と述べた。 だがこれは強靱な精神力をもっていたニーチェにしてはじめて可能であって、常人の精神力ではとうていにしてこのような極限のニヒリズムを超越することは不可能なことであったであろう。
 私は構築した 「ペアポール宇宙モデル」 の中で、この宇宙構造が別の道をたどってニーチェの永遠回帰に似た構造に至ったことは興味深いことであると述べている。 だがしいて違いを指摘すれば、私が構想した 「ペアポール宇宙モデル」 では、回帰の円環を 「開いた円環」 にしたことである。 開いた円環とは 「螺旋状円環(スパイラル状)」 を成している。 そこでは、繰り返される運命の連鎖が、回転ごとに少しづつ異なっているとともに循環は方向性をもって前進する。 前記した 「愛の終着駅」 の話もそこでは少々変わってくる。 愛の終着駅は 「愛の始発駅」 なのだが、まったく同じではなく、どこか異なっている。 終着駅の改札口を出たら、そこは 「始発駅の改札口」 なのだが、まったく同じではなく、どこか異なっている。 従って、終わったと思った愛もまた、まったく同じではなく、どこか異なった手順と脈絡をもって始まることになる。 こうであれば、繰り返される愛の物語にも 「夢と希望」 がわいてくるというものである。
 何の変哲もない果てしない 「エンドレスな日々」 であっても、あらん限りの工夫をもって愉しく生きるのが人生というものであろう。 「面白きことのなき世を面白く ・・」 とは、維新の英雄、高杉晋作の辞世の句である。

2024.04.12


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