春の桜で有名な高遠であるが、晩秋の紅葉もいい。小雨交じりの日であったが、行く秋を惜しむがごとくの鮮やかなもみじ葉であった。信州伊那谷の山懐に囲まれた高遠は世の喧噪から隔絶されたように静かな町である。しかし、歴史を振り返るとき、そこには数々のエピソードが秘められている特異な時空間である。
戦国末期、武田の支城であった高遠城は数万に及ぶ織田軍に囲まれ落城した。先軍の将は信長の長男、信忠であり、信長、光秀らの本軍もまた「この高遠」を通過し、諏訪、甲府に向かい、ついに天目山に武田勝頼を追いつめ、武田家を滅亡させるにいたるのであるが
・・ その後、数ヶ月して起きた「本能寺の変」で、信忠、信長、光秀らもまた、この世の人でなくなるとは本人たちも、よもや「この時」は思わなかったにちがいない。
また世で言う「絵島生島事件」で有名な大奥女中の絵島が流されたのも「ここ高遠」であり、幽閉されていた「囲み屋敷」が復元されて高遠町立歴史博物館の敷地内にある。
さらに徳川二代将軍秀忠の妾腹の子、保科正之は「ここ高遠」で育ち、後に会津藩の創始者となり、実の兄、将軍家光を支え幕政改革にその才を発揮した。その会津藩、最後の藩主松平容保は、維新回天の時代の中で、滅び行く徳川幕府をひとり支え、京では京都守護職として「新撰組」を率い、転じて会津では「白虎隊」を率い、最後の最後まで壮絶な戦いを貫徹した。
これらを俯瞰するとき、すべての事の縁は、「ここ高遠」に始まる観がある ・・ そして、それはまた高遠という空間が背負った「時の宿命」なのかもしれない。
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