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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

知的冒険エッセイ / 時空の旅
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あの世界とこの世界が同じであること〜現象と心象の境界をゆく
 この世は、宇宙と呼ばれ、世界と呼ばれ、世間と呼ばれ、娑婆と呼ばれ、浮き世と呼ばれ ・・ その他さまざまな呼び名をもって呼ばれる。この世の呼び名が多様であることは、その実態もまた多様で複雑怪奇な様相を秘めているからに他ならない。物理学ではこの世が時間と空間で構成された世界であることをもって「時空間」という無味乾燥した呼び名をもってあてている。物理学ではこの複雑怪奇で多様性を秘めた世界を数学をもって解明に挑んでいるが、いまだに、世間ほどに、娑婆ほどに、浮き世ほどにその理解が進んでいるようにはみえない。
 以下の記述は「あの世界とこの世界」にまつわる知的探求の経過から抽出したものである。
第379回 / 時空間の同一性 / 2004.2.03
 時空間の同一性はいかにして保証されるのであろうか ・・?
 私の1時間とあなたの1時間の同一性はいかに保証されるのであろうか ・・?
 あなたの恋人と語らう1時間は5分間に感じられ、私の虫歯を治療する5分間は1時間に感じられる。  この時、あなたの1時間と私の1時間は同一なのであろうか ・・?
 入学試験における合否の判明時間は、志望校の門前に張り出された合格発表を直接見て結果を知る東京在住の受験生と、送達された合否通知で結果を知る地方在住の受験生とでは、東京時間と比較し地方時間の方が引き延ばされる。
 地方在住の受験生は合否通知が送達され開封するまで合否結果は判明せず、世界は決定していない。(量子論的解釈では波動方程式の波動関数が収縮していない状況を示す)
 一方、志望校の門前に張り出された合格発表を直接見て結果を知る東京在住の受験生は、「その瞬間に」、合否結果は判明し、世界は決定する。(同様に量子論的解釈では波動方程式の波動関数が収縮する状況を示す)
 地方世界にいる受験生は、東京世界にいる受験生の「その瞬間」よりも、合否通知が送達される時間だけ引き延ばされる。つまり、志望校の入学試験の合格、不合格の確定時間は東京と地方では同一性が保証されていない。
 シュレジンガーの波動理論によれば、宇宙は波動関数の収縮によって発現する。波動関数の収縮とは、つまりは宇宙を意識をもって「観測する(知る)」ことに起因する。宇宙は時間と空間で構成された世界(時空間)であり、その時間と空間は分離不可分の一体的存在である。つまり、時間が空間を連れて来るとも言えるし、また空間が時間を連れて来るとも言える。
 シュレジンガーの波動理論からすれば、時空間は宇宙を「観測する(知る)」ことによって発現する。
 恋人と語らう時間は「二人の世界」に意識が埋没しているがゆえに、つまり、周りの宇宙を観測しないがゆえに、意識が埋没せずに、つまり、周りの宇宙を次々に観測する「二人の世界」以外の人々の世界よりも、時間はゆっくり経過する。従って、周りの人々の時間が1時間経過したとき、幸せな彼等の時間は5分間しか経過していない。だが幸せな彼等も、意識の埋没から「ふと我にかえり」、周りの宇宙を観測した「瞬間に」、二人の世界は、いっきに周りの宇宙に同化収縮し、周りの宇宙時間に一致、「あー、もうこんなに時間が経ってしまった」ということになる。
 虫歯治療に要する時間は意識が鋭敏になり、その治療世界を微にいり細にいり、くまなく観測するため、周りの人々の時間よりも速く経過する。従って、周りの人々の世界では時間が5分間経過しただけなのに、虫歯治療の私の世界では1時間経過する。だが過酷な虫歯治療が終了し、鋭敏な意識集中から解放された「瞬間に」、私の虫歯治療の宇宙は、いっきに周りの宇宙に同化収縮し、周りの宇宙時間に一致、「えー、まだこれしか時間が経っていないの」ということになる。
 以上の論考は、「浦島太郎伝説」の寓話の構造をうまく説明する。
 浦島太郎は助けた亀に連れられて竜宮城に行く・・。前述の恋人と語らう時間の経過と同様、あまりに楽しい竜宮城での時間は周りの時間よりゆっくり経過する。もちろん浦島太郎は海底の竜宮城宇宙にいるのであるから、太郎が生まれ育った地上宇宙は観測不能の状態におかれている。やがて、楽しき竜宮城宇宙にも飽きた太郎は「ふと我にかえり」、もとの地上宇宙に帰ろうとする。乙姫さまに別れを告げ、太郎は再びもとの海岸に帰着するが、この時点ではまだ太郎の時間は、周りの宇宙時間に対して遅れており、いまだ太郎は青年のままである。しかし、海岸で遊ぶ子供らの話を聞くうちに、太郎の両親、友だちが、とうの昔に死んでしまっていることを「観測する(知る)」。この観測という行為そのものが、太郎が「玉手箱を開けるという行為」に他ならないのである。周りの宇宙を「観測した(知った)」太郎の時間は「瞬間に」、周りの宇宙時間に一致、そのとたんに、太郎自身の体も、いっきに年老いて老人となってしまったのである。寓話では竜宮城の乙姫さまからもらった玉手箱に仕掛けがあり、あたかも玉手箱を開けたことが、太郎が年老いてしまう原因のようになっているが、量子論的な宇宙発現の過程を説明するシュレジンガーの波動理論で解釈すれば、意識的観測により、波動方程式の波動関数が収縮し、宇宙が「たったひとつの宇宙」に収縮した状況を描写しているのである。
 浦島寓話の意味するところは、意識の所有者である人間はすべてが「浦島太郎」であるとする点である。ひとつの意識あるところには、ひとつの宇宙(時空間・世界)が在ることを意味する。それぞれの意識による個別の宇宙がそこかしこに在り、その個別宇宙の集合体(換言すれば、個別意識の集合体)こそが、全体宇宙を構成していることを意味する。
 我々は「ふと我にかえり」、個別意識により、周りに存在する「全体宇宙を観測する(知る)」ことにより、個別宇宙の時空間から全体宇宙の時空間に同一化を果たしているのである。つまり、時空間は個別の意識者の態様によって、「常に伸縮している」のである。また、この「個別意識の集合体」こそ、心理学者ユングの提唱した「集団的無意識」に他ならない。
 アインシュタインの相対性理論は重力場の宇宙を記述したものであるが、重力場の強弱により、時空間が異なることを述べている。(時間の伸縮、空間の湾曲等)宇宙の重力場は質量の偏在により場の強弱が不均一であるから、宇宙のそこかしこで、時間は伸縮し、空間は湾曲していることになる。つまり、個別質量世界では、時空間が異なった個別宇宙を構成しているのである。この個別質量世界を個別意識世界と還元すれば、アインシュタインが嫌った量子論的な宇宙構造と彼の構築した相対論的な宇宙構造とは、同じ構造を意味していることになる。
 相対論が提示する、光速ロケットに搭乗し、宇宙の彼方へ旅立った旅行者は、歳をとらないという話は、前述の浦島太郎伝説の寓話の構造と同じであり、地球に帰還した旅行者が、太郎と同様に地球世界を観測した「瞬間に」、地球時間に同化一致し、いっきに年老いてしまうであろうこともまた予測されるのである。
 宇宙は個別宇宙の集合体であり、各々の個別宇宙では時間も空間も同一性は保証されていない。しかしながら、各々の個別宇宙を観測した瞬間に、時間と空間は即座に一致し、同一性が保証される構造をもっている。つまり、時空間の同一性は、宇宙の局所では保証されていないが、宇宙全体ではしっかりと保証されているのである・・。
第681回 / タイムシフトウィンドウ / 2012.2.20
 この世は時空間と呼ばれる時間と空間で構成された世界である。今眺めている風景が「同一空間で同一時間の風景」であることを疑う者はいないであろう。では私が開発した「タイムシフトウィンドウ」と名付けられた映像表示ウィンドウをご覧ください。
 この映像表示ウィンドウでは、ある場所における「同一空間で同一時間の風景」が表示されているように見えて、実は「画面の各所」ではそれぞれ時間が異なっている。言うなれば「タイムシフト」されている。それはあたかもアインシュタインの相対性理論から導かれた「宇宙の各所」で時間が異なっているとした「相対時間」を現実に眺めているかのような不可思議な感覚をもたらす。
 今の今という刹那の時空間を我々は「リアルタイム(実時間)」で認識することはできない。それは目前で起きた突発的現象(例えば爆発や事故等)に対して、その瞬間では何が起きたのかがわからないという体験的事実を想起すれば了解されであろう。
 何が起きたかを知るのは若干後になる。頭の中で起きた現象を「プレイバック(再生)」して確認してみなければ何が起きたのかを把握することができないのである。つまり、我々の意識はひとときも休むことなく、少し前の時空間にタイムシフトしているのである。
 言うなれば、プレイバックとタイムシフトは等価的概念であり、その意味を還元すれば「再生」ということになる。この映像表示技術を「マルチ再生映像表示技術」と名付けた所以は「画面の各所がプレイバック再生された映像」で構成されているからに他ならない。
 ドイツの理論物理学者、ハイゼンベルク(1901〜1976)は不確定性原理の中で「ある粒子の運動量と位置を同時に正確に知ることは」原理的に不可能であるとした。同様に「ある時空間の時間と空間を同時に正確に知ることは」原理的に不可能なのである。
 タイムシフトウィンドウからの眺めはそのことを如実に教えてくれているのである。
第738回 / 想いで迷子 / 2013.06.11
 韓国の歌手、チョー・ヨンピルが歌った「想いで迷子」の中から以下の歌詞を見いだした。
時はあしたを連れてくるけど 過去のどこかで迷子になってる
 この歌がヒットした頃は何気なくメロディだけ聴いていたせいか気づくことがなかったが、今聴くと、ことを得たように魅了される台詞である。それは時空間の秘密に触れているようで「物理学」のようであり、人間心理の秘密に触れているようで「心理学」のようでもある。その説くところ、なまじの学者が唱える学説以上に真理に肉薄する。
 この台詞が何度も出てくることからして、それはこの歌の主調であり、言うなれば歌唱のサビの部分でもあろう。物語の主人公は時を流れるものという無機質なものとしてとらえるのではなく、ふと訪れる訪問者のごとく擬人化し、辛く淋しい胸の内を語る。時という訪問者は、日々「未来」であるあしたを連れて来てはくれるものの、「過去」で迷子になってしまった私には、どこにいるのか、どこに向かえばいいのかわからないまま、「現在」に立ち尽くしているというのである。
 過去、現在、未来の時空の不可思議を、じつに明確にとらえた啓示である。だがこの主人公ならずとも、我々のほとんどが同様に迷子なのである。なぜなら時などという正体不明なものの存在を誰一人として解明していないし、流れている時など見た者もまた誰一人としていないのである。
第810回 / あの道がこの道であること / 2014.06.03
 「詩人とは(第780回)」の中で述べた「あの道がこの道であることが私を苦しくさせる」という詩人、立原道造の言葉は、「思い出」というものの本質を見事に貫いている。
 あの道にあって、この道にないものとは「あの時間」である。あの道にあったものとは過去となった「あの時間」であり、それは現在のこの道にはない。現在にあるものは現在にある「この時間」である。道造のこころを苦しくさせているものとは「二度と再びあの時間にもどれない」という時間がもつ絶対的非可逆性に対する嘆きである。後悔は先には立たないのであり、覆水は決して盆にはもどらないのである。
 ではあの道にあった物理的条件(天候や環境条件等)をこの道の物理的条件として完璧に再現した場合はどうであろう。違いはあの時とこの時という時間のみである。だがそれは意識としての時間であって、意識を消滅させれば「あの道」は「この道」と同じである。それがゆえに道造は救いの道を「忘却」に求めたのである。つまり、忘却とは意識を消滅させることに他ならない。だが感受性に優れた道造であってみれば、いくら忘却を求めたところで意識ある身をもってしては、それは不可能なことであったであろう。
 物理学的な「時空間」とは時間と空間という2つの要素によって構成された宇宙である。Aという時空間と、Bという時空間の同一性は、この2つの要素の一致をもって保証されるのであるが、「時間の始まりと終わり」や「宇宙の果て(空間の果て)」という時間と空間にまつわる根源的な疑問に対する明確な解答をもっていない我々人間にしてみれば、あの時間とこの時間が同じであること、あの空間とこの空間が同じであることを、どのように保証できるのであろう。まして「時は流れず」と考えている私とすれば、あの道とこの道の違いは、時間の違いではなく、意識の違いと考えることに妥当性を覚える。
 つまり、あの道にあったものとは「あの意識」であり、この道にあるものとは「この意識」なのである。私はこのような「意識のめぐり逢い」を名付けて「時空のめぐり逢い」と呼んでいる。
 道造は苦しくはあったが、かくなる時空のめぐり逢いの中から、不思議に透明で、夢のように甘美な、純粋詩を紡ぎだし、時代を駆け抜けていったのである。 「いつかどこかで」という「のちの思い」を画したつぶやきをのこして・・・。
 以上、抽出された「あの世界とこの世界」にまつわるさまざまな視点からの知的風景をこうして眺めてみると、それはまた第889回〜892回で描いた「物質と意識の狭間 」での知的風景と同質であることがわかる。言うなれば事象の表象と裏象のような関係である。目指す真象はその狭間にあることになるが、世界の英知をもってしてもいまだに解明は進んでいない。

2016.04.19

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