未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
曼荼羅の世界
過去・現在・未来が連なった線形時間を廃棄したときに現れる今の今である現在だけで構成された 「シンプルな宇宙」 では過去や未来はその現在に含まれている。 だがその構造は一場の風景のようであって 「どこが過去」 で 「どこが未来」 なのか渾然一体となって判然としない。 現在に含まれている過去と未来とはいかなるものであろうか?
以下の記載は 「存在の今の今」 を論じた 第1174回 「存在の時めき」 からの抜粋である。
そこに椅子が存在するとはその存在が持続的に存在することを意味している。 その椅子は突然そこに出現したわけではなく、しばらく前からそこに存在し続けている。 しばらく前とは過去を意味しているのであるから、その椅子の存在の意味には 「過去の意味」 も含まれていることになる。 またその椅子はこの先もしばらくは存在し続けるであろうし、突然消失するわけでもない。 しばらく先とは未来を意味しているのであるから、その椅子の存在の意味にはまた 「未来の意味」 も含まれていることになる。 説明するまでもないが、今ここにその椅子が存在することからして、その存在には 「現在の意味」 も含まれているのは当然である。 かくこのように、存在には過去・現在・未来という時間の 3 態様 が意味的に含まれている。 一挙に還元すれば、存在は既にして時間であり、時間は既にして存在に含まれている。 その存在に含まれている意味をとり出すことを哲学者、大森荘蔵はその著書 「時間と存在」 の中で 「存在の時めき」 と呼んだ。 大森はさらにこの 「存在の時めき」 は道元が 「正法眼蔵」 で 「有時」 と呼んだものに他ならないとも述べている。 「有時」 については 第1482回 「
道元禅師かく語りき
」 を参照。
以上の論考からすれば、現在とは 「存在」 である。 であれば、存在であることをもってして、過去と未来はすでにして 「現在に含まれている」 のである。 その中から過去や未来の意味を取り出すことを大森荘蔵は 「存在の時めき」 と呼んだのである。 今の今である現在は漠然と眺めれば変哲なき無窮の日々のようにみえる。 だが決して 「退屈な世界」 ではない。 そこにあるのは 「存在の時めき」 に生き生きとリフレクトする豊饒なる 「曼荼羅の世界」 なのである。
遙か前になるが 安曇野エッセイ 「
ナンバーワンからオンリーワンへ
」 の末尾で、その曼荼羅の世界を以下のように描いている。
我々の生きる世界を語るに 「社会」 では 「無味乾燥」、「娑婆」 とは 「殺伐」、今や古くなってしまったが 「浮世」 という美しい日本語を我々はもつ。 浮世とは、さまざまな オンリーワン に彩られた 「曼陀羅の世界」 である。 その曼陀羅世界のどこに生き、どこに遊ぶか ・・ それはまた、我々 「ひとり」、「ひとり」 に与えられた自由な人生の賜なのである。
科学的概念を芸術的手法で描いたサイエンスアート 「
MANDARA
」 はかくなる曼荼羅の世界を意匠化した 「ベーシックコンセプトデザイン」 である。 シンプルな宇宙の様相を視覚としてイメージ願えればもって幸いである。
2021.02.01
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