Linear
未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

知的冒険エッセイ / 時空の旅
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共時性に想う(1)〜ふと発生する宇宙
 科学哲学エッセイ「Pairpole」(平成11年2月28日初版第1刷発行)で描かれた「ふと発生する宇宙」と題する小論を以下に抜粋する。
 私は車を運転している。先ほどからお腹がすいており、どこかで食事をしようと思っている。道路沿いにはさまざまなレストラン、食堂、ドライブインが点在している。私は何が食べたいのか考える。「スパゲテイでも食べよう」私はハンドルを切りとあるレストランに入った。ドアを開けると人の良さそうなマスターがカウンターでなじみ客と笑いながら何事かを話している。私はひとつのテーブルに腰を掛けメニューに目をおとす。マスターが私に近づき話かける「何にしますか」、私が答える「スパゲテイのナポリタン」と。
 マスターは遠ざかり、私はタバコを取り出し火をつける。空中に煙を吐き出しながらふと考える。 このレストランの世界はどうして私の回りに存在しているのか・・? この宇宙はどうして発生したのか・・? おそらく、このレストランは私が訪れる前にも長い間ここに存在してきたのであり、マスターの人生と生活が存在し、それをとりまくさまざまなお客が存在してきたのである。 私はそれを知る由もない。私にとってみればこの世界は、このレストランのドアを開けるまでは存在しなかった。もちろん私が入ることにおいては、他のレストランでもよかったことである。「たまたま」スパゲテイが食べたくなり、「たまたま」目についたレストランに入ったのであるから。 きっともう少し車を走らせて入ったレストランであれば、また違った世界であったであろう。 美人のウエイトレスが注文をとりに来たかもしれない。 またぞろ同じマスターが登場することはないであろう。
 宇宙の発生とは、つまり、このようなものなのか ・・?
 ふとスパゲテイが食べたくなり、ふととあるレストランに入る、ドアを開ける ・・ すると世界が発生する。 最初に戻る。 ふとスパゲテイを食べたくなる。すると人の良いマスターのいるレストランの世界が発生する。 「ふと思う」、すると「世界が発生する」。
 この世は「ふと思う」ことによって発生し存在するのか ・・?
 この視点からは「物質世界」は「意識世界」によって発生するように思える。 「ふと思う」とは「顕在意識」ではなく「潜在意識」である。 この「ふと思う」ことが、この宇宙の発生に、深く、そして密接に関わっている。
 ニューサイエンスの旗手、理論物理学者、デビット・ボームは「明在系と暗在系」という2つの構造により宇宙が構成されていると説明する。人間が認識し理解できる世界を「明在系」と呼び、認識し理解できない世界を「暗在系」と呼ぶ。これは心理学で言う顕在意識と潜在意識の構造と同じである。潜在意識とは無意識下の世界であり、意識できない世界である。顕在意識とは意識できる世界であり、我々は日常この意識により物事を考え行動している。つまり、明在系とは顕在意識の世界であり、暗在系とは潜在意識の世界である。
 しかし、この2つの宇宙は無関係に併存しているわけではない。顕在意識は潜在意識の反映であり、深く影響を受けている。しかし、潜在意識は暗黒の宇宙であって、垣間見ることができない。数学で言えば「虚数」の世界である。我々が日常使用する、ひとつ、ふたつと数えることができる「実数」に対して、虚数は数えられない数である。しかし、虚数も2乗すれば数えられる実数に相転換する。潜在意識も「ふと思う」ことにより、意識できる顕在意識に相転換する。相転換すると暗在系の見えない宇宙から、見える明在系の宇宙が発生する。つまり「ふと思う」ことと、「2乗」することは同義的である。
 では「ふと思う」という「きっかけ」は、どこから発生するのであろう ・・?
 潜在意識や暗在系は認識も見ることも触ることもできない宇宙である。ここで心理学者、ユングが構築した「共時性」に思い至る。共時性とは相互に因果関係がない2つ以上の分離した事象が、この時空間において、単なる偶然を越えた「何か」を意味するように同時発生する現象である。2つの同時発生事象には「意味ある符号」が存在する。暗示的な符号であるから、それを意味あるとするか否かは、符号に遭遇した人の心理状況に関わっている。「ふと思う」というきっかけは、この「意味ある符号」に関係する。つまり、そのレストランに入ろうと「ふと思った」のは、その500m手前で見た道路わきの1本のアカシアに象出した「意味ある符号」に発したという関係である。
 それはまた人間の外部に存在する「マクロ宇宙」と、人間の内部に存在する「ミクロ宇宙」の構造に似る。人間の内部に存在するミクロ宇宙は、外部のマクロ宇宙に反映し、逆に外部マクロ宇宙もまた、内部のミクロ宇宙に反映する。つまり、人間の内部に存在する内的宇宙と人間の外部に存在する外的宇宙は一体的なのである。潜在意識(暗在系)という内的ミクロ宇宙の中に、そのレストランがすでに存在しており、それが共時的な意味ある符号(1本のアカシアの木)に誘起され、顕在意識(明在系)によって認識ができ、見ることができ、触れることができる外的マクロ宇宙に反映して、このレストランを象出させたことになる。我々が遭遇し、知る宇宙とは「すべて我々の内部にすでに存在する宇宙」なのである。今日、初めて出会う人も、目撃する出来事も、すべて我々の内部にすでに存在しているのである。逆にそうでなければ、ユングの言う共時性は説明できない。なぜなら我々自身の中にすでに存在しないのであれば、超因果的に同時発生した事象を誘起する意味ある符号を、我々が見いだすことなど、どうして可能になることができよう。
 これらの見解は超因果的であり、超因果的思考ツールが確立されていない現時点では、不可解な見解であると酷評されるであろう。従来の因果的見解では、たまたま偶然に、そのレストランがそこに存在していたと記述されるのであるから。
 このような内と外の構造は、数学の実数と虚数の対比の中に、社会の表と裏の対比の中に、空間の光と影の対比の中に、見られるものと同じである。そしてこれらの直観はまた、宇宙のフラクタル(入れ子)構造の背景を予感させる。このフラクタル構造の背景は「宇宙の意志」が、万物事象の中にあまねく行き渡り、宿っていると我々に感じさせる根拠につながっている。この宇宙意志存在の直観が、西欧のキリスト教社会に「神」を登場させ、東洋の仏教社会に「仏」を登場させ、道教社会に「道(タオ)」を登場させ、儒教社会に「天」を登場させたのである。私はかくなる存在を「宇宙の心」と表現している。
 私はスパゲテイを食べ終わり入って来たドアからそのレストランを出る。そのレストランの宇宙はここで終わる。再び訪れるかもしれないが二度と訪れないかもしれない。このレストランの宇宙は私から考えると今ここに「私のために用意された宇宙」のようにも見える。私が去った後、存在するのか存在しないのかは、再び訪れるかどうかで決定する。訪れなければ存在するかどうかは確定できない。つまり、再び無意識下の暗在系の宇宙に、外的マクロ宇宙から内的ミクロ宇宙に紛れ込んでしまい消滅する。これを逆にレストランのマスターから考えれば、私の存在もまた消滅することを意味する。
 私は車のアクセルを踏んでそのレストランからもとの道路上に戻った。再び道路の両側には次々とレストランが、食堂が、ドライブインが、現れては過ぎ去り、過ぎ去っては現れる。
 はたして、あのレストランは存在したのか、存在しなかったのか ・・?
 はたして、あのマスターは存在したのか、存在しなかったのか ・・?
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 しかして、私は存在しているのか、存在していないのか ・・?
 ? ・?? ・・??? ・・・???? ・・・・?????
 遡る20年近く前に書いたものであるが、読み返すと、この知的冒険「時空の旅」の出発点が、いかようであったのかを再認識させられるようで新鮮に感じられる。 あるいは、遥かな時空を貫いて、ここに、かくなる「知的場面」が甦ったこともまた「共時性」のなせる業なのかもしれない。
共時性に想う(2)〜ありえない確率

2015.12.10

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