Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

フォッサマグナの断章(1)
長野県北部地震
 2014年11月22日、22時8分、長野県北部をM6.8(震度6弱)の地震が襲った。私が居住している松本市は震度4であったが、地中から突き上げるような揺れに言いようのない恐怖を感じた。震源は糸魚川静岡構造線の北端に位置する神城活断層である。遡る2011年6月30日には神城活断層から南下した松本市近郊を通過する牛伏寺活断層を震源とするM5.4の地震が起こっている。糸魚川静岡構造線とはフォッサマグナ(大地溝帯)の西端に位置する新潟県糸魚川から静岡県に繋がる140〜150Kmに及ぶ日本最大級の活断層帯であり、神城活断層、牛伏寺活断層ともにその一部を構成している。弓なりに湾曲した日本列島の中央部に位置するこの地域は、2011年3月11日に発生した東日本大震災の歪みが最も集中する箇所であるといわれている。言いようのない恐怖の根源はその蓄積された巨大なエネルギがいつかフォッサマグナの構造線を動かす日が来るであろうことを内心怖れていたからに他ならない。
 フォッサマグナとは、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目とされる地帯であり、中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる。語源はラテン語のFossa Magnaで、「大きな溝」を意味する。本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断し、西縁は糸魚川静岡構造線、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線とされる。フォッサマグナは、その西縁と東縁で囲まれた「面」であり、5億5,000万年前〜6,500万年前の古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物でできた新しい地層が溜まっている地域である。この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していることを示しているという。ちなみに松本市から北上した山地に広がる四賀村に建つ四賀村化石館には全長約5.5m、世界最古のマッコウクジラの化石が陳列されている。昔日、化石館を訪れた私はその化石を前にして、この地が海底にあった太古の風景を思い描いて嘆息したことを覚えている。村の標高は900m〜600mに位置する。
フォッサマグナの風景
 国立野辺山天文台の口径45mの大電波望遠鏡を左に見て少し坂道を登ると平沢峠に至る。峠には大きな駐車場が用意され展望台となっており、眼前に八ヶ岳の主峰、赤岳(2899m)を中心にした巨大な山塊がおしげもなくその全貌を見せている。まさに人と自然がかけねなしに対峙できるまれなる場所である。しばしの雄大な眺望から我にかえった私の視線は展望台の縁に忘れ物のようにポツンと佇む石碑を見いだした。以下はその石碑の写しである。
                       フォッサマグナ発想の地
                         −平沢からの眺め−
 日本列島は東西に弓なりに地形が形成されています。そこには大きな溝状の地質構造が走っていますが、それを“フォッサマグナ”といいます。その命名者がエドムント・ナウマン博士(ドイツ人1854〜1927)です。ナウマン博士は、1875年から三回の旅行を行い、その結果を1885年の論文「日本群島の構造と起源について」において、「グローセル・グラーベン(大きな溝)」として説明し、翌1886年に名称を“フォッサマグナ”としました。第一回の旅行は、1875年(明治八年)十一月に行われ、そのときに平沢を訪れたナウマン博士は、ここから赤石山脈(南アルプス)を眺めた景色をきっかけに、フォッサマグナを考えました。

                        抜粋(ナウマン博士の紀行文より)
 朝になって驚いたことに、あたりの景色は前日歩き回ったときとは全く一変していた。それはまるで別世界に置かれたような感じであった。私は幅広い低地に面する縁に立っていた。対岸には、3000mあるいはそれ以上の巨大な山々が重畳してそびえ立っていた。その急な斜面は鋭くはっきりした直線をなして低地へ落ち込んでいた。(中略)そのとき私は、自分が著しく奇妙な地形を眼前にしていることを十分に意識していた。
 フォッサマグナを知っていても、その由来となると知る人は多くはないであろう。私はあらためて眼前の絶景を眺めなおしながら、ナウマン博士の直観を思い描いてみたが、日本列島を形作った太古の地質構造の生成を見いだすことなど到底できそうになかった。長年に渡って様々な調査地を回って眺めた膨大な地勢風景を脳裏に蓄積していたナウマン博士だからこそ、この平沢の頂に立つことで、それらの混交した風景が瞬時にひとつの「フォッサマグナの風景」に凝縮したのであろう。それはまた私が言う「直観的場面構築」の意識メカニズムに他ならない。それを裏付けるかのようにナウマン博士の足跡は長野県北部に位置する野尻湖から発掘された絶滅ゾウの化石が「ナウマンゾウ」と命名されたことにも残されている。博士は日本の地質学研究にとどまらず化石長鼻類研究の草分けでもあったのである。明治8年と言えば維新まもない今を遡る140年前のことである。
中央構造線
 中央構造線は関東から九州へ、西南日本を東西に横断する大断層系で、フォッサマグナ同様、1885年(明治18年)、エドムント・ナウマン博士によって命名された。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。フォッサマグナ域内の中央構造線に注目すれば、静岡県水窪から青崩峠を越えて長野県に入り、伊那山地と赤石山脈の間を、大鹿村〜分杭峠〜長谷村へと北上し、高遠町の東方から杖突峠を通り、茅野市の諏訪大社前宮付近へと続き、フォッサマグナの西端を南北に縦断してきた糸魚川静岡構造線と諏訪湖周辺で交差する。かって諏訪湖から杖突峠〜高遠町〜長谷村〜分杭峠〜大鹿村までの中央構造線上を車で走破したことがある。まさに起伏に富んだ地形であり、分杭峠越えには難渋したことを覚えている。分杭峠はまたゼロ磁場のパワースポットとして知られている。地磁気を相殺してしまうほどの強い逆磁束が発生しているのであろう。それはまた日本列島を分断する断層面が激しい力でせめぎあっている証左でもあり、工学的に考えれば、あるいは2つの岩盤に巨大な力が加わることで生まれた圧電効果による誘導磁界のなせる業なのかもしれない。分杭峠を大鹿村に向かって南下した山腹に中央構造線が地面に露出した断層露頭(北川露頭)がある。1000kmに渡って日本列島を東西に横断する我が国最長の断層の素顔を肉眼で間近に見た私はいつになく気持ちが高揚したことを覚えている。大鹿村には村営の中央構造線博物館が殺風景な川原を望み中央構造線のほぼ真上に建っている。その博物館を訪れたのはもう20年ほども前になる。そのときは中央構造線のことなど深く考えてのことではなく、なにげなく入館したにすぎなかった。今思えば、それが私とフォッサマグナとの最初の出逢いであった・・・あたりは灼熱の太陽に照らされた反射光でまやぶいばかりであり、額からはとめどなく汗がしたたり落ち、怖ろしいほどの静寂に包まれた真夏の昼下がりであったことを覚えている。
プレートテクトニクス
 フォッサマグナを探求するうえでかかせない理論が「プレートテクトニクス理論」である。プレート理論ともいわれ、1960年代後半以降に発展した地球物理学上の学説で、地球の表面が何枚かの固い岩盤(プレート)で構成されており、このプレートが地球内部のマントルの対流に乗って互いに動いているとする説である。大陸移動説を裏付ける根拠となった理論でもある。東北日本東側(三陸沖)の海中では、約1億年前に太平洋東部で生まれた太平洋プレート(比重の大きい海洋プレート)が、東北日本を載せた北アメリカプレート(比重の小さい大陸プレート)に衝突、重い太平洋プレートが、軽い北アメリカプレートの斜め下40〜 50°の角度で沈み込んでいる。プレートが衝突して沈み込んだ部分は海溝となり、衝突した岩盤が互いに動くことで地震が発生する。2011年3月11日に発生した東日本大震災はこれを起因とした地震である。また地下深く沈んだ海洋プレートから分離された水が周辺の岩石の融点を下げるため「マグマが発生」、大陸プレートに多くの火山が生成される。さらに海洋プレートに押された大陸プレートにはその圧縮応力で多くの断層が生じ北上山地などが生成された。本題とは逸脱するが南極大陸の一部であったインドプレートが分離北上、約4,500万年前にユーラシアプレートと衝突、8,000mの高峰が連なるヒマラヤ山脈が生成され、広大なチベット高原が生成されたことは衆知のごとくである。
 このプレートテクトニクス理論から着想を得た小松左京がSF小説「日本沈没(1973年刊)」を著したことはよく知られている。のちに小松氏は日本を沈没させるために費やした知的努力は並大抵のことではなかったと述懐している。小松氏の努力もさることながら、問題は日本が沈没してしまう「リアリティをもったシナリオ」が成立してしまうことである。あるいは執筆のさなか日本列島を俯瞰しながらそのリアリティをともなった危機感で小松氏の胸襟は日々さいなまれ続けたのではなかったか。「細部に注目すれば全体が見えず、全体に注目すれば細部が見えない」とは事の真理である。全体を見て事を語れば「奇想天外」となり、細部を見て事を語れば「枝葉末節」となる。阪神・淡路大震災(1995年1月17日)の後、あっけなく倒壊してしまったビルや高速道路を目のあたりにした小松氏は日本の土木建築技術を司る権威者に面談して「なぜにこのようなことになったのか」を問うたという。返ってきた「それは想定外であった」という陳述に絶望的な落胆を覚えたと述べている。小松氏の憤慨が意味するところは、科学技術において、およそ「想定外」などという思考停止した解答などありえないというものであろう。科学者ともあろう者が、そのような身の責任逃れに汲々としてどうするのか・・最後の最後まで思考をめぐらし続け、納得できる科学的真理を追求することこそが「科学者の使命」であるはずだ・・と。その後、小松氏は2011年3月11日に発生した東日本大震災の惨禍を看取るようにして2011年7月26日にこの世を去っている。80年の歳月をまっしぐらに駆け抜けた人生であった。「日本沈没」の終章、富士山はじめ各地の火山が大噴火する中、瀕死の竜がもだえ苦しむように日本列島は海中に没していく。新たな活路を目指して海外に移住していく日本人の姿と、あえて国内に留まり日本列島と運命を共にしていく日本人の姿を、ともに描いて物語は終わっている。かって小泉元総理が政治には「まさか」という坂があると述べていた。だが「まさか」という坂はなにも政治にかぎったことでは決してないのである。この稿を書いている現時点でさえ、頻発する地震はいうまでもなく、御嶽山は噴火し、阿蘇山ではマグマ噴火が始まり、活動を休止していた各地の火山のいくつかでは火山性微動の回数が増え続けている。
「フォッサマグナの断章(2)」(第0934回
「フォッサマグナの断章(3)」(第1621回
「フォッサマグナの断章(4)」(第1622回

2014.11.30


copyright © Squarenet