「松林図屏風」を描いた長谷川等伯(1539年〜1610年)は信長、秀吉、家康が覇権を争った戦国の世、安土桃山時代を生きた絵師である。同時代の絵師として狩野派の総帥、狩野永徳がいる。両者の画風の違いは永徳の代表作と言われる「唐獅子図屏風」を見れば瞭然として感受されるであろう。両者は好適な「Pairpole」を成す。その違いはまた天下人として華やかに君臨した秀吉と侘び寂びの世界に徹した利休の「Pairpole」と一対を成す。黄金の茶室を演じた秀吉は絢爛たる画風の永徳に相似し、草庵の茶室を演じた利休は枯淡たる画風の等伯に相似する。もっとも等伯という雅号は利休が付したものであって、伯とは人として無限、悠久なるものをめざすという願いに由来するという。
秀吉と永徳は世の「表世界」、換言すれば「物質的世界」を追求した者であり、利休と等伯は世の「裏世界」、換言すれば「精神的世界」を追求した者である。永徳は物質世界に顕れた意匠を描くことに専念し、等伯は精神世界に顕れた心象を描くことに専念した。等伯は絵とは「心を描くもの」と考えていたのである。
同様に絵に心を描いた画家として思い出されるのは菱田春草(明治7年〜 明治44年)である。横山大観、下村観山らとともに岡倉天心の門下で、近代日本画の革新に貢献した逸材である。代表作の「落葉図屏風」は網膜炎を患い、失明の危機に瀕し、絵筆を持つことさえ禁じられていた春草が、師である天心から「絵は心で描くもの」との励ましをうけ、渾身の力をふりしぼって挑んだものである。その完成から2年後、満37歳の誕生日を目前にして夭折してしまった春草にとっては、この世のなごりのような作品である。
横山大観と菱田春草もまた、狩野永徳と長谷川等伯に顕現したと同じ好適な「Pairpole」を成す。系譜はさらに続いて東山魁夷と田中一村の「Pairpole」に至るが、大観と春草、魁夷と一村の「Pairpole」については「魁夷と一村(第219回)」を参照いただくとしてここでは割愛する。結論のみを書き記せば、「狩野永徳→横山大観→東山魁夷」と「長谷川等伯→菱田春草→田中一村」の対比構図となる。
末尾に「等伯の松林図」と「春草の落葉図」に現れた不可思議な類似性について指摘しておきたい。「松林図屏風と落葉図屏風の対比」を眺めながら読まれると次第はより明瞭に感受されるであろう。
□松林図に関する論評(抜粋)
靄に包まれて見え隠れする松林のなにげない風情を、粗速の筆で大胆に描きながら、観る者にとって、禅の境地とも、わびの境地とも受けとれる閑静で奥深い表現をなし得た等伯の画技には測り知れないものがある。彼が私淑した南宋時代の画僧牧谿の自然に忠実たろうとする態度が日本において反映された希有の例であり、近世水墨画の最高傑作とされる所以である。文禄元年(1592年)等伯が祥雲寺障壁画(現、智積院襖絵)を完成させた翌年、息子の久蔵が26歳の若さで亡くなっており、その悲しみを背負った等伯が、人からの依頼ではなく、自分自身のために描いたとも言われる。等伯の生まれ育った能登の海浜には、今もこの絵のような松林が広がっており、彼の脳裏に残った故郷の風景と牧谿らの技法や伝統と結びついて、このような日本的な情感豊かな水墨画が誕生したとも想像されている。
□落葉図に関する論評(抜粋)
白い霧が深くたちこめる中、落ち葉積もる雑木林がほのかな遠近の中に続いている。画面手前の木肌や葉は西洋画的な写実でありながら、木々の濃淡で表された空間は日本画的な奥行きをみせている。若いころから常に新しい試みを続けていた春草だが、その作品は西洋かぶれの「朦朧体(もうろうたい)」などとさげすまれほとんど売れなかった。貧困にあえぐ中、武蔵野の林を散歩しながら構想を練るしかなかった春草は、失いかけた視力が回復していく中で、林が生命力や再生を暗示する無限のモチーフとして写った。起死回生をかけて西洋の写実表現と日本画の持つ奥行きを両立させることに挑んだ春草は「洋画も日本画も、日本人が構想し、制作するものすべてが、日本画となる時代が来るであろう」との確信にいたった。明治42年、「落葉図」が発表されるや賛否両論が巻き起こるほどの革新的なものとして巷間の注目をあつめた。近代日本画が到達した最高傑作として今に遺されている。
等伯の松林図から春草の落葉図までは300年以上の時間が経過している。だが両者の絵師としての風景に寸部も変わるものはない。人生の哀歓を経て最後に行き着いた心の世界もまた同じである。本物の絵師とはかくこのような人たちを言うのであろう。