Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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中森明菜の世界〜シュールな歌姫の孤独
 「西脇順三郎の世界(第873回)」は「井上陽水の世界(第874回)」を通過し「中森明菜の世界」に至る。より言えば、西脇順三郎の目指したシュール(超現実)な作詩の世界は、井上陽水が目指したシュールな作曲の世界を通過し、中森明菜が目指したシュールな歌唱の世界に至る。
 彼らは常人が容易に達することができない表現者であるがゆえの、その独創性なるがゆえの、孤高な世界に生きている。
 彼らは常に新たな発見を目指す。それゆえに同じ事の繰り返しを拒絶する。天才たる所以である。
 彼らは常に唯一無二の最高を追求する。もし最高の詩が書けなければ詩人たるをやめるであろう。もし最高の曲が書けなければ作曲家たるをやめるであろう。もし最高の歌唱ができないのであれば歌手たるをやめるであろう。
 全盛を極めた中森明菜が突如として歌謡界から姿を消し歌わなくなった訳とはあるいはそのようなものではなかったか。まだまだできる、まだまだ歌えるは、常人の世界では通じても彼らの世界では通じないのである。希なるシュールな歌姫がたどった孤高な道程である。
 南海の孤島(奄美大島)で生涯最高の絵を描くことに命を費やした日本画家、田中一村。その一村が全霊を込めて闘鶏図を描いていたときのことである。その闘鶏図は彼の最高傑作になるはずであった・・ところが、あと一歩というところで、普段は来るはずのない孤庵に来客があった。張りつめた集中の糸はぷつりと切れ、その後再びその闘鶏図を描くことはできなかった。常人の考えでは再び集中力を取り戻して描き続ければいいではないかと考えるであろうが、一村にとってみれば、その闘鶏は生涯二度と出逢うことがない「絶後の闘鶏」であって、その後に続けて描けばいいというようなしろものではなかったのである。時空のめぐり逢いはいつも「一期一会」である。
 本物の創作者とは、かくも壮絶な「たった一回の時空のめぐり逢い」に賭ける人をいうのであろう。それは西脇順三郎しかり、井上陽水しかり、中森明菜しかりなのである。
田中一村とは / 「魁夷と一村(第219回)」を参照

2015.05.31


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