未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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縄文への回帰
現在の社会を眺める時、それは巨大で複雑な機械システムのようであり、その中で生活する人間はその機械システムの構成部品のように見えてくる。
この機械システム(社会)の基準は「機能」と「コスト」の合理性である。従って、このシステムの構成部品(人間)が「機能」と「コスト」の論理によって評価されるのは必然の成り行きであろう。
このような社会システムが日本で創始されたのは古代国家が成立された弥生時代ということになろう。紀元前四世紀頃のことである。以来二千年以上に渡り日本民族はこのシステムの発展と拡充に奔走して来たのである。
だが弥生時代の前に一万二千年に渡る縄文時代があったことを我々は忘れてはならない。縄文時代は狩猟採集社会であり、縄文人は自然の恵みを生活の糧とし、自然を神のごとく崇めて生きていたと考えられている。少なくとも農耕文明を基として古代国家を構築した弥生人のように人間を「機能」と「コスト」という視点では見ていなかったであろう。それは縄文人が遺した「縄文式土器」と弥生人が遺した「弥生式土器」を比較すればよく理解される。
前者に顕れたものは「呪術性」であり、後者に顕れたものは「機能性」である。機能社会に生きる我々にとってみれば弥生式土器は違和感なく理解されるのに対し、縄文式土器を眺めた時に感じるあの異様で不気味な呪術性はとまどい以外の何ものでもない。
このような構図は西洋にもあり、西洋ではギリシア神の名前になぞらえて縄文的なものをディオニュソス的、弥生的なものをアポロン的と表現する。この対比を簡潔に言えば、縄文・ディオニュソス的は「思い」の意識構造であり、弥生・アポロン的は「考え」の意識構造である。現代人である我々はこれらの意識構造をひとつにして「思考」と表現する。だが、この思考という意識の中には悠久な歴史空間を貫いて培われた「縄文人の思い」と「弥生人の考え」というふたつの意識構造が内包されているのである。
「弥生人の考え」の意識構造はみごとに発展開花し、今日、我々が目にする素晴らしい機能社会を築いたが、一方で「縄文人の思い」の意識構造をその機能性の海に埋没させてしまった。現代人が機械部品のように見えるのはその結果に他ならない。
人間は機械部品ではないし、また生きる意味は機能とコストという「電卓」をいくら叩いても得られるものでもない。それは自然で、自在無碍な「縄文人の思い」が語ってくれるものであろう。
そして、ようようにして歴史は今、二千年の周期を描いて、その「縄文の思い」に回帰しようとしているかのように私には眺められる。
文 /
柳沢 健
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