Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

生き残り保険
 先日、保険業界が「死ぬリスク」よりは「生きるリスク」を提案しだしたという新聞記事を目にした。死ぬリスクを保障するために生命保険を掛けてきた者からすれば時代の変転に隔世の感を拭えない。万物事象が「あざなえる縄」の論理に従うとは「Pairpole宇宙モデル」の説くところであるが、まさにその好例をみるようである。
 かって同様の視点に立った「生き残り保険」を提案したことがある。以下の記載は平成6年9月18日発刊の科学哲学エッセイ「時空の旅」からの抜粋である。遡る23年ほども前のことである。
生き残り保険
 私の所にも保険屋さんがよく来る。いろいろな種類の保険を説明し加入を勧められる。しかし、どれもあまり魅力がないので「検討します」という結論に至ってしまう。私はその時どうして「生き残り保険」(私がかってに命名したもの)を創設しないのかと提案している。
 相補性とは両極が相補い合い成り立っている世界であることは、前に述べた。その相補性の考えからすれば今の保険制度は一方通行であり、片手落ちの状態である。株式市場においても、買いと売りの2つの売買方法がある。買いは安く買って、その株価が買値よりも上回った時点で売り、差益を稼ぐ。売りは株価が高い時に売っておいて、下がった時に買い戻し、その差益を稼ぐ。考え方は全く逆である。 では現在の生命保険を考えてみる。
 生命保険に何故に加入するかというと、万が一自分が病気あるいは事故等で亡くなった場合に、残された家族が生活に困らないようにとの思いからである。その保険に加入するとなると、加入時の年齢、健康状態、保険金額等により、現在社会の平均寿命、疾病率等から統計学的に掛け金を算出決定し加入契約することになる。保険会社も営利企業であるから損をすることはできない。一般に、健康状態が悪ければ加入させてくれないし、加入時の年齢が高くなれば掛け金も高くなり、ある年齢以上になれば加入させてくれない。つまり、保険会社は加入者が死んでもらっては困るのである。しかし、加入者側からみれば満期までに何事もなければ、それはそれにこしたことはないのであるが、掛け金は戻ってこないので、損をした気分になる。
 「生き残り保険」の仕組みはというと、これと全く逆である。満期日まで生きていればおりる保険である。一般に、政府はこの意味において国民年金や厚生年金制度をつくり、我々は毎月掛け金を払っている。しかし、どうやら我々がその年金をもらう段階になった時、その資金が国に有るのか、無いのか疑問であるという。結果的に国家として赤字になってしまうのである。そのために今、国家財政をどうするのか、また消費税をはじめ税制はどうするのか、政治家が国会で討議をしているのであるが現在の権力闘争に明け暮れる彼らに、はたして明確な将来展望が打ち出せるのかははなはだ疑問である。「生き残り保険」はというと、個人が自分の自由意志において加入するものである。自分は健康であり60歳までは働けるとすれば、60歳満期の保険に加入すればよい。保険金額は、その後の自分の人生設計を考え必要に応じて決めればいい。現在の金額で1億円もあれば、息子の世話にならずとも死ぬまでやっていけるはずである。60歳前に亡くなったとしても死んでからの生活費は、もともと必要無いのであるから、60歳を迎え生きている加入者に、それまで掛けた掛け金を回せばいいのである。
 こうすれば国の福祉政策がどうのこうのという必要はないし、そのために税金を上げたりすることもいらないのである。だいたい、今の税金がどのように使われ、どのように我々自身の為になっているのか、はなはだ不明確であり釈然としない。行政改革が叫ばれてはいるが、いっこうに改革されないことが、それを物語っている。我々は納得して働いた中から税金を払いたいのである。現在の生命保険では保険金殺人という事件が発生するが、それは基本的には死ぬことにより、お金がおりるからである。また、70歳満期で加入している65歳の義父や義母に対して息子のお嫁さんは大切にあつかってはくれない。なぜなら70歳までに亡くなれば保険金がおりるからである。しかし、「生き残り保険」の場合であったらどうであろう。70歳まで生きていなければ保険金はおりないのであるから、お嫁さんは義父、義母を上げ膳据え膳で大切にするであろうし、少しでも体調がすぐれないとすれば、すぐに病院につれていってくれるであろう。国の老人福祉など必要ないし、また身よりのない老人もこの保険に入っていれば、回りの人が大切にあつかってくれるであろう。それもこれも、この保険に加入した老人には金銭的価値が発生しているからである。悲しいかな、現代の日本社会は金銭的価値尺度が中心の社会になってしまっている。「生き残り保険」に加入し、せいぜい元気なうちに沢山稼ぎ、大きな保険金額で契約し、老人になったとき大きな価値を自分に与えるしかない。しかし、だからといって生命保険が必要ないというのではない。それはそれで必要なのである。愛する家族のために自分の死後も思いやる気持ちは尊いものである。要は2つの保険が必要なのである。相補性とは、このようなことなのである。一日も早くこの制度を保険会社は設立し、片手落ちの保険制度を真に完成させてもらいたいものである。そのためには現在の日本社会の制度をコントロールしている頭の硬い人々が、一日も早く時代の流れの変化に気づく必要がある。
 現在の日本経済の停滞においても政府はなかなか有効な方策を打ち出せない。諸外国からは日本の内需拡大策が叫ばれる。ここで政府は所得税減税を実施したが効き目はいまひとつの状況である。日本人の生活パターンの基準は勤勉に働き、得た所得を貯蓄するところにある。現在日本人の貯蓄率は世界で一番ではなかろうか。貯蓄することは決して悪いことではないが、あまりにこれが多くなれば世の中にお金が回らなくなる。お金は流通するところに意味を持っているのであり、ストックするためのものではない。では何故に貯蓄するのかというと、漠然と貯蓄は良いことであるからという意味を問わないただ貯蓄する型と、将来の不安という一種の強迫観念から貯蓄する型の2つのパターンが最も多いと思われる。一般に貯蓄はある目的のために、ある金額を目指し行われるのが普通であるが、日本人のそれは、その金額が達成されるとその目的のためにその資金を使うということをせず、それをもとにさらなる高い目標を目指し目的と金額を設定することになる。かくして「貯蓄が目的の貯蓄」が始まるのである。それが日本の社会通念となると前述した2つのパターンが支配する貯蓄となっていく。結果、寿命が尽き、この世を去るまでその貯蓄が銀行にストックされることになる。その後の経過は「負債と資産」の項で述べたごとくである。この行動様式は日本政府にとっては誠に申し分ないものであり、全国民がストックした資金を最終的には政府が一元的に管理運営することになる。つまりは無駄な省庁をつくり、行政改革はいっこうに進まないこととなる。また世界貢献策として各国の援助資金として供出される。困っている難民救済に使用されるのであればいいが、ロシアのように働く意欲を失い、怠惰に終始している人々の救済というのであれば、勤勉に朝から晩まで汗水たらして働いている日本人としてはやりきれない。それらに消えてしまう我々の貯蓄(ストック)は、ひょっとすると実体の無い仮想の幻影なのかもしれない。
 もし「生き残り保険」の制度が実現すれば、これらのストックされていた資金が有効に社会に生きることになる。将来例えば60歳になれば3億円の保険金がおりるのであるから、それに備えての貯蓄に意味がない。きっと毎月の掛け金を払い込んだ残りは有効にお金を使うであろう。これは内需拡大策として最も効果をあげるであろうし、日本人の生活様式や価値観を変えるぐらいのものとなろう。またお金の真の意味を理解するのではないか。つまり60歳で3億円のお金を持ったところでどのようにそれを使うのであろう。一日三度の食事とパチンコ代と孫のこずかいにいったいどのくらいのお金がいるのであろうか。お金の意味を初めてここで考えることになる。 「ああ、あの時にお金が必要であったんだ あの時にこう使ってやれば良かったんだ」 と。
 しかし、その時は脇目もふらずに貯蓄に奔走していたのである。人生は一度であり、やり直しはきかない。「後の後悔、先にたたず」なのである。きっとこの老人は2億5千万円程を残し、この世を去ることになるのではないか。このお金は保険会社に戻されることになる。きっとこのような仕組みはこの保険制度を有効に作用させ、元気な時に掛ける掛け金の額を引き下げるであろう。それは60歳までに3億円を貯める定期預金の毎月の掛け金よりもずっと低いのではないか。なぜならお金の真の意味(真理)に一番接近して機能している方法であるからである。
 私はメカニズムの開発技術者であり、開発を成功させるためには、その理論が真理により近いことがなににもまして重要である。これが無いと、後でいかに軌道修正しようとしても、ますます迷路に落ち込んで行くだけであり、最後にはぬけでられなくなってしまう。開発は失敗なのである。開発のコンセプトが真理に近いということが成功の第一要素である。開発者はここに、とことんこだわらなくてはならない。ここが真理であれば、紆余曲折の苦労と時間はかかるであろうが開発は必ず成功する。
 現在の日本社会の低迷は今まで行ってきた社会システム、政治システム、経済システム等々 ・・ が社会の実体に合わなくなってきたことによるのであるから、ここでシステムを再構築しなければならない。どのようなシステムがより真理に近いのか、我々一人一人が根本から考え直さなくてはいけない。それを経過した後、新たな人生観をもった日本人による豊かな社会が構築されるであろう。大きな壁であるが、少しずつ崩壊している兆しが見えてきている。
 今再読すると多分に若さに任せた荒削りの思考であるがそれゆえの力を秘めた論考となっているように感じられる。それとともに当時の社会世相のいかなるかが臨場感をともなって伝わってくる。その語るところは現代社会に潜在する病巣の解決策としても妥当性が失われていないように観えるのだが、どうであろう。

2017.07.12


copyright © Squarenet