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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

知的冒険エッセイ / 時空の旅
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人工知能に想う〜ロボットの真骨頂とは?
 人口知能が人間の頭脳を上回る時代が到来しつつある。人間にのこされるものとはいったい何であろうか? 人間自らが創った器物によって、人間そのものの存在が失われることになろうとは「笑い話」にもならない。だがことの本質を解ってかわからずか人類はかくなる未来に向かって邁進している。
 かって私は地方紙の松本市民タイムスに連載した「安曇野エッセイ」で当時の社会世相を描写した「飯が食えない」と題するエッセイを書いた。1999年11月のことである。
飯が食えない
 人類は2つのツール(道具)を使用してきた。 ひとつは物的ツールであり、それは工作機であり、自動車であり、コンピュータであり、電話等々である。 他のひとつは知的ツールであり、それは思考基準であり、研究基準であり、編集基準等々である。
 我々はこの2つの道具をさまざまに駆使しこのように発展した近代文明を築いたのである。しかし、ここで奇妙な状況に陥ってしまった。人間生活の物的なあらゆる利便性と効率性を達成した快適な環境に満たされた家に住んでいながらその家の主が給料が貰えず「飯が食えない」というのである。 飛行機や船や自動車でいかなる所へも行ける自由度を獲得しながら人間が生きていくに最も必要な飯が食えないとはいったいどうしたことか。こんな社会を実現するために我々はしゃにむに頑張って来たとでもいうのであろうか。これではまさに自分自身を処刑する断頭台を懸命に造って来たようなものである。
 人間はかくこのように愚かな生き物なのであろうか?
 そんなはずはなく、それは人類が刻んできた歴史が証明している。過去のいかなる時代においてもさまざまな難問が山積していたのであり、その状況に古今変わりがない。そのいずれの時代においても人類はそれらの難問がもたらす危機的状況を突破したからこそ今日があるのである。 現在の社会が遭遇している問題も整理をすれば、工業社会の発展により物的ツールの開発が極度に先行したのに対し、知的ツールの開発が立ち遅れているに過ぎない。この立ち遅れた知的ツールの発展が追いつけばこれらの問題はなんなく解決されることである。
 しかし、「まあとにかく」という特有の暫定的知的ツールでやってきた日本社会にとって「いかにあるべき」という決定的知的ツールの開発促進は難問である。 では、この今後有効な知的ツールはいかにして創られるのであろうか。 それは次の問いに答えることから始まる。
 「いかに造るかではなく 何を創るのか?」
 「いかに所有するかではなく いかに運用するのか?」
 これらの問いに答える思考の基準こそが知的ツールである。現在日本で広く流通するご都合主義的「まあとにかく」の基準では問題はなにも解決しない。 人類にとって今、最も必要な道具は今までのような便利な物(物的ツール)ではなく、その物を生かす深い知恵(知的ツール)である。
 そして、この2つの道具を縦横無尽に駆使し、人間にとって真に豊かな生活を発展させることこそ、万物の霊長と尊称される人類の真骨頂であろう。    
1999.11.17
 星霜16年を経て今読み返すと事態は予想を超えて進んでいることが自覚される。当時の世相に漂っていた閉塞感の解決策として提起した核心は「・・ 工業社会の発展により物的ツールの開発が極度に先行したのに対し、知的ツールの開発が立ち遅れているからに過ぎず、この立ち遅れた知的ツールの発展が追いつけばこれらの問題はなんなく解決されるであろう ・・・」というものであった。 だが今問題にされていることは、その「知的ツール」を創りだすのが人間の頭脳ではなく、「人工知能」というコンピュータ化された頭脳に成り代わっていくところにある。 本稿末尾に置いた ・・ この2つの道具を縦横無尽に駆使し、人間にとって真に豊かな生活を発展させることこそ、万物の霊長と尊称される人類の真骨頂であろう ・・ とする結言そのものが根底から揺らいでいるのである。
 まごまごしていると、その結言は次のように書き換えられることになる ・・ この2つの道具を縦横無尽に駆使し、ロボットにとって真に豊かな生活を発展させることこそ、万物の霊長と尊称されるロボットの真骨頂であろう ・・・ と。

2016.03.26


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