魁夷と一村
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田中一村という日本画家がいた。 50歳を過ぎて日本南端に位置する奄美大島に移住し、名も知られずに極貧の生活の中で没した孤高の画家である。
一村と東京美術学校(現在の東京芸術大学)の同期に日本画家としての名声を欲しいままにした東山魁夷がいる。 この両者は出発点を同じにするも、その後たどった人生と芸術は対極を成す。
その二人の東京美術学校の先輩に横山大観と菱田春草という近代日本画壇の逸材が位置し、その二人の逸材の上に岡倉天心が位置する。
岡倉天心は「絵を描くことは手先の仕事ではない、心の仕事である」と言った。
この天心の芸術観は大観と春草に、そして魁夷と一村らの天才たちに伝えられ、今もなを脈々と生き続けている。
これら近代日本画の系譜を眺める時、そこに「意味ある符号」が共時性をもって象出している。 魁夷の画風は哲学者ニーチェの分類を借りれば「アポロン的」であり、一村の画風は「ディオニュソス的」である。アポロン的とは輪郭のはっきりとした英知的、彫塑的な芸術を指し、ディオニュソス的とは輪郭のはっきりしない陶酔的、情感的な芸術を指す。
前者は意識的、分析的、分裂的であり、後者は情意的、統合的、一体的である。私の分類で言えば、アポロン的とは「弥生的」であり、ディオニュソス的とは「縄文的」である。そして、弥生的とは「機能的」であり、縄文的とは「呪術的」である。
これらを整理すれば以下の対比となる。
魁夷の画風・・アポロン的(英知的、彫塑的)、意識的(分析的、分裂的)
弥生的(機能的)・・デジタル的、近代的、人工的
一村の画風・・ディオニュソス的(陶酔的、情感的)、情意的(統合的、一体的)
縄文的(呪術的)・・アナログ的、原始的、自然的
この比較を眺めると、二人の画家の画風の違い、それを支えた人生観の違い、送った生活の違い等々が、いかなる根拠に依って発生したのかが彷彿と浮かんでくる。
現代物質文明社会の価値観では魁夷の世界が「表」であり、一村の世界は「裏」である。 表である魁夷は「中央」に位置し、世に出て「名声」と「名誉」を得、裏である一村は南海の「孤島」に位置し、世に隠れ「無名」と「極貧」に放置された。
宇宙の根源的運動は陰と陽「Pairpole」の波動運動であり、この世の森羅万象は「禍福はあざなえる縄」のごとく、位置は反転し、循環するのである。この波動運動の構造は表世界である「陽の実波動」と、裏世界である「陰の虚波動」の二重螺旋構造である。
我々が実在と確信する物質的世界(実波動・表波動)で二人の「生の期間」を考えれば、「魁夷の福」、「一村の禍」と評価され、二人の「死後の期間」で考えれば、「魁夷の禍」、「一村の福」と評価は反転する。つまり、二人の死後である今後は、一村の作品の評価価値は「高騰」し、魁夷の作品の評価価値は「低落」していく。だがこの評価も、やがてはさらに反転し、「魁夷の福」、「一村の禍」に転じる。
我々が虚の存在とする意識的世界(虚波動・裏波動)で二人の「生の期間」を考えれば、生き甲斐をもって生きた「一村の福」、処世の不自由さの中で生きた「魁夷の禍」と評価され、二人の「死後の期間」で考えれば、処世に拘束される「一村の禍」、処世の拘束から自由になった「魁夷の福」と評価は反転する。つまり、二人の死後である今後は、一村の作品の周辺世界は騒がしくなり、魁夷の作品の周辺世界は静かになっていく。
だがこの評価も、やがてはさらに反転し、「魁夷の禍」、「一村の福」に転じる。
この実世界と虚世界の循環運動こそが宇宙の根底に内在する「Pairpole二重螺旋波動運動」の実体である。
ここで、一村と同じく南海の孤島(タヒチ諸島)で人生を絵画に捧げた孤高の画家、ゴーギャンの生涯を描いたモームの名作「月と6ペンス」の小説に思いが至る。この小説の題名の「月」と「6ペンス」の対比もまた「Pairpole」である。高貴、高尚、永遠の象徴としての「月」、低俗、卑賤、現実の象徴としての「6ペンス」である。
主人公、ゴーギャンの前半生は絵を描くことなどに何ら関係のない平凡な郵便局員としての人生であった。しかし、晩年に至ったある日、突然として仕事も家族をも捨てて絵の世界に没入する。幾多の放浪と彷徨の遍歴を経て、南海の孤島にたどり着く。そこで彼は自然そのままに生きる原住民の生活に、人間としての究極の姿を見たのである。それは彼が人生のしがらみのすべてを捨てて求め続けてきた人間終局の実像であり、それはまた人間の誰もが思い描き、だが至れない最後の楽園の世界でもあった。彼はその全貌を渾身の力で住んでいた粗末な小屋の壁に描ききってこの世を去る。後にこの島を訪れ、この壁画を眺めた人々は圧倒するその描写にただ呆然として立ち尽くすのみであった。だがその小屋は火事で消失し、その神秘の壁画は永遠にこの世から消えてしまった・・・小説「月と6ペンス」の粗筋である。
一村の生涯もまた多くゴーギャンと同じである。タヒチ諸島が奄美大島に代わり、島に暮らす自然的原住民の姿が強烈な生命力をもった奄美の動植物に代わる。ともに、その中には宇宙の原始性(ディオニュソス)が、縄文的な呪術性が存在する。
晩年、生命が燃え尽きるまでの20年間、一村もまたあらゆるものを犠牲にして「生涯最後の絵」を描くことについやした。「奄美の杜〜クワズイモとソテツ」であり、「アダンの木」である。私はその実物を見たことはないが、写真で見てもその描写力に圧倒される。そこに表現されたものは、未だ描かれなかった宇宙の根元的な「何か」である。(後に実物を目の前にした私はただ呆然と立ち尽くすのみであった。)
魁夷と一村の東京美術学校の先輩が横山大観と菱田春草であることは前述したが、彼らもまた「Pairpole」であり、対比の多くは魁夷と一村の場合と同様である。「魁夷=大観」、「一村=春草」の類似である。
菱田春草は36歳で夭折した天才画家であり、晩年の作「落葉図屏風」は網膜炎で失明する直前に描かれたものである。この作品は日本画の流れを変えたと言われる。彼は直線と曲線の区別も判らないような視力低下の中で、この絵を描いたのであるが、それを支えたのは師である岡倉天心の言葉、「絵を描くことは手先の仕事ではない、心の仕事である」という言葉であった。芸術家の至福とは、自らが納得した「これだ」と思う主題(モチーフ)を描ききることであるという春草の強い執念と、切なる情念が、この名作「落葉」を描かせたのである。
一村は「神は暗と明の間に、太陽と月の間に居る」と言った。
この暗と明の狭間とはいったい何か・・?
それは夜と昼の狭間である夕と朝であり、山と海の狭間である海岸である。彼の描いた生涯最後の絵「奄美の杜〜クワズイモとソテツ」はクワズイモとソテツが鬱蒼と群生する暗い杜の中から明るい海をかいま見る構図であり、「アダンの木」は山と海が巡り逢う海岸に立つアダンが毅然と屹立する構図である。ともにその構図の中に、彼は自然を、そして我々をそのように存在させた「神」の姿を描いたのである。その神とはディオニュソス性であり、縄文的呪術性であり、原始性であり、混沌性である。
このような原始的混沌性を作家、松岡正剛氏は「トワイライト」という言葉をもって表現する。私はこのような原始的混沌性を「おぼろ月夜」という言葉をもってあてる。それは唱歌「おぼろ月夜」の情景に顕れた原始的混沌性を意味する。
唱歌:おぼろ月夜
菜の花畠に 入日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて 匂い淡し
暗と明の狭間、夜と昼の狭間、太陽と月の狭間、山と海の狭間・・これらの狭間はどうやら特異な空間であるようだ。何事かが生まれ、また何事かが死ぬ空間であり、また何事かが発生し、何事かが消滅する空間である。
これらの狭間は現在・過去・未来という時空間の宇宙においても展開される。現在が昼とすれば過去と未来は夜である。現在と未来の時空間の狭間は朝であり、現在と過去の時空間の狭間が夕である。その朝と夕の時空間で何事かは生まれ、何事かは死んでいく。
つまり、一村の描いた宇宙とは暗在する過去と未来の虚空間から明在する現在という実空間に万物事象が象出し、かつ再び虚空間にその万物事象が消滅する刹那宇宙の姿である。刹那宇宙とは、かくも厳粛で、かくも神々しく、輝いている空間である。それはまた曼陀羅の世界でもある。その浄土世界をかいま見た田中一村という画家は、やはり幸せであったのであろう。
蛇足ながら、奄美という文字に顕れた歴史の表象について記しておく。私著「Pairpole(物質編)」では、私の住んでいる長野県安曇野の「安曇」と「熱海」、「渥美」の文字の表象について触れ、それは遙かな過去時空にあった日本民族成立過程の「舟の文化」、つまり、インドシナ半島に端を発する海洋民族による日本列島への移住の痕跡を物語ることを述べた。そして最近、私は安曇野の中央に位置する穂高町に遺る穂高神社が舟を祀った神社であることを知った。「安曇」という地名は日本沿岸部の「熱海」や「渥美」に居住していた海洋民族が日本内陸部に移住した痕跡を文字に遺しているものであるとする歴史作家、司馬遼太郎氏の慧眼にはあらためて敬服するが、私は「奄美」という地名もまた、「熱海」、「渥美」、「安曇」と同様に海洋民族の移動と移住の道程を表象している文字ではないかと推量する。ほんのわずかな細い糸ながら、インドシナから奄美へ、そして熱海、渥美へ、そして安曇へと移動していった南方の「舟の文化」と、それを担った人々の姿が遠い記憶の時空の彼方から彷彿と浮かんで来る。(安曇古代史仮説
「安曇野の点と線」を参照)
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2002.10.25 |
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