ペンローズは 「皇帝の新しい心」 の中で、意識を解明する鍵は、物理学の2大理論である 「量子論」
と 「相対論」 の狭間に隠されているとした。 量子論の創始者ニールス・ボーア(デンマーク1885〜1962年)と相対論の創始者アルベルト・アインシュタイン(ドイツ1879〜1955年)以来、世界の物理学者はこの2つの理論をまとめた
「統一理論」 を導きだそうと懸命に試行錯誤を続けてきたがいまだにまともな解答を得るには至っていない。 ペンローズの理論が特徴的であるのは
「統一理論のあるべき姿がいかなる思考から生まれるのか」 という従来の物理学にはなかったアプローチ方法の違いにある。 彼の理論は多分に荒削りではあるものの、もし彼の言うことが正しいとすれば、物理学の理論を一挙に統一するとともに、哲学の最難問とされる
「物質と意識の結びつき」 を解決する可能性を秘めている。 現在、統一理論に最も近いとされている論とは 「超ひも理論」 である。
超ひも理論では10次元空間の中のひもの振動が宇宙のすべての物質とエネルギ、はたまた空間と時間まで生み出すとされている。 世界の著名な物理学者の多くは超ひも理論こそが
「統一理論」 であると考えているが、ペンローズは 「ひも理論は正しいはずがない」 と考えている。 彼は自他共に認めるプラトン主義者であり、科学者は真理を
「発明」 するのではなく、すでにあるものを 「発見」 するのだと考えている。 真理には 「美しさ」、「正しさ」、「明快さ」
を感じさせる 「何か」 が備わっているものであって、超ひも理論にはその 「何か」 が欠けているというのである。 確かに超ひも理論は量子論と相対論を数学的には矛盾なく説明してくれるが、現実空間の中で実験できるものでもなく、そもそも10次元のミクロのひもの振動が何を意味しているのかも不明である。
ペンローズは超ひも理論は物理学者が 「発明」 したしろものだと言いたいのであろう。 20世紀初頭、ボーアとアインシュタインは互いの真理に対して激しい論争を繰り返した。
ボーアは量子論の観点から 「夜空に浮かぶ月は見上げて見ているときには確かにあるが 俯いて見ていないときにはあるかどうかはわからない
それは確率の問題だ」 と主張した。 他方アインシュタインは 「そんな馬鹿なことはない 見ていようが見ていまいが月は確かに夜空にある
神はサイコロをふってこの世界を創ったわけではない」 と反論した。 その反論に対するボーアの回答は 「神に向かってあれこれ指図するのはやめなさい」
というものであった。 この論争の決着は100年近くたった今なおさだかではない。 アインシュタインの価値観はペンローズに近く、真理は
「発見」 されるものであると考えていたに違いない。 アインシュタインはペンローズと同様に 「統一理論のあるべき姿がいかなる思考から生まれるのか」
に徹底的にこだわったのである。 確かに量子論ははなはだファジーで曖昧さに満ちている。 だがその論の意味はわからなくとも現実の胎動には見事に対応し絶大な効果をもたらした。
20世紀の科学技術の発展は量子論をぬきにしては語れない。 ボーアにとってみれば、真理が 「発見」 されるものか、はたまた 「発明」
されるものか、どちらでもいいことであり、要はその真理が現実に効果的に対応するかどうかが、決定的に重要であると考えていたに違いない。
「頭が黒かろうが白かろうがネズミを捕る猫がいい猫」 というわけである。 もし現代にボーアが生きていたら、10次元空間であろうが数学的に矛盾なく証明されたとする
「超ひも理論」 こそが 「統一理論」 であると主張するであろう。 はたして真理は 「発見」 されるのか、それとも 「発明」
されるのか ・・?
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