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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

信州つれづれ紀行 / 時空の旅
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岩井観音堂 / 長野県松本市会田
観音堂と砂岩層
 四賀キャニオンの地を教えてもらった好人物の村人の説明の中に登場したのがこの 「岩井観音堂」 であった。 その際に村人が言った 「ひょっとするとキャニオンへの道は倒木でふさがれているかもしれない ・・ まず岩井観音堂にお参りしてから行くのがいい ・・」 がなぜか妙に気にかかった。 確かにその道は荒廃したもので観音堂の参道は藪の中に没していた。 キャニオンへの道もまた村人が言ったごとく倒木でふさがれてはいたが、何とか迂回して進むことができた。 しかして眺望は開かれ、キャニオンの奇観を目前にすることができたのである。
 岩井観音堂は善光寺街道筋の信濃三十三番中二十番札所で、善光寺参りの旅人も多かったという。 観音山周辺石造物群として松本市重要文化財に指定されている。 弘法大師に関連する伝説がある。 堂の脇には磨崖仏が彫られている。 「会田郷往古之略図」 には、祝堂として会田氏施薗地、岩石ノ名所なるにより岩井堂と改めるとあり、古く室町時代に松本市四賀地区を治めていた領主会田氏との関係を伝えている。
 また岩井観音堂がある地域は、かって 「岩井堂炭鉱」 として栄えていたところであるという。 明治12年(1879年)、紀州の金森信一郎一行が善光寺参りの帰り道に岩井堂観音山に露出する石炭層を発見した。 4年後の明治16年(1883年)、金森らは岩井堂で鉱区を設定し、炭鉱の鉱業権を獲得し。 金森は岩井堂炭鉱開鉱の先駆者となるとともに、その功績は近現代の諏訪・岡谷地域の養蚕業を支えた西条炭(現在の筑北村西条にかける一帯で産出した石炭)の発見に至るきっかけともなった。 岩井堂炭鉱での石炭の出荷が軌道に乗ると、明治26年(1893年)には、規模にして採炭量200トン以上を誇ったとされる。 明治30年代に西条炭が開発されると、明治後期から大正時代にかけて黎明期を迎えた。
 観音堂の荒廃をみると、かってこの地にそのようなことがあったことを知る人は、今では希なのかもしれない。 村人が 「まず岩井観音堂にお参りしてから」 と幾度も言った訳にはあるいはそのような歴史的潜在意識があったのかもしれない。 とまれ、四賀キャニオンの奇観の裏にはフォッサマグナ形成に関わる多くの謎がいまだ隠されているようである。

2022.04


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