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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

信州つれづれ紀行 / 時空の旅
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大熊城址(福寿草群生地) / 長野県諏訪市湖南大熊


大熊城址


福寿草群生地(1)


福寿草群生地(2)
春望
 有賀峠を諏訪側に下った湖南の地、大熊城址を仰ぐ山肌に福寿草の群生地があるという。ネットで調べた道順では「諏訪大社上社から諏訪湖方面に進み、湖南小学校入口という小さな看板を見たら左折、道なりに細い坂道を登ると左カーブのところに神社があり、そこを少し行くと福寿草の黄色い花が確認できる」とあった。まことにそのとうりであった。
 以下の記載は大熊城址に立てられた案内板の記述である。
 大熊城は千野氏居城と伝えられ、文献上では文明15年(1483)にその名がみられる。 諏訪神社上社大祝(おおほうり)側に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺氏との攻防の場となった。天文11年(1542)武田信玄の侵攻によって落城し、天文17年頃破却された。城は三日月形をした自然丘陵上に主郭を築き、周囲に6ヶ所の郭(曲輪)を配置したいわゆる連郭式城郭である。主郭の南端には長さ20mの土塁があり、その上には千野氏の名を刻んだ石祠が建っている。昭和48年に行なわれた発掘調査では堀・建物跡・土橋が発見され、築城の様子が明らかになった。また大熊城に隣接する城山遺跡・荒神山遺跡からは城主の居館跡とみられる建物跡も発見された。
 福寿草群生地は大熊城址をとりまく西斜面の休耕地を利用して農家の人が20年間手塩にかけて育てたものだという。訪れたのは午後も遅くであったため黄昏の斜光が群生地を照射して散りばめられた福寿草の花々を黄金色に輝かせていた。
 大熊城址の頂は人がひとり立てるぐらいの広さであったがそこからの眺めはまさに戦国の物見台、諏訪の平らを一望するとともに、遠く八ヶ岳から北アルプスまで眺めることができた。風情はようようにして冬の装いを脱ぎ去り、来るべき春望をつげているようであった。
2016.03

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