Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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吉田松陰の宇宙〜至誠天に通ず
 結局のところ現代は自己に対する責任感が欠如している社会である。年々低下していく選挙の投票率がそれを物語っている。社会がいかなる方向に進んで行こうがそれを「自らの責任」とは考えない。それは不特定多数の「誰かの責任」と考えているようである。考えているとする積極的な姿勢であればまだしも、ただ漫然と感じているだけのようにみえる。いうなれば「不作為の作為」を地でいく怠慢的な姿勢を呈している。
 今、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰の生涯がとりあげられている意味とは、あるいは現代人のかかる「不作為の作為」に対する警鐘のようにも思われる。松陰が最後の最後まで生きるよりどころにした「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざるは未だこれ有らざる成り)」。誠意を尽くして事にあたれば、どのようなものでも必ず動かすことができるという孟子の言。その誠をもってしても時の幕府の姿勢を変えることはできなかった。だがその後の経過をたどればやはり至誠は天に通じたことは明かな事実なのであるが、そのことを松陰は知らない。
 以下は科学哲学エッセイ「Pairpole」(平成11年2月28日初版第1刷発行)で描いた「松陰の宇宙」である。
 幕末の偉人に吉田松陰がいる。長州藩の勤王思想の出発点に位置する人であり、彼の思想は彼が開いた松下村塾を通じ高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋、伊藤博文らに受け継がれ、明治維新、近代国家日本の建設に多大な影響を与えた。彼らの活躍なしには現代日本の繁栄を語ることはできない。松陰自身はペリー軍艦で海外密航をくわだて失敗し投獄され、最後には老中、間部詮勝の暗殺計画等に連座したとして安政大獄により江戸伝馬町牢の刑場で処刑された。享年30歳であった。
 「留魂録」は死を予感した松陰が、大急ぎで書きとめたものであるが、文脈の乱れもまったくなく冷静に、整然と門下生に最後の言葉を伝えている。彼はこれを二日で書き上げている。内容は門下生に対する諄々たる指導であり、激であり、愛情であり、説諭であり、遺言である。すべての文章にこころをうたれるが特に彼の死生観を記述した部分においてその極に達する。その現代語訳を次に記す。
 ・・・今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。つまり、農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。私は30歳で生を終わろうとしている。いまだひとつも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。10歳にして死ぬ者には、その10歳の中におのずから四季がある。20歳にはおのずから20歳の四季が、30歳にはおのずから30歳の四季が、50、100歳にもおのずからの四季がある。10歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。100歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。私は30歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのか私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい・・・・
 松陰の死を前にしての覚悟であり、悟りであり、絶唱である。彼のまいた種子が年々実り大きな収穫の歓喜となったことは後の歴史が証明するところである。松陰自身も大塩平八郎の「洗心洞箚記」などを読んでいたところをみれば陽明学の語るところを知り「心即理」や「知行合一」の神髄を自覚していたに違いない。ひとり、ひとりの人間は宇宙と同じであり、こころは宇宙の真理と一致しているという「心即理」を自覚し、最後まで思いと行動を一致させた「知行合一」が完成しなければこの絶唱はなされないであろう。そして松陰が宇宙に昇華したからこそ、時空を超えてその後の歴史に参加し得たのである。そして今もなおその宇宙は我々のまわりに存在し続けている。
           身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
                                         十月二十五日 二十一回猛士
 そして、留魂録は次のように終わっている。
 ・・・心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり、呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな、討たれる吾れをあわれと見ん人は君を崇めて夷払えよ、愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々、七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
                                 十月二十六日たそがれ書す 二十一回猛士
 処刑が行われたのは、その翌日であった。

2015.04.27


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