狩猟採集社会の人類は猪や鳥などの人間以外の動物たちと同じように自分たちが自然に働きかけるという
「能動的」 な行為で食料を得ていたのではなく自然の恵みを受け取るという 「受動的」 行為で食料を得ていたと想像される。 自然は自分たちの生命を守ってくれる
「父母のような存在」 であったであろう。 自然の子である人類は父母である自然を敬い慕い抱かれようとしたに違いない。 その父母である自然を冒涜するなど畏れ多いことであった。
その父母的自然は神に昇華する。 ゆえに縄文人の神とは自然そのもであり自然の万物事象はそのまま神の声であり天変地異はそのまま神の怒りであったに違いない。
これらの精神構造を縄文人がもっていたと考えなければ縄文式土器や土偶に発現している一種異様な呪術的雰囲気を理解することができない。
彼らは生活用具としての器を 「作った」 のではなく、自分たちを育む自然神をその中に 「創った」 のである。
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