Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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絶対的主観〜超人への道
 第1849回 「特有の思考法」 では 「閉塞社会の原因」 となった日本人に内在する特有の思考について論考した。 「無気力」 と 「自信喪失」 が常態化した現代社会とはその帰結であった。 「赤信号みんなで渡れば怖くない」 とする 「集団的無責任体制」 の内実とは、全体の動向を左右する 「意志決定」 において、互いが互いを牽制するとともに期待するだけで積極的に関与しなくなることにある。 言うなれば自らがやらなくても 「誰かがやってくれる」 とする自己責任の放棄である。 「無気力」 と 「自信喪失」 はその結果である。
 以下は 第361回 「絶対的主観」 からの抜粋である。
 客観から主観への転換は単なる利己主義とは異なる。 利己主義とは現実世界の全体を客観的に眺め、その全体の中に個の位置を見出し、しかる後に全体の中における個の評価を考える過程で発現する 「個の全体に対する主張」 である。 ここで言う 「絶対的主観」 とは、全体から個を眺めるという経過を経ないで、個自らが現実世界の全体を主体的に評価する主観である。 利己主義が全体と個の 「相対的主観」 であるのに対し、絶対的主観とは全体に対する 「個の絶対的主観」 である。 客観による現実把握が現実世界のあらゆる存在を 「全体の共有物」 であると考えるのに対し、主観による現実把握は現実世界のあらゆる存在を 「個の専有物」 であると考える。 つまり、客観による現実把握とは 「全体に与えられた現実世界」 という視点であり、主観による現実把握とは 「個に与えられた現実世界」 という視点である。 全体に与えられた現実世界という視点で構築された典型的社会思想が、存在の全体による共有化を追求した 「社会主義思想」 であり、個に与えられた現実世界という視点で構築された典型的社会思想が、存在の個による専有化を追求した 「自由主義思想」 であろう。 前者の社会主義のアプローチはソ連邦の崩壊が示したごとく、その相対的主観がゆえの矛盾により破綻し、後者の自由主義のアプローチもまた米国の状況が顕すように、絶対的主観とは似て非なる独善的利己主義という相対的主観に陥りつつある。 今求められる絶対的主観とは、以上のような曖昧模糊とした疑似的主観ではなく、個の自己人生の自律と、厳しい自己責任の上に依って立つ 「絶対的主体性」 から導かれた絶対的主観である。
 以下はその絶対的主観を描いた 第920回 「あなたが医者である限り僕の言葉は絶対だ」 からの抜粋である。
 「あなたが医者である限り僕の言葉は絶対だ」 とは、テレビドラマ 「フラジャイル」 の主人公である青年病理医、岸京一郎の決めゼリフである。 病理医とは、主に大病院などに勤務して病理診断を行う医師のことで、病理診断とは、患者の臓器から採取された細胞を顕微鏡などで調べたり、CTスキャンで撮影された画像を分析したりすることを言う。 病理医はこれらの分析データから病気の原因を明らかにし、適切な治療方法を判断する。 病理医は通常の医師(臨床医)のように直接患者を治療したり、手術を行うことはなく、病理診断の結果を踏まえて担当医に適切な助言をすることが仕事である。 だが患者に直接治療しないとはいえ、診断ミスすることは許されない大きな責任を負っている職種である。
 ドラマはご都合主義的な治療に終始する臨床医の怠慢と愚行を容赦なく裁断する完全主義者である病理医、岸京一郎を中心にして展開する。 物語の佳境で発せられる 「あなたが医者である限り僕の言葉は絶対だ」 という神の如くの 「断言」 とともに事件は解決するという痛快無比なドラマである。 それにしてもこの青年病理医の傲慢とも思える自尊心と自負心はどこからくるのであろう。 もしこれがこの青年病理医自身からくるとすれば、まことに鼻持ちならない若者ということになるが、おそらく、この絶対的自信は自らの内にあるものではなく、彼が信じる外なる 「何か」 に支えられての自信であろう。 それは人間存在を超えた 「絶対的な存在」 であるようにみえる。
 第375回 「宇宙の天秤」 で私は以下のように書いている。
 この世には事の是非を測るに 「ふたつの天秤」 がある。 ひとつは 「人倫の天秤」 であり、人間社会での善悪や正邪が測られる。 他のひとつは 「宇宙の天秤」 であり、人間社会を包含する宇宙の真実や真理が測られる。 人倫の天秤は人間の倫理観から作られた天秤であるため、時間軸に添った 「時代」 により、また空間軸に添った 「場所」 により、その測定結果は異なる。 しかし、宇宙の天秤は、宇宙の真理から作られた天秤であるため、時間軸にも空間軸にも影響されることなく、いかなる時代でも、またいかなる場所でも、その測定結果は同じである。 人倫の天秤は人間の意思が測定結果に影響を与えるが、宇宙の天秤は人間の意思に何等影響を受けない。 このため人倫の天秤の測定結果は、えてして 「不公平」 である。 人間社会の特異性は、この人倫の天秤による不公平な測定結果にあると言ってもよい。 人間社会に生きる我々の消費エネルギの多くが、この人倫の天秤による不公平な測定結果を 「改ざん」 し、また時として 「ねつ造」 するために費やされてしまう。 これに対し、宇宙の天秤はおそろしいほどに 「公平」 である。 時代や場所を選ぶことなく、また人間の意思にも左右されず、測定結果は同じである。 換言すれば、人倫の天秤は 「相対的天秤」 であり、宇宙の天秤は 「絶対的天秤」 である。 我々は、この相対と絶対のふたつの天秤の使用限界と性能を充分に理解し、適宜に使い分けることが必要なのだが、現代社会では相対的な人倫の天秤のみが重要視され、世の大道は、人倫の天秤を抱えた群衆で混雑し、その測定結果を改ざん、ねつ造する人々が大手を振って闊歩している状態である。 しかしながら、この状況では、我々は決して 「心の安らぎを得る」 ことはないであろう。 なぜなら、人倫の天秤の測定結果は、いついかなる状況で急変するかが予測できない。 一夜にして天国から地獄に突き落とされるかもわからないのである。 我々が本当の心の安らぎを得ようとしたら、宇宙の天秤を使用することである。 なぜなら、宇宙の天秤の測定結果は、いついかなる状況でも変化することなく 「絶対的公平」 であり、安定した生活が保証されるからである。 だが宇宙の天秤は絶対的公平であるがゆえに、また是非もない 「非情な天秤」 でもある。 強いものが勝ち、弱いものが負け、多いものは多く、少ないものは少なく、在るものはあり、無いものはなく、心臓が止まれば人は死ぬことを明らかにする。 その測定結果に影響を与えるものは 「真実と真理」 のみであって、それ以外の何ものでもない。 我々現代人は、そろそろ人倫の天秤に対する傾斜した価値観を転換し、かっての古代人が大切にした宇宙の天秤に回帰しなければならない段階に来ているのではなかろうか? 思わせぶりな脚色も、追従笑いもいらない。 宇宙はただそこに在り、時が刻々と経過しているのみである。
 勿論。 青年病理医の絶対的な自信は 「宇宙の天秤」 に支えられた自信であることはまぎれもない。 ご都合主義的な 「人倫の天秤」 にすがっているくだんの臨床医の相対的な自信ではもとより勝負にはならなかったのである。 だがこの構図は何も医療界に限られたものではない。 昨今の世相を鑑みれば、政界にしてしかり、経済界にしてしかり、学界にしてしかり ・・ しかりであって、惨状は目を覆うばかりである。 あるいは青年は以下のように断言したかったのかもしれない。 「あなたが人間である限り僕の言葉は絶対だ」 と。
 宇宙の天秤による全体に対する 「個の絶対的主観」 をもって生きる病理医、岸京一郎の姿はあたかも哲学者、ニーチェが希求した 「超人」 のようである。 世界のリーダーはその超人を目指しているのかもしれないが、それは絶対的主観とは似て非なる 「独善的利己主義」 という 「相対的主観」 である。 真の超人に求められる絶対的主観とは、曖昧模糊とした疑似的主観ではなく、個の自己人生の自律と、厳しい自己責任の上に依って立つ 「絶対的主体性」 から導かれた絶対的主観である。

2024.01.14


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