Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

時間の存在証明
 第1671回 の末尾で発した 「果たして、時間は存在するのか、それとも存在しないのか?」 という問い対して想起されたことがある。 以下の論考がそれである。
 第1174回 「存在の時めき〜存在の今の今」 を書いたの2018年2月1日のことであった。 その内容を抜粋すると以下のようである。
 そこに椅子が存在するとはその存在が持続的に存在することを意味している。 その椅子は突然そこに出現したわけではなくしばらく前からそこに存在し続けている。 しばらく前とは過去を意味しているのであるからその椅子の存在の意味には 「過去の意味」 も含まれていることになる。 またその椅子はこの先もしばらくは存在し続けるであろうし突然消失するわけでもない。 しばらく先とは未来を意味しているのであるからその椅子の存在の意味にはまた 「未来の意味」 も含まれていることになる。 説明するまでもないが今ここにその椅子が存在することからしてその存在には 「現在の意味」 も含まれているのは当然である。 かくこのように存在には過去・現在・未来という時間の3態様が意味的に含まれている。 一挙に還元すれば存在とは既にして時間であり、時間は既にして存在に含まれている。 存在に含まれている意味をとり出すことを哲学者、大森荘蔵はその著書 「時間と存在」 の中で 「存在の時めき」 と呼んだ。
 また 第495回 「蓄積された時間」では同様な視点で時間と存在の意味を以下のように書いている。 それは2004年11月11日のことであった。 その内容を抜粋すると以下のようである。
 かってパリの裏街通りに住み、古びた壁ばかりを描き続けた日本人画家がいた。 画家は壁には街が背負った歴史が刻まれ、太陽の光と風雪が刻んだ 「時間が蓄積されている」 と述懐した。 パリの壁にとどまらず、あらゆる物(モノ)には経過した時間が蓄積され、また蓄積された時間がその物に表象している。 一挙に還元すれば 「物とは時間」 であり、また 「時間とは物」 である。 ローマの古代コロセウム ・・ ギリシアのパルテノン神殿 ・・ はたまた奈良法隆寺の伽藍 ・・ 等々には、その上を流れた遙かな時間が刻まれ、蓄積されている。 我々はこれらの蓄積された 「悠久なる時間」 に遭遇することで、圧倒され、感動させられる。 人間とてこれらの物と何ら変わりはなく、「通り過ぎていった時間」 が身体に蓄積されている。 ただ時間で刻まれた 「その顔」 が、パリの壁ほどに重厚で、穏和で、静謐であるかどうかは別にして ・・・。
 「蓄積された時間」 を書いたのは私の時間概念が未だ時間が過去・現在・未来と連なっているとする線形時間に拘束されていた頃に書かれた 「静的な宇宙像」 である。 他方、「存在の時めき」 は線形時間を廃棄した時間概念で描かれた 「動的な宇宙像」 である。 かくなる宇宙像に到達するためには14年余の時間経過が必要であったのである。 「存在と時間」 とは、ドイツの哲学者ハイデッガーがその哲学的大作に冠した表題であるが、「存在の時めき」 もまた 「存在と時間」 の研究であったことには違いはない。

2022.09.30


copyright © Squarenet