Linear ベストエッセイセレクション
時空のトンネル〜ワームホールの可能性
Turn

時空のトンネル
 「新たな地平を求めて」では、行き詰まった世界を打開する「新たな世界の可能性」を探求した。 ここではその新世界を拓くより具体的な「ワームホールの可能性」について探求する。 ワームホールとは時空のトンネルのことである。 このトンネルを通ると遥か何億光年も離れた空間へも一瞬で行くことができるという。 ホールという言葉からするとトンネルよりは穴、言うなれば「入り口」と訳すことが相応しいのかもしれない。 曰く、「異次元空間(別世界)への入り口」である。
イバラードの奇妙な店
 画家井上直久氏の絵本「イバラードの旅」の中に奇妙な店が登場する。(井上直久氏とは、かつて氏が松本市を訪れた際、この奇妙な店のことについて話したことがある)
 イバラートとは井上氏の意識世界の中にある理想郷であり、そのイバラードの市場に、その奇妙な店はある。 入り口には「夜空屋(あなたが探している場所はこちらです、どうぞお入り下さい)」という看板がさげられている。 その入り口を入ってみると入り口の向こう側には広い草原が広がっている。 振り返って、いまくぐった入り口を見ると、今度は逆にイバラードの市場が、その入り口の向こう側に広がっている。 入り口には「市場屋(あなたの探している物はこちらにあります、どうぞお入りください)」という看板がさげられている。
 我々は常日頃、「裏と表」という言葉を口にするが、その裏と表の構造をしかと理解し得た人が、どのくらいいるのであろうか?
 井上氏が提示する裏表の構造とは、表の世界の「外側」に裏の世界が在り、裏の世界の「外側」に表の世界が在るような構造である。 一般的に我々が考える裏表とは、一枚の紙の表裏のような構造であるが、井上氏が提示する裏表の世界は、ちょうどゴムボールの内側と外側の構造に近い。 ただ異なるのはそのゴムボールの曲率が内側、外側ともに内側に曲がっていることである。 そのようなゴムボールを図に描くことは難しいが、そのゴムボールが天文学的に大きいことを想定すれば、非ユークリッド幾何学(つまり、平行線は交わるという幾何学)が適用されるから、そのようなゴムボールも在りうる。 つまり、ゴムボールの内側も外側も、ともに同じ内側に曲がっているようなゴムボールである。
 この構造をわかりやすく述べれば、壁に取り付けられた鏡を、その入り口(門)であると想起すればよい。 鏡の門では実際には出入りはできないが、もしその鏡の門から自由に出入りできると考えれば、井上氏が提示したイバラードの奇妙な店の入り口(門)と同じ構造である。
 このイバラードの門における、直観的インスピレーションは象徴的であり、また暗示的示唆に富んでいる。 その門とは、言うなれば「生と死の門」であり ・・ 「有と無の門」であり ・・ 「男と女の門」であり ・・ 「精神と物質の門」であり ・・ あらゆる「Pairpoleの門」の構造である。
 そしてはたして ・・ 私は ・・ あなたは ・・ いったいその門のどちら側の世界にいるのであろうか?
 裏と表の構造として通常は1枚の紙の裏表を思い描くが、表の世界の「外側」に裏の世界が在り、裏の世界の「外側」に表の世界が在るような裏と表の構造は矛盾していて思い描くに努力を要する。
  だが2つの世界を繋ぐワームホールを出入りする人にとってみればそれは何ら違和感のない当然の構造として感じられるであろう。
 また注目すべきは2つの入り口に掲げられた「夜空屋 あなたが “ 探している場所 ” はこちらです」、「市場屋 あなたの “ 探している物 ” はこちらにあります」という2つの看板表示である。 夜空屋にあるものは「あなたが探している場所」、つまり空間であり、市場屋にあるものとは「あなたが探している物」、つまり物質である。 人が幸福のために探しているものが「空間と物質」であるとする指摘は暗示的である。
 例えて言えば、いくら快適な世界であっても好きな貴方がいないような世界には生きていたくないとする感懐のようなものである。 世界とは空間であり、貴方とは物質である。 つまり、快適な世界も好きな貴方がいてこその理想郷というわけである。
意識と光速
 相対性理論によれば、この宇宙では何ものも光速の壁を越えることはできない。
 だが意識の速度はその相対性理論の光速の限界に制約されない。
 物体が光速に近づくにしたがい、重さは無限大となり、時間はゆっくり進み、光速に至ると時間は停止し、光速を越えると時間は逆戻りして過去に向かうというのが相対性理論の帰結である。
 だが意識はこれらの相対性理論の帰結を軽々と突破しているように観える。
 意識は自由に何十億光年隔たった星雲世界へも、何十億年前の過去世界へも一瞬に移動する。
 つまり、空間と時間の制約に拘束されない。
 唯物論的宇宙は「光速を基準」にしたアインシュタインの相対性理論の制約下で構築されているが、「意識を基準」にした唯識論的宇宙は相対性理論には制約されず、唯物論的宇宙で構築されている確固たる物質的実存が霧散してしまう。
 最新の量子論では光速を越えて情報伝達する物質的粒子の存在も確認されており、アインシュタインの相対性理論も修正を迫られている。 量子論は今、限りなく心理学や哲学に近づいており、物質的アプローチから意識的アプローチへとその軸足を移行しつつある。
 曰く、意識はこの宇宙を縦横無尽に飛び回ることができる。
 宇宙存在の主体が意識であり、その意識が投影した影が客体である物質であるとするならば、我々はいかなる時空にも象出する可能性を秘めている。 それはまた宇宙物理学が述べる時空のトンネル、「ワームホール」の構造であり、アインシュタインが思考した「タイムマシン」の構造である。
 「時空のめぐり逢い」と表現した「世界物語」は、まさに壮大で悠久な物語なのである。
 物質が突破できない光速の壁を意識は軽々と突破する。 また時間にも拘束されない。 意識とは何か? 理論物理学者、シュレジンガーの波動理論では意識的観測が波動方程式の波動関数を収縮させ「ひとつの宇宙を発生させる」ことを明らかにした。 物質的アプローチから意識的アプローチへと軸足を移行させることはワームホール発見に向けて充分に成算が見込めるアプローチである。
 以下の注釈は量子論における意識作用の何たるかを述べている。 従来の物理学が述べてきた「光速の壁」、「時間の壁」に大きな疑問を投げかけている。
※注釈/量子論における意識作用とは
 アインシュタインとその同僚は「EPRパラドックス」と呼ばれる思考実験を考えついた。 それは相互作用を及ぼしているふたつの回転する粒子が、その後、遠く離ればなれになったと仮定する。 そのふたつの粒子はそれぞれ反対方向のスピンをしているとする。 ゆえにA粒子のスピンを観測すればB粒子のスピンの向きを推論できる。 量子論の解釈によれば観測が行われるまでは両方の粒子がむちゃくちゃな状態で回転している。 しかし、A粒子のスピンが観測された瞬間に回転の向きが右か左かに確定する。 もし右であればB粒子のスピンの向きは左ということになる。 この結果はふたつの粒子が何億光年と離れていようとも同じである。 遠距離で働くこの作用はふたつの粒子が光よりも速く伝わる物理的効果によって連絡しあっていることを意味している。
このパラドックスは1982年、パリの応用光学理論研究所のアラン・アスペによって現実として確認された。 宇宙の遠く離れた領域にあるふたつの量子粒子がどういうわけかひとつの物理的実在となっていたのである。 さらに波動関数の収縮が非可逆的であるということは時間の矢が客観的な存在であるという確固たる証拠といっていい。 しかし、つねに監視されている量子系においては時間が止まってしまうという驚くべき結論もまた導かれた。 この結論は時間の矢の存在に疑問を投げかける。
 量子論における観測は何かをちらっと見るといったように連続的ではなく瞬間的に行われると理想的に設定されている。 では、どの瞬間に放射性崩壊が起こるのかを連続的に原子核を観測したらどうであろうか。 テキサス大学のミスラとスーダルシャンはこの状況では原子核は決して崩壊しないことを示した。 これは「やかんを見つめていると湯は沸かない」ということである。 観測が連続して行われると原子は崩壊できない状態に置かれたままになり別の元素へと変わることができない。 しかし、連続した観測という概念もまた理想的な設定であり最終的には崩壊は起きる。 しかし、これらの極端に誇張されたふたつの観測はどちらも当惑させられる。 明らかに何かが起こるように誘発されるか、何も起こらないかのどちらかである。 シュレジンガーの猫の思考実験で、もし箱を透明にして中が見えるようにすれば我々が見続けるかぎり猫は生き続けることになる。
有と無の狭間
 我々が現実として生きているこの世界は、無と有が混在した不可思議な宇宙である。 無からさまざまな有が生まれ、またさまざまな有が無に消滅している。 その様は、まさに川面に浮かぶ「泡沫(うたかた)」のようであり、かつ生まれ、かつ消えているのである。
 その様相は人間の生死も同様であり、朝の紅顔、夕べの骸骨であり、生きる(有)と、死せる(無)は、日々繰り返されている。
 有と無は、また創造と破壊に換言される。 生きている者のひいき目では、どうしても生や創造の「有」に執着してしまうが、実は対極である死や破壊の「無」こそが、探求されなければならない。
 この両極を繋ぐ時空のトンネル(ワームホール)は今では使われなくなった「思惟」という思考法によって開削されるのではなかろうか? 着想は突如として訪れた。
 私はこのエッセイで「Pairpole」の対称性と、その対称性が破れた「Pairpoleの狭間」について探求を進めてきたが、この世における根源的な Pairpole とは、この「有と無のPairpole」ではあるまいか?
 Pairpoleの狭間は対称性が崩れた刹那の空間であり、エネルギが活性化している空間である。 有と無の狭間もまた同様に対称性が崩れた刹那の空間であり、有から無への消滅と、無から有への発生で、沸き立っている。 物理学的に表現すれば有と無のエネルギが「ゆらぎの状態」にある。
 我々が生きるのは、この有と無の狭間にある刹那の空間(世界)であり、我々の実相は、有でも、また無でもなく、その有と無の相転換が織りなす態様である。 我々はその有と無の相転換の狭間で、「変幻自在」であり、「万能自在」である。 しかして、その相転換を制御するものが 「思惟」 であり、有と無の世界を繋ぐ「意識ワームホール」もまた、この思惟によって発見されるであろう。
思惟半跏像への回帰
 有の世界と無の世界を繋ぐ思惟とは何か? 換言すれば、生の世界と死の世界を繋ぎ、創造世界と破壊世界を繋ぐ「思惟の実像」とは何か?
 我々の常識からは、生の世界から死の世界に瞬時に相転換できるような意識が存在するなどとは考えられない。 我々の常識的な意識とは生の世界を説明する原因と結果で構成された「時間的な因果律認識」とあれとこれから構成された「空間的な選別認識」のふたつの意識である。
 この常識的意識に拘束されている限り、我々の意識は生の世界から死の世界に、創造世界から破壊世界に、瞬時に飛ぶことなどできない。 つまり、有の世界と無の世界の狭間を自在に制御する思惟には到達できない。 我々の意識構造は有の世界のみを制御する狭義の思惟であり、真の思惟とは無の世界をも同時に制御できなければならない。
 般若心経が言う「色即是空 空即是色」の思惟はその構図に近いが、「有ると思うと無い 無いと思うと有る」などという意識は一般常識では理解に苦しむものである。 また禅で言う「無の概念」の思惟もその構図に近いが、「10段しか無い階段の11段目を登れ」などという意識もまた一般常識では意味が難解である。
 思惟の一般概念もまた現代日本の中では、今や消滅の危機に瀕している。 ただ思惟という語句で誰しも思いあたるものは 「思惟半跏像(しゆいはんかぞう)」 ではなかろうか。 俗称「弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)」と呼ばれ、京都広隆寺、奈良中宮寺の弥勒菩薩像が有名である。 私は奈良中宮寺の弥勒菩薩像しか見てないが、漆黒の優美な像であり、飛鳥時代の作であると言われる。
 奈良中宮寺の弥勒菩薩像について、和辻哲郎はその著「古寺巡礼」で以下のように書いている。
 少々うつむきかげんに腰をおろし、右足を左足の上にのせ、左手はその右足をおさえるように置かれ、右手はほほにふれるか、ふれないように添えられている。そして、なにより美しいのは、その「思惟」の表情であった。 目は軽くとじられ、口もとに何とも言えぬほほえみを浮かべている。 それは静かな、そして深く考え込むというよりは、瞑想にひたっているようである。 口もとに浮かべたほほえみはアルカイック・スマイル(古典的微笑)などと言われ ・・ およそ愛の表現として、この像は世界の芸術の中に比類のない独特なものではないか。 これよりも力強いもの、威厳あるもの、深いもの、あるいはこれより烈しい陶酔を現すもの、情熱を現すもの、それは世界に希でもあるまい。 しかし、この純粋な愛と悲しみとの標号は、その曇りのない専念のゆえに、その徹底した柔らかさのゆえに、おそらく唯一の味を持つ ・・ 古くは古事記の歌から、新しくは情死の文学まで、ものの哀れと、しめやかな愛憎を核心とする日本人の芸術は、すでにここにその最もすぐれた、最も明らかな代表者をもっているのである。 あの悲しく貴い半跏の観音像は、かくみれば、われわれの文化の出発点である。
 尼寺としての静かなたたずまいをもつ境内を歩き、この思惟の像と最初に対面したのは、私がまだ22歳の若年であった頃、晩秋の柔らかい陽射しがふりそそぐ、とある日の昼下がりであった。 だが30年の歳月が経過した今も、その日のことが鮮明に思い出されるのである。 およそ「思惟の実像」は、すでに当時、この像の中に凝縮され、充分に顕現していたのであろうが、悲しいかな、その意味を理解し、思惟の実像に回帰するのには、30年の歳月の経過が必要であったということであろうか ・・・。
 和辻哲郎は、思惟とは、思いとも、考えとも、違うと言い、「瞑想」に近いと言っている。 この種の瞑想は、インドの「ヨガの修法」の中に、また西欧の精神心理学で言うヒーリング法「超越瞑想」の中にも顕れている。
 これらの瞑想が、有と無を繋ぐ「意識ワームホール」の発見に至る道筋を提示するのかもしれない。 おそらく弘法大師、空海もまた、深山幽谷の中で瞑想することにより、有と無の世界を自在に制御する意識ワームホールを発生させる「思惟」の意識操作に到達していたものと推量される。
 これらを形象として表現したものが思惟半跏像「弥勒菩薩像」に他ならず、今もなお古都奈良の西の京、斑鳩の里に、凛として、この「うつせみの世」に向かって一点の光彩を放っている。
 思いとも考えとも異なり瞑想に近いという思惟。 その思惟を背負った弥勒菩薩とは、釈迦の弟子で、死後、天上の兜率天に生まれ、釈迦の滅後、56億7000万年後に再び人間世界に下生し、出家修道して悟りを開き、竜華樹の下で三度の説法を行い、釈迦滅後の人々を救うといわれている菩薩である。
 弘法大師、空海は自らの入定(臨終)に先だち「私は兜率天へのぼり 弥勒菩薩の御前に参るであろう そして56億7000万年後 私は必ず弥勒菩薩とともに下生する」と弟子たちに遺告したという。 空海は若き日より兜率天の弥勒菩薩のもとへ行くことが生涯の目標であったのだが、その思いは終生に渡って、ゆらぐことはなかったのである。
 56億7000万年という時間は想像を絶する長さである。 だが思惟が意識ワームホールを発生させるものであるならば、想像を絶するその長さも「瞬く間」である。 空海はそのことをすでにしてわかっていたのであろう。
思惟と共時性
 有の周りには無が漂っている。 有は単なる有ではなく、無が付帯した有である。
 私は機械工学メカニズムの開発技術者であるが、とある技術的課題が解けずに数年考え続けることがある。 その解けない課題の解決策(アイデア)が、ある日、考えるでもなく考えていてる意識状態の中で、突然ひらめくように、天から降ってくるように顕現することがある。 それは車を走らせていて、とあるトンネルをぬけた瞬間であったり、電車に乗っていて、ぼんやりと車窓の風景を眺めていた瞬間であったりした。
 このような現象の意味は、「ある場所(有)」には、「ある意識(無)」が付帯していると考えると納得がいく。 このある場所という有と、ある意識という無を、連結させるものが「意識ワームホール」ではなかろうか?
 前述の例で説明すれば、トンネルの出口(有)と、技術的課題の解決策(無)とを、連結させた、考えるでもなく考えている、ぼんやりとした意識状態が、「思惟」であり、その思惟が、有と無の世界を繋ぐワームホールを、時空に開削したという構図である。
 この世に存在するあらゆる有には、それぞれ固有の無が付帯しており、その有と無の連結は、その有と無の狭間に漂う、思惟によってもたらされるのではあるまいか?
 この意識メカニズムは、心理学者ユングが提唱した「共時性」に相似する。
 時間軸に垂直な宇宙(刹那宇宙)の各部分を連結させるものが、共時性であろうということは以前に書いた。 刹那宇宙は時間軸に添って構成されている連続宇宙の断面宇宙であり、時間 0 の空間である。 当然にして、時間経過で顕現する因果律は存在しない。
 共時性とは、この刹那宇宙の各部(各場所)が、連鎖関連する現象であり、その連鎖を可能にするものが、この刹那宇宙に象出する「意味ある符号」の存在である。
 何となく、あの人が通りの向こうからやって来るのではないかと思った瞬間に、その人が顕れるといった現象は、因果律では説明できない。 このような現象に出逢うと、我々はもっぱら、それを「偶然」という言葉に置き換えて、処理してしまう。 だが、人によっては、その現象の中から、何らかの「意味ある符号」を見出す。 その符号が、次なる展開での重要な原因となり、ある結果に行き着く。 例えば、結婚することになる。 このような時、人は「運命の出逢い」などと表現する。
 ユングが言う、この「意味ある符号」を、有と無を連結させる「思惟」の別表現と考えたらどうであろうか。 「意味ある符号」と「思惟」は限りなく相似する。 つまり、心理学者ユングは、有の周りに漂う無の構図を「共時性」という言葉で表現し、その有と無を連結させる意識ワームホールを構築する思惟を「意味ある符号」という言葉で表現したのではなかったか。
 「ある場所」には、「ある意識」が付帯している。 換言すれば「ある空間」には「ある意識」が付帯している。 そのある意識を惹起させるものがユングが言う共時性における「意味ある符号」である。 意味ある符号で惹起された意識は時空に「意識ワームホール」を発生させ新たな時空との会合を可能にする。 その会合こそが私が言い続けてきた「時空のめぐり逢い」の真象に他ならない。 ここで出逢う時空とは意識世界の事象ではなく実在としての現象世界である。 つまり、意識ワームホールという意識的存在から物理学が述べる物質的存在としての「ワームホール」への相転換である。
我、ワームホールに跳躍せり
 行動は万巻の書に勝ると言われる。 大統領を狙った一発の銃弾の発射に要する行動の時間はたかだか10秒に満たない。 しかし、歴史はこの銃弾の痕跡を数十年、いや場合によっては数百年留める。 数十年の思考を記録した幾千ページの書物は数日を経ずして忘れられる。 行動の宇宙への影響力と思考の宇宙への影響力の格差である。
 陽明学の根本思想は「知行合一」である。 知って行わざるは知らぬに同じという考えであり、「知行は一致してこそ宇宙存在たりえる」という説である。 大塩平八郎の乱や、近くは市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乱入し割腹自殺を遂げた三島由紀夫などがこの思想の具現者である。 それゆえに危険思想であると非難される面でもある。 三島の著書「行動学入門」によれば、行動とは日本刀に似て、いったん目的に向かって鞘から抜き放たれたいじょうはその目的を達しなければ、再び鞘に収まらないものであるとする。
 行動を開始するまでは思考するが開始されるや思考は行動が終了するまで停止する。 それは思考の矢は時間の矢と同じく、今の今では停止する状況に似る。 これを「刹那」と言う。 日本刀は刹那の瞬間空間を一閃するのである。 その一閃こそが行動である。
 刹那の意味は刹那では認識されず、意味もまた知覚できない。 行動もまた行動の途上では意識されず、意味もまた知覚されない。 意識され知覚されるのは行動の終了時である。
 日本武士道の教則と言われる「葉隠」は、如何に工夫すれば思考が停止するのかを教えたものでもある。 その内容は武士道とは死ぬことと見つけたりという雑念を取り去ったところに発現する「純粋行動の美学」である。 日本の歴史風土が生んだ「狂の時空間」である。 狂とは現代の語感がもつ否定的な意味ではなく、本来は酔狂、狂言のように純粋精神の「もの狂い」を意味する肯定的な言葉である。 ある種の集中心の昇華である。 このもの狂いを体現化した武士道こそ世界の人々が日本民族に抱いた唯一の畏敬の念であった。
益荒男の たばさむ太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて 今日の初霜
 三島の辞世の句は行動の特性と意味をよく表現している。 だが三島は本来は思考の人である。 初期の作品「金閣寺」から死の前日完成した「天人五衰」まで、限りなく思考した。
 三島は文学者であるとともに、宇宙時空間を意識した物理学者のごとき怜悧な文章で作品を構築した。 その彼が死を前にして、最後にたどり着いた時空間とは「音や動きを失った真青な雲ひとつない空と、その下に広がる緑の松山と、ひざかりの陽を浴びてしんと静まりかえった尼僧院の白い石庭の風景」であった。 (天人五衰最終章の記述)
 およそ人間もいなければ、生物の匂いもしない、どうやら時間さえも停止している無機質的な空間である。 生命とはまったく正反対の極に存在する空間である。
 存在と無の関係。 存在は無から生まれ、無は存在から生まれる。 おそらく三島は宇宙のこの根元構造に至ったのではあるまいか。 生きた三島が最後に記述した、この宇宙の断章こそ、我々の存在の意味を発生させ、生命の躍動を可能ならしめる宇宙の「陰の全貌」ではなかったか。
 彼はその存在と生命を生んだ羊水の中に没し去ったのである。 この羊水の海にこそ、つぎの存在と生命を再生する宇宙の母性が満ちている。
 彼は最終作を「春の雪」、「奔馬」、「暁の寺」、「天人五衰」の4部構成とし、全体の表題を「豊饒の海」とした。 この豊饒の海こそ、宇宙生命を生みだす「羊水の海」であろうし、4部構成は輪廻転生の波動循環の擬態であろう。 物語の起承転結の中に「宇宙四季の循環」をこっそりと織り込んだのである。
 まさに、それは無から波動が生まれ、その波動から宇宙が生まれた物理学的宇宙記述そのものに一致する。 これは単なる偶然ではあるまい。 彼の行動は自殺などではなく、科学理論が突破することができない特異点の突破であったのかもしれない。 彼は物理学が説明する時空のトンネル、「ワームホール」を見つけ、そのホールに跳躍し、未知なる宇宙に旅立った宇宙飛行士のようである。 そのワームホールがどこにつながり、どこに出るのか。 過去の時空なのか。 未来の時空なのか。 とまれ、彼はそれに賭けたのである。
 三島由紀夫はノーベル賞にとどくとまで言われた文学の徒である。 だがその作品を読むとあたかも理論物理学者のごときの宇宙観と怜悧な論理性で緻密に構築されていることに驚かされる。 あるいは三島は科学者をめざしても大成した人であったのかもしれない。
多世界宇宙解釈
 多世界宇宙に関しては「パラレルワールド」で詳述しているので再度の説明は割愛するが、そこでは量子の2重性(粒子性と波動性)の解釈として平行宇宙が論じられている。 要点のみ言えば「量子は観測が行われるたびに、次々に平行宇宙へと分岐し続ける」ということである。
 この帰結に不確定性原理を援用すれば、「量子の位置(粒子性)と運動量(波動性)の2つを同時に観測することができない」となる。 観測が同時にできないとはすなわちそこは波動理論における「宇宙の分岐点」ということになる。
 さらにどちらかの宇宙を観測したとたん、他方の宇宙が観測できないとは、2つの宇宙の境界には科学理論が破綻してしまう「特異点」が横たわっていることを示している。 互いの宇宙を「同時にのぞき見ることができない」のはそのためである。
 どちらの宇宙を見るかは観測次第である。 いうなれば「いずれの宇宙を観測するか」という「きっかけ」次第である。 さらに言えばそのきっかけとは「いずれの宇宙を見たいか」という「あなたの意思次第」ということになる。
 それはまた物質を追求してきた物理学が意識を追求する心理学に転じる重大な分岐点であるとともに、その分岐点こそ「多世界宇宙をつなぐワームホール」の入り口なのかもしれない。
では「同時とはすなわち宇宙の分岐点」とは何を意味しているのか?
 宇宙の分岐に不可欠な行為とは「観測」である。 であれば観測を時間に置きかえることに特段の不都合は生じない。 「観測=時間」という等価原理である。 「観測の継続」とは「時間の継続」であり、それはすなわち新たな宇宙への「分岐の継続」であり、分岐に応じた宇宙が次々に発生する。 おそらくはこの「連続したメカニズム」そのものが「時間の正体」であろう。
 そしてまたこのメカニズムを起動する観測とは「あなたの観測」であることも忘れてはならない。 あなたが観測を継続するかぎり、このメカニズムは稼働し続ける。 時間が流れるという感覚は、あなたの観測の母体である「あなたの意識の流れ」そのものをあらわしている。 逆に意識の流れが停止すれば、時間の流れもまた停止するであろう。 であればあなたの意識の流れをゆるやかにして、時間の流れをゆるやかにすることもまた可能である。
 貴方が何を観測するかによって宇宙は次々に新たな宇宙に分岐するという多世界宇宙解釈はワームホールの性質を能弁に語っている。 また導かれた「観測=時間」という等式は時間の正体をも明らかにしているように観える。 貴方の観測とはまた貴方の時間であって、貴方の人生を構築する根源的な原動力である。
宇宙とは現象である
 ジョン・アーチボルト・ウィーラー(米1911〜2008年)はニールス・ボーアの弟子にしてアルベルト・アインシュタインの共同研究者でもあった「詩心をもった物理学者」である。 「ワームホール」や「ブラックホール」の命名者としても知られている。
 ウィーラーは「現実はすべて物理的なものではないかもしれない」と問題提起した最初の物理学者である。 我々の宇宙は「観測行為と意識を必要とする参加方式の現象かもしれない」というのである。 ウィーラーは「人間原理」の普及にもひと役かった。 人間原理とは「宇宙がこのような状態になっているのは、もし他の状態だったら人間がここにいて宇宙を観測することができないから」という人間主体の原理である
 空海が遺した「生まれる前に宇宙はなく、しかして死して後に宇宙はない」という「太始と太終の闇」を物理学的に換言すれば、ウィーラーが言うように「宇宙とは観測行為と意識を必要とする参加方式の現象」と訳されることになるのかもしれない。
 つまり、「宇宙とは現象である」と。
 もっとも詩心をもった物理学者のウィーラーであってみれば、かくなる表現もまた空海どうように多分に文学的な修辞なのかもしれない。
 もしウィーラーが言うようにこの宇宙が現象であってみれば、我々が今、世界と言っている宇宙もまたさまざまなワームホールで繋がった多世界宇宙(パラレルワールド)の中の変哲なきひとつの「ワールド」ということになる。
余話として
 「思惟半跏像への回帰」では、思惟の源流として奈良斑鳩にたたずむ中宮寺の弥勒菩薩像をとりあげた。 だがその弥勒菩薩像の横に置かれていた「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」にはふれなかった。
 天寿国繍帳とは聖徳太子の死後、妃の橘大郎女が中心となり、太子追悼のために織らせた繍帳である。 その繍帳の中に「世間虚仮 唯仏是真」という聖徳太子の言葉が縫い込まれている。 この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるという意である。
 生涯に渡り弥勒菩薩に帰依していた弘法大師、空海はおそらく弥勒菩薩像はもとより、この天寿国繍帳のことも知っていたに違いない。 あるいはこの斑鳩のささやかな堂を訪れたかもしれない。
 弥勒菩薩を中央にして聖徳太子と弘法大師がともに会合する形は象徴的である。 それはユングの共時性を目の当たりに感じさせる光景である。
 かくして三者の魂が行き着いた思惟とは、「宇宙とは現象である」というワームホールの命名者、ジョン・アーチボルト・ウィーラーの感慨であった。
 聖徳太子が後世に遺した「世間虚仮」とは、現代語に換言すれば「宇宙は現象」ということになろうし、弘法大師、空海が遺した「太始と太終の闇」と題された詩文、「生の始めに暗く 死の終わりに冥し(生まれる前に宇宙はなく 死んだ後に宇宙はない)」もまた究極では「宇宙は現象」という認識に収束する。 勿論、もの言わず静かに瞑想する弥勒菩薩もまたその現象世界に遊んでいる。
 かって弥勒菩薩像のもとを訪れたときには天寿国繍帳も目にしていたはずなのであるが ・・ ついぞ、ここまでは思考をめぐらすことはできなかった。 そこには弥勒菩薩、聖徳太子、弘法大師をワームホールに導いた共時性(意味ある符号)が象出していたのであろうが、哀しいかな若輩の身であった私にはそれと感じることができなかったのである。 歳月はめぐり、ここでめぐり逢うのもまた共時性に導かれた思惟の縁であろう。
 かくして、さまざまなワームホールを巡った一連の探求は「宇宙とは観測行為と意識を必要とする参加方式の現象である」という帰結に行き着いた。 参加方式の現象とは、あなたの意識参加なくして、この世は存在しないということである。 それはまた、あなたの意識がいかなるワームホールを通って、「どこに生まれ」、「どこに遊ぶ」のかは、自由な人生の賜ということを意味している。

2016.12.29


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