Linear 信州ベスト紀行セレクション
車山高原(1)
Linear
Backward | Forward
車山高原 / 長野県茅野市
風に寄せて
 地球規模の気候変動による記録的な豪雨が続く日本列島であるが、ここ車山高原には今年も夏が訪れようとしている。 車山の山頂を行きすぎる雲間からもれた陽光は、サーチライトのごとく草原を照射し、渡る風とともに、急ぎ足で山腹を駈け登り、峰の向こうに消えていった。 夭折の詩人、立原道造の描いた 「風に寄せて」 のソナチネが、遠い記憶の彼方から甦る。
その1
しかし 僕は かへって来た
おまへのほとりに 草にかくれた小川よ
またくりかへして おまへに言ふために
だがけふだって それはやさしいことなのだ と

手にさはる 雑草よ さわぐ雲よ
僕は 身をよこたへる
もう疲れと 眠りと
真昼の空の ふかい淵に・・・・・

風はどこに? と 僕はたづねた そして 僕の心は? と
あのような問ひを いまはくりかへしはしないだらう−
しかし すぎてしまった日の 古い唄のやうに
うたったらいい 風よ 小川よ ひねもす
僕のそばで なぜまたここへかへって来た と
僕の耳に ささやく 甘い切ないしらべで
その2
僕らは すべてを 死なせねばならない
なぜ? 理由もなく まじめに!
選ぶことなく 孤独でなく−
しかし たうとう何かがのこるまで

おまへの描いた身ぶりの意味が
おまへの消した界ひの意味が
風よ 僕らに あたらしい問ひとなり
かなしい午后 のこったものらが花となる

言葉のない ざわめきが
すると ふかい淵に生れ
おまへが 僕らをすこやかにする
光のなかで? すずしい
おまへのそよぎが そよそよと
すべてを死なせた皮膚を抱くだらう
その3
だれが この風景に 青い地平を
のこさないほどに 無限だろうか しかし
なぜ 僕らが あのはるかな空に 風よ
おまへのように溶けて行ってはいけないのだらうか

身をよこたへている 僕の上を
おまへは 草の上を 吹く
足どりで しゃべりながら
すぎてゆく・・・・そんなに気軽く どこへ?

ああふたたびはかへらないおまへが
見おぼえがある! 僕らのまはりに
とりかこんでいる 自然のなかに

おまへの気ままな唄の 消えるあたりは
あこがれのうちに 僕らを誘ふとも どこへ
いまは自らを棄てることが出来ようか?
その4
やがて 林を蔽ふ よわよわしい
うすやみのなかに 孤独をささへようとするやうに
一本の白樺が さびしく
ふるへて 立っている

一日の のこりの風が
あちらこちらの梢をさはって
かすかなかすかな音を立てる
あたりから 乏しいかげを消してゆくやうに

(光のあぶたちはなにをきづかうとした?)
−日々のなかの目立たない言葉がわすれられ
夕映えにきいた ひとつは 心によみがへる

風よ おまへだ そのやうなときに
僕に 徒労の名を告げるのは
しかし 告げるな! 草や木がほろびたとは・・・・・
その5
夕ぐれの うすらあかりは 闇になり
いま あたらしい生は 生れる
だれが かへりを とどめられよう!
光の 生れる ふかい夜に−

さまようやうに
ながれるやうに
かへりゆけ! 風よ
ながれのやうに さまよふやうに

ながくつづく まどろみに
別れたものらは はるかから ふたたびあつまる
もう泪するものは だれもいない・・・・風よ

おまへは いまは 不安なあこがれで
明るい星の方へ おもむかうとする
うたふやうな愛に 担はれながら

【 立原道造 略歴 】
1914年 7月30日 東京市日本橋区橘町に生まれる。
1934年 東京帝国大学工学部建築学科入学。
1935年 小住宅(課題製図)の設計で辰野金吾賞を受賞。
      以後卒業まで3年連続受賞する。
1937年 3月 卒業制作「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を提出。
      卒業後、石本建築事務所に入社。
1938年 8月 肺尖カタルのため休職、信濃追分転地療養。
      12月 長崎に滞在中喀血。
      帰京後東京市立療養所に入所。
1939年 2月 第1回中原中也賞受賞。
      3月29日 病状急変し永眠。享年26歳 (満24歳8か月の生涯であった。)
2010.07
セレクションインデックス
copyright © Squarenet