Linear ベストエッセイセレクション
新たな地平を求めて
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知らない宇宙は存在しない
 行き詰まった世界を打開する最良の方法は「新たな地平を探す」ことである。
 オーストリアの理論物理学者、エルヴィン・シュレジンガー(1887〜1961年)が構築した波動理論によれば、新たな地平は「観測」によってもたらされる。 もっともシュレジンガーは新たな地平などという言葉を使ったわけではなく、波動方程式における波動関数の収縮によって、ひとつの宇宙が発生すると言ったのであるが。
 だが観測によって宇宙が発生することは、いまだ何も発見されなかった宇宙の彼方に、ある星雲が発見されれば、宇宙はその星雲の周辺まで拡大されるという天文学の常識からすれば、もとより当然と言えば当然のことではある。
 かかる思考の連鎖はやがて「知らない宇宙は存在しない〜存在するとは観測することである」という箴言に帰着する。
 したがって、探すべき新たな地平は、知ること(観測すること)で拓かれる。 日本古来の「見ざる 聞かざる 言わざる」のことなかれ主義や、昨今はやりの「引きこもり」の生活習慣では、事態はいっこうに改善されない。 要は知ろうとすることであり、見つけようとすることである。
あなたあっての宇宙
 「宇宙の構造とメカニズム」と題した中学生に向けた講演の中で「宇宙とは容器のような空間に物質が存在しているのではなく、物質が空間を発生させているのだ」と語った。 2003年のことである。
 前者は「空間があっての物質」であり、後者は「物質があっての空間」である。 空間と物質の主客は互いに逆である。 一般的には前者の考え方を採る人が大半であろうが、この考え方を採ると「宇宙の果て」と「時間の始まりと終わり」という人類が抱える永遠の謎(特異点)に直面してしまう。
 後者の考え方を採った私は、宇宙に「大きさはなく」、時間は「流れない」とする考えに帰着した。 つまり、宇宙とは「仕組みという概念」であって、「大きさという概念」ではないとする宇宙モデルである。 この「宇宙モデル(Pairpole宇宙モデル)」では「宇宙の果て」や「時間の始まりと終わり」の謎(特異点)は曲がりなりにも解消している。
 だがそのとき付言した「皆さんという物質的な存在があることで 皆さんの周りに 皆さんの時間と空間が 生まれているのです」という説明を、当時の中学生はいかに聴いたのであろうか?
 したがって、探すべき新たな地平は、その地平(空間)を発生させている主体である「あなた自身の周りに」拓かれている。 童話「青い鳥」のように、幸せの青い鳥は「自らの窓辺にいる」のであって、「山のあなたの空遠くにいる」のではない。 「汝自身を知れ」とは古代ギリシアの格言であり、「灯台もと暗し」は日本古来の諺である。
犬も歩けば
 「未来の発生」では、シュレジンガーの波動理論における「観測問題」をさらに掘り下げ、「宇宙の発生」を視点を変えた「未来の発生」へと展開した。 「観測によって発生する宇宙」と「選択によって制作される未来」との強い相似性に着目したのである。
 その相似性を等価原理を使って意味づけると、「新たな宇宙の制作とは何かを選択する」ことであり、「新たな未来の発生とは何かを観測する」ことであると変換される。 この認識転換は両者のアプローチに多大な示唆をもたらした。 巷間しばしば言われる「犬も歩けば棒に当たる」とは「出逢った棒(観測)による新たな未来の発生」を示唆していたのである。
 未来は選択肢を考え、考えた選択肢を選択することによってのみ制作されるのではなく、この世界(宇宙)のどこかで(局所で)何かを見つけても(観測しても)制作されうるのである。 つまり、犬は「出逢った棒によって未来(新たな地平)を見つけた」のである。
 したがって、探すべき新たな地平は、思考をめぐらして未来の選択肢を考えるだけではなく、時には思考を停止し、犬のようにあとでなく津々浦々を歩き回ることも必要である。 路傍にたたずむ犬の眼差しは、あるいは「あなたの未来」を見据えているのかもしれない。
意識の地平
 「物質の地平」と「意識の地平」は相対するペアポールである。
 新たな地平はその2つの地平が交錯する狭間に拓かれている。 物質の地平とは自身の周りに広がる「外なる宇宙」であり、意識の地平は自身の中に広がる「内なる宇宙」である。
 現象学を創始したオーストリアの哲学者、エトムント・フッサール(1859〜1938年)は、我々が見る現象世界(物質の地平、外なる宇宙)は、我々の意識が編集した心象世界(意識の地平、内なる宇宙)であるとした。
 現代人の編集基準である「科学的認識」は「最大」にして「最強」の編集ツールである。 現代人が眺める意識の地平はこの編集ツールを使って編集された地平である。 他方、古代人が眺めた意識の地平とは神や霊にもとづく認識で編集された地平であった。 山には神聖が住み、森には精霊が住む世界である。 科学的編集基準はそれを一変させてしまった。 現代人が眺める山は標高 000m の山であり、森は面積 000ha の森という数値データで構築された世界である。
 我々現代人はどこかで大きな間違いを犯してしまったのかもしれない。 なぜなら、我々は新たな地平を求めているのであって、新たな科学データを求めているのではない。 科学データは新たな地平を拓く手段であって目的ではない。 現代人はあまりに万能な科学的編集ツールに酔いしれているうちに目的と手段の本末を転倒させ迷路に陥ってしまったのではあるまいか?
 したがって、探すべき新たな地平は、地平のもととなる意識の編集基準を再構築することである。 そのためには、科学的認識はあくまでも目的ではなく、新たな地平を拓くための手段であることを胆に銘じて忘れてはならない。 さすれば目から鱗が落ちるがごとくに新たな地平が観えてくるに違いない。
主体は世界に属さない
 オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)は「主体は世界に属さない それは世界の限界である」という独我論を提唱した。
 この世界の限界とはどこにあり、世界の限界とはいったい何を意味するのか?
 「私の見る世界の視野に 私自身の眼は含まれない 私の眼はながめる世界の視野の限界に位置している」というときの限界とは世界を眺めている私自身の「眼」である。
 この限界(境界)の両側には、いったい「何が」あるのか? この限界(境界)の向こう側に広がる世界は、物質を主役とする現象世界であり、限界のこちら側に広がる世界は、意識を主役とする心象世界である。 その境界面(限界面)に私自身の「眼」が位置している。
 現象学を創始したオーストリアの哲学者、フッサールは、我々が見る現象世界は、我々の意識が編集した心象世界であるとしたことは上記した「意識の地平」で述べた。 それをもとに私は、新たな地平は現象世界と心象世界が交錯する「狭間」に拓かれているとした。 その狭間に位置するものとは、ウィトゲンシュタインが言う「世界視野の限界である私の眼」のことに他ならない。
 「現象と心象の境界」では、その「狭間」と「限界」について述べている。 論考は終段に至り 意識が物質を発生させるのか? それとも物質が意識を発生させるのか? という根本的な問いに帰着している。 還元すれば 意識に物質が宿るのか? それとも物質に意識が宿るのか? という根源的な命題である。
 したがって、探すべき新たな地平は、かかる根本的な問いと根源的な命題を突破したところに拓かれるはずであるが、いまだにその僥倖に出逢えてはいない。 時空の旅は遥かなりの感慨ひとしおである。
余話として
 本項を書き進めていくうち、論考に登場した波動理論を構築した物理学者のシュレジンガー(1887〜1961年)、意識の地平を展開した哲学者のフッサール(1859〜1938年)、主体は世界に属さないと主唱した哲学者のウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)がそろってオーストリア人であったことに気がついた。 生きて活躍した年代もほぼ同じである。 さらにはあのアドルフ・ヒトラー(1889〜1945年)もまた同時代人としてそのオーストリアに生まれている。
 かく列挙しただけで、彼らが生きた時代の激動のバックグラウンドが彷彿と浮かんでくる。 そこにあったものとは、新たな地平への激しい渇望感であっただろうし、やむにやまれぬ使命感でもあったであろう。 生涯を賭けて貫いた光跡は時空を超えて今もなお褪せることなく輝いている。
 以下の記載は、著書「Pairpole」に掲載されている「アロサの黒婦人」からの抜粋である。 シュレジンガーの波動理論構築の物語であるが、上記の時代背景を念頭においてお読みいただければ幸いである。
「アロサの黒婦人」
 シュレジンガーの波動理論はダボスのスキーリゾートの近くの保養地アロサに愛人とともに滞在していたおよそ12ヶ月の間に書き上げられた。 後の科学にあまりにも偉大で、かつ計り知れない影響を及ぼした創造的思考はこの奇跡の時間の中でなされたのである。 シェイクスピアのソネットに謳われた黒婦人のようにアロサの婦人は今も謎のままである。
 物理学と化学で用いられるすべての方程式を説明するこの理論は画期的であり強力な知的思考ツールである。 彼の方程式には「波動関数」と呼ばれるまったく新しい量が登場する。 波動関数は物質の粒子性と波動性の両面の性質を考慮し、ふるまいのすべてを詳細に説明している。 また彼はボールのような巨視的物体の場合はニュートン力学の各方程式へと書き直されるように組み立て日常世界でも使えるようにしたのである。
 その後、マックス・ボルンにより波動関数の2乗がある瞬間にある場所でその粒子を見つける確率を示していることがわかった。 すべての系は波動関数により説明され、ある瞬間にある位置で(ある時空間で)あるものが見つかったとたんに、このすべての可能性を示していた波動関数が収縮し、その時空間はあるひとつのものに現実化する。 この収縮は観測や測定という行為によってなされる。
 街の歓楽街には幾多の飲食店がひしめいている。 私がそのどこかの店に入る前までの状態は波動関数により説明される。 それはさまざまな可能性の数式である。 それが、私がとある店のドアを開けたとたんに収縮しその可能性の中のひとつが現実化する。 それは、私がその歓楽街の他のいかなる店にもいないことの確定であり、その歓楽街全体の波動関数は収縮しその歓楽街もひとつの時空間として現実化し固定される。
 私とその歓楽街に位置するさまざまな店との間には確率的に幾通りもの道筋がある。 ファインマンの「歴史総和法」によれば、私はありとあらゆる可能な道筋を試そうとする。 私は何らかの方法でその歓楽街の時空間全体に広がっており、まったくでたらめな方法ですべての店につながっているとともに、その私が私自身と干渉しあっている。 私は同時に歓楽街のすべての店に存在し、かつどこの店にも存在しない。 しかし、私がとある店のドアを開けるやいなや、言い換えれば、その歓楽街の片隅のその店という局所で私が観測されるやいなや、確率的可能性でしかなかった宇宙から、たったひとつの宇宙に収縮し、その宇宙の片隅のとある繁華街のとある店のまわりに広がる時空間全体を現実化し固定化するのである。
 私にはシュレジンガーの波動理論に登場した波動関数こそが姿を変えた「アロサの黒婦人」のように思える。 彼はその黒婦人に魅入られ、そして導かれ、奇跡のような12ヶ月におよぶ創造的思考を実現したのであろう。 そして、それはまた我々が生きている不可思議な宇宙のそこかしこに「ちらりと姿をかいま見せる謎の黒婦人」でもある。 だがこの謎の黒婦人をしっかりとつかまえベールに隠された素顔を見たものは未だ誰もいない。

2016.09.15


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