松本文化会館は1992年から毎年夏に行われる小澤征爾率いる音楽祭 「サイトウキネン・フェスティバル松本」
のメイン会場として有名である。 この時期になると日本各地はおろか世界からクラシックファンが松本に押し寄せる。 「サイトウキネン」
は世界でもトップレベルの音楽祭として注目されているのである。 このためなかなかコンサートチケットが入手できない。 知り合いから偶然にチケットを譲り受けた私は一度だけこのコンサートを間近に聴く機会を得た。
そのときに隣り合わせた埼玉県から来たという青年の言葉は、私にとって驚くべきものであった。 彼は前年行われたフェスティバルで今年のフェスティバルの演奏曲目を記したプログラムを買い求め、この1年をかけて異なったオーケストラと異なった指揮者での同演奏曲目を聴きくらべてきたのだという。
そして今宵、巨匠小澤征爾とサイトウキネンオーケストラがいかなる演奏をするのか一日千秋の思いで待ち続け、ここに待機しているのである。
演奏曲目さえ知らずに飛び込んだ私などは肩身がせまいことこのうえなかったのである。 演奏が終了し一瞬の静寂がおとずれた後、会場は聴衆が一気に立ち上がって
「ブラボー」 を叫ぶ歓喜のルツボと化したのであるが、その中で負けじと口に手をあてて 「ブラボー!ブラボー!」 と連呼する彼の顔は紅潮し満足に輝いていた。
呆然とすわっていた私に握手を求めた彼は、これから来年のプログラムを買い深夜の国道を走って埼玉に帰ると言って去って行った。 取り残された私は、このとき
「彼の1年」 が、すでに 「ここから」 始まったことを、まぎれもなく教えられたのである。
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