ものごとの認識には時間の経過が必要不可欠である。目の前で突然に起きた現象を、その瞬間をもって認識することはできな。それは不意に遭遇した爆発などを想定すれば容易に了解されるであろう。その爆発が何であったのかを理解するのは、その爆発から若干時間が経過してからである。その状況は爆発を録画したビデオテープをプレイバックして確認しなければ、その爆発が何であったのかを理解することができないことと同じである。
この時間遅れを「タイムシフト」と呼ぶことにする。我々の認識は常にリアルとしての現実からタイムシフトされていて、現在とする今の今とは一致しない。我々の頭脳は絶え間なく、少し前の時空をプレイバックし続けているのである。
このタイムシフト量(遅れ時間)は人によって異なり、その差は測定可能な程に大きい。巷間、差が少ないをもって「機敏な人」と呼ばれ、差が大きいをもって「鈍感な人」と呼ばれている。だが問題は、日常生活の中ではこのタイムシフトが無視され、誰もが現実時間と認識時間は一致していると思っていることである。それはタイムシフト量が微量であるからであるが、微量であっても「時間差が存在する」ことが重大なのである。
拙稿「 Pairpole宇宙モデル」では、時空間を時間軸と垂直に断面した宇宙を「刹那宇宙」と呼び、時間軸に沿って断面した宇宙を「連続宇宙」と呼んでいる。数学的に表現すれば、刹那宇宙は時空間を時間で微分した宇宙であり、例えて言えば「1枚の写真の世界」と同じである。連続宇宙は時空間を時間で積分した宇宙であり、例えていえば「1巻の動画の世界」と同じである。
さらに現代風に表現すれば、刹那宇宙はデジタル的な宇宙であり、連続宇宙はアナログ的な宇宙である。表現はさらに羅列され、刹那宇宙の心理学は超因果律的な共時性で語られ、連続宇宙の心理学は因果律的な意識性で語られ、刹那宇宙の物理学は量子論で語られ、連続宇宙の物理学は相対論で語られる・・云々。
刹那宇宙は時間が限りなく0に近い宇宙を想定しているが、上記したように我々の認識は現実からタイムシフトされている。しかしてこのタイムシフト量は、限りなく0に近いどころか、はるかに大きな量である。つまり、我々人間は、自らの認識をもってしては、「今の今」という刹那の宇宙をリアルとしては目撃できないのである。
「未来」をリアルとして目撃できないことは誰もが知っている。だが「現在」でさえリアルとして目撃できないことは誰もが知っていることではない。過去しかり、現在も、未来も、リアルとして目撃できないとすれば、我々はいったいこの宇宙の何を見ているというのであろうか・・?
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