未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
あるがままとは
第1566回
「Let It Be〜あるがままに」 で描いた 「あるがままに生きる」 とは、ただ単に自らの 「感情のおもむくまま」 に生きればいいというようなものではない。 それは 「あるがままの自然」 がそうであるように、「泰然自若」 として宇宙の内蔵秩序(自然の摂理)に 「同化」 して生きるということである。 前者は 「受動的なあるがままの姿」 であり、後者は 「能動的なあるがままの姿」 である。 生きることの主体性から考えればその是非は自ずと明らかであろう。
戦国武将、山中鹿之助は 「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」 と月に祈ったという。 鹿之助の祈りの本意は、この世で起きるあらゆる出来事から逃げることなく我が身に受けて対処してみせるという 「毅然たる覚悟」 にある。
また江戸時代中期、佐賀藩士、山本常朝によって編纂されたといわれる葉隠聞書には 「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」 という記述がある。 これもまた鹿之助同様、この世で起きるいかなる出来事からも逃げることなく対処することを決然と宣言したものであろう。 武士道とは、あるいはこの 「逃げないという覚悟」 の体現化を目指したものではあるまいか?
ちなみに武士は道中にわかに雨が降ってきても悠然として道の真ん中を胸を張って濡れて歩いたという。 省みて現代人はどうであろうか? この世で起きる出来事に一喜一憂、戦々恐々として逃げ回ることに終始している。 むろんのこと雨が降ってくれば、頭に手をかざし、尻をからげて、一目散に走り出すことまぎれもない。
武士と常人の根本的な違いは、この 「逃げないという覚悟」 にこそある。 この覚悟があったればこそ 「日本のサムライ」 は、世界から畏敬の念をもって迎えられたのである。 そこには泰然自若として宇宙の内蔵秩序に同化した 「能動的なあるがままの姿」 が彷彿として浮かんでくるようではないか ・・。
以上の論拠を還元すれば 「あるがまま」 とは、この世に出来するいかなる出来事からも逃げないと覚悟したときに現れる自由で闊達な 「自在な境地」 ということに収束される。
2022.02.01
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