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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

知的冒険エッセイ / 時空の旅
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山口百恵の風景〜さよならの向う側
 直木賞作家、野坂昭如にして「時代を背負った少女」と恋慕の熱情をあげさせ、名だたるタレントを世に送り出した作詞家、阿久悠をしてその才能を見誤らせた山口百恵はひとつの時代を築いたタレントである。タレントと呼ぶのはなぜか彼女には歌手だとか女優などという肩書きがピントこないからであり、もはやタレント(才能)というしか他に表現方法がないからである。だがそれは昨今の日常化したタレントとは本質的に異なるものである。
 彼女の憂いを含んだ影ある独特の表情は当時の時代背景と相まって多くの大衆を魅了した。だがその憂いをして、出場したオーディション番組「スター誕生」で審査員をしていた阿久悠から「あなたは青春ドラマの妹役なら良いけれど歌手は諦めた方が良い」と言わしめることとなる。それは当時の大衆が森昌子や桜田淳子に代表されるような明朗さを求めていたからに他ならない。少女に憂いはまだはやいということであったのであろう。さらに彼女が背負った生い立ちもまたその憂いを裏打ちしているようであったし、幼少時を米軍基地をかかえ異国風な雰囲気が漂う横須賀の街で過ごしたこともまた「彼女の風景」にひとつの物語性を与えていた。
 もっとも自らを「焼跡闇市派」と称して戦後社会の裏面を眺め続けてきた野坂昭如からすれば、それこそが魅力の源泉であったに違いない。野坂は1967年、「火垂るの墓」で直木賞を受賞しているが、それは1945年の神戸大空襲で養父を失い、上の妹を病気で、下の妹を疎開先の福井県で栄養失調で亡くした自らの実体験をもとに贖罪として書かれたものである。火垂るの墓で登場する清太のモデルは野坂自身であり、節子のモデルは妹ということである。野坂が山口百恵の儚げな表情に抱いた思いがいかなるものかは推して知るべしである。
 また評論家、平岡正明は「山口百恵は菩薩である」と評し、被写体として山口百恵を何万枚と撮り続けた写真家、篠山紀信は、その理由を「それは時代が山口百恵を必要としていたからだ」とし、彼女をして「時代と寝た女」とまで言わしめた。
 山口百恵が活躍した時間はわずか7年半程、1980年、21歳(22歳の誕生日の約3ヶ月前)で引退した。その間のレコード売上枚数は、シングルで31作品、累計1630万枚、LPで45作品、累計434万枚。1970年代における最もレコードを売り上げた歌手だったという。そのファイナルコンサートで、最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」を唱った山口百恵はマイクをステージの中央に置いたまま静かに舞台裏へと歩み去っていった。その姿を最後に、35年の歳月が経過した今に至るも、彼女の姿を一瞥だにした者はひとりとしていない。
 山口百恵はあるいは「自ら企画した物語」を見事に演じきった希代の女優であったのかもしれない ・・ であれば、その物語のフィナーレはかくあるべしと心に決めていたに違いなく ・・ だとすれば、演じきって下りた幕が再び上がるはずもない ・・。 やはり山口百恵は稀有なるタレント(才能)であった。その才能は少女にして大の大人の多くを奔走させ、惑乱させ、しかして自由に操ったのである。これを大タレント(天才)と言わずして、何と表現したらいいのであろう。
 山口百恵のフェイドアウトと呼応すように、その後まもなくして日本社会はバブルと呼ばれる過剰なる豊穣に向けて突き進んでいった。 「山口百恵の風景」はまた「安井かずみの風景(第900回)」と同様、戦後日本がたどった懐かしき時代の断面風景として投影された「ひとつの場面」なのである。

2015.10.16


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