Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

空前の歴史ドラマ〜かくして神は死んだ
 縄文と弥生の狭間にある断裂はたんなる 「文明の狭間」 と言うには大きすぎる。 「縄文と弥生」 の論考の末尾で私は以下のように書いた。
 縄文と弥生の狭間で展開された実録(事実の記録)は人類と宇宙が織りなした 「空前のドラマ」 であった。 自然に宿っていた魂は崩壊し、その自然と一体であった人類意識は分裂し、分離し、瓦解していった。 そしてついに 「神は死んだ」 のである。
 我々はその巨大な宇宙崩壊の後の神のいなくなった宇宙に生きている。 神に代わって今この宇宙を支配しているのは 「機能」 であり、それに付随する 「能力」 であり、さらにそれに付随する 「価値」 である。 人間は1個の自立した宇宙存在ではなくなり、その機能追求のための部品と化してしまった。 そして今やアメリカ社会に代表されるプラグマティズム(道具主義)が世界の主流となり膨大な機能社会を出現させた。 人類は結局。 自らを、そして自然を 「道具」 にしてしまったのである。
 現在、この弥生から始まった因果律的機能社会はさまざまな矛盾を露呈し瀕死の状態にある。 ここで我々は時空の彼方に去っていった縄文人が遺した 「思いの痕跡」 をたどり、我々が忘れ去った記憶の深層に潜在する人類の 「心のふるさと」 に回帰しなければならない。 そのときこそ、我々が 「何を得て何を失ったのか」 が判明する時でもある。 それはまた人類のたどった歴史ドラマが一大叙事詩として完結する時でもあろう。
 論考は30年程も前のものであるが、論旨は今も過不足なく展開され、八方行き詰まってしまった現代社会への警告に満ちている。 縄文と弥生の狭間にあった断裂とは、言うなれば 「自然から人工への断裂」 であり、「有機的人間主義から無機的道具主義への断裂」 であり ・・ およそ人間としての根本を一変させてしまう断裂であった。 自然に宿っていた魂は次々と死滅し、神は何処かへと消えてしまった。 それはまさに 「空前の歴史ドラマ」 であったに違いない。 人間にとってこれほどの大事件は有史に遡っても他に類例を見ることはできないであろう。 我々はそこで 「何を得て何を失ったのか」。 今を生きる現代人ひとりひとりに向かってその 「究極の問い」 の帰結が求められているのである。

2022.11.05


copyright © Squarenet