客観から主観への転換は単なる利己主義とは異なる。
利己主義とは現実世界の全体を客観的に眺め、その全体の中に個の位置を見出し、しかる後に全体の中における個の評価を考える過程で発現する
「個の全体に対する主張」 である。 ここで言う 「絶対的主観」 とは、全体から個を眺めるという経過を経ないで、個自らが現実世界の全体を主体的に評価する主観である。
利己主義が全体と個の 「相対的主観」 であるのに対し、絶対的主観とは全体に対する 「個の絶対的主観」 である。 客観による現実把握が現実世界のあらゆる存在を
「全体の共有物」 であると考えるのに対し、主観による現実把握は現実世界のあらゆる存在を 「個の専有物」 であると考える。 つまり、客観による現実把握とは
「全体に与えられた現実世界」 という視点であり、主観による現実把握とは 「個に与えられた現実世界」 という視点である。 全体に与えられた現実世界という視点で構築された典型的社会思想が、存在の全体による共有化を追求した
「社会主義思想」 であり、個に与えられた現実世界という視点で構築された典型的社会思想が、存在の個による専有化を追求した 「自由主義思想」
であろう。 前者の社会主義のアプローチはソ連邦の崩壊が示したごとく、その相対的主観がゆえの矛盾により破綻し、後者の自由主義のアプローチもまた米国の状況が顕すように、絶対的主観とは似て非なる独善的利己主義という相対的主観に陥りつつある。
今求められる絶対的主観とは、以上のような曖昧模糊とした疑似的主観ではなく、個の自己人生の自律と、厳しい自己責任の上に依って立つ
「絶対的主体性」 から導かれた絶対的主観である。
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