Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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大いなる欠落〜主を失った客
 米国のフォーク歌手、ボブ・ディランは 1963年 にリリースされた 「風に吹かれて」 で一躍フォーク界の旗手となった。 そのころのフォークソングがそうであったように反戦歌としての代表的な曲であった。 反戦集会があるところ必ずや参加者が声を合わせて歌う 「風に吹かれて」 が流れていたことを覚えている。
 ところがその方向性が突如として急変する。 1964年6月 のインタビューで 「もう人々のために歌を書きたくない、スポークスマンにはなりたくないんだ」 と語った。
 私はあなたたちの問題を解決するつもりはありません ・・ 自分の人生は自分で責任を持ちなさい ・・ 自分ひとりでやるんだ ・・ というわけである。
 それは 1965年7月20日 に発売された 「ライク・ア・ローリング・ストーン」 で決定的になった。 ディランはフォークギターをエレキギターに持ちかえてロックのステージにあがったのである。 しばしの静寂のあと、裏切られたと思った聴衆はディランに激しいブーイングを浴びせた。 だがディランは淡々と歌い続けたのである。 しかしてその歌詞は以下のようなものであった。
どんな気がする
帰る家もなく
誰にも知られずに生きるのは
石ころみたいに転がっていくのは
・・・・・・・・・・・・
 集団で反戦歌を合唱したとてそれが何になろうか? それは傷のなめあいのようなものでしかない。 自分の人生は、自分で責任を持って、自分ひとりでやるしかないのだ。 「ライク・ア・ローリング・ストーン」 はたったひとりで人生に対峙するディランの心境が描かれている。
 かくして50年の時が流れ、ボブ・ディランが忘れ去られようとする間際、晴天の霹靂のように 2016年ノーベル文学賞 の受賞が決まった。 だが 「以前から予定していた約束がある」 からと授賞式を欠席してしまう。 定例となっていた記念講演も行われず、ノーベル財団のホームページ上で、以下のようなディランの音声メッセージが公開された。
 およそ27分間に渡るこの講演の中で、「この度のノーベル文学賞の受賞にあたり、自分の歌が一体どう文学と結びつくのか不思議でならなかった。 その繋がりについて自分なりに考えてみたので、それを皆さんに述べようと思う」 と切り出し、音楽に身を投じる事になったきっかけを 「全ての始まりはバディ・ホリーだった」 と語り 「自分自身で歌を書き始めた際、自分が唯一知っているフォークという表現形態を存分に使った」 とも。 歌を書いていく中で礎となった 3冊 の本、メルヴィルの 「白鯨」、レマルクの 「西部戦線異常なし」、ホメロスの 「オデュッセイア」 については各書物を深く掘り下げ、「歌の詞は歌う為のものであり、ページに綴られているのを読む為のものではない。 そして、皆さんにも、これらの詞を、聴かれるべき形で聴く機会があることを願っている」 とし 「詩神よ、私の中で歌い、私を通して物語を伝えてくれ」 というホメロスの言葉で締めている。
 歌は生きている人たちの世界でこそ生きるものなのだ。 でも歌は文学とは違う。 歌は歌われるべきものであり、読むものではない。 シェイクスピア劇の言葉の数々は舞台で演じられる為のものであるのと同様に、歌の詞は歌う為のものであり、ページに綴られているのを読む為のものではない。 そして、皆さんにも、これらの詞を、聴かれるべき形で聴く機会があることを願っている。 コンサート、或いはレコード、或いは今時の音楽の聴き方でも構わない。
 それは自らの歌手人生を貫いた75歳のボブ・ディランが発した面目躍如たる時空の風景であった。
 以下は、第1330回 「現代情報社会の真相〜大いなる欠落」 からの抜粋である。 ボブ・ディランの世界と重なるところがあって妙味がある。 拝読願えればもって幸甚である。
 現代情報社会では自らを 知ってもらうことにエネルギの大半を費やしている。 自らとは自己であり集団としての組織であり会社でもある。 費やすエネルギとは自己や自社のPRであり、広告であり、宣伝等々である。 かかる社会動向には肝心なことが忘れられている。 それは自己や自社を 「知ってもらう」 ことにのみに執心しているだけで、その主体である自己や自社を 「知る」 ことにはほとんど失念していることである。 他者に知ってもらおうというエネルギと同等のエネルギを自らを知ることにも費やさなければ事態は片手落ちであって物事は完結しない。
 他者に語りかける熱心さで自らにも語りかけなければ事態の真実は見えてこない。 哲学と言えども他者を救うものであるとともに自らを救うものでなくては本当の哲学とはいえない。 自らの履歴(学歴等)が他者に誇るものだけであっては学業の意味はない。 自らを納得させ自らの誇りとなってはじめて学業は意味をもち成就するのである。 しかしながら現代社会の様相は他者に諂い(へつらい)装う者ばかりであって、自らの空白を嘆く者は数少ない。 現代情報社会に潜在する 「大いなる欠落」 の真相である。
 主を追求しての客であって、客ばかりを追求していては、ついには主そのものも消滅してしまう。 ボブ・ディランはそのことに気づいたのである。 だが悲しいかな、多くの現代人は客を立てることに奔走しているばかりで、そのことに気づかないのである。 まったくもって 「大いなる欠落」 と言わざるをえない。

2024.03.16


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