ある場面が甦ってきた。 その場面と 「ホンダN360」 がリンクしている。 ホンダN360は自動車へ転進したホンダが1967年に販売開始した軽自動車で自動車会社としての名を高めた人気車種である。
それは信州の片田舎から大阪にやって来た私がとある製鋼会社の技術社員として社会に歩みだした頃であった。 その日の勤めをおえた私は社員寮に戻ってくつろいでいた。
当時すでに30歳は過ぎていた同じ部署の電気担当主任であったちょっと気取ったハイカラ Aさんが 「いるか?」 とやって来た。
これからドライブに行こうというのである。 夜も10時を回っていた。 Aさんは当時は誰もが持てなかった自動車をもっていて、それがモスグリーン色したホンダN360であった。
当時の車両価格は31万5,000円である。 社員寮は神崎川の河口に広がる工場地帯の中にあった。 そこから神戸に向かったのであるから阪神高速か名神高速のいずれかの高速道路に乗ったのであろうが記憶は定かではない。
当時の高速道路は今と違ってずいぶんと空いていた。 走るにしたがって気分も高揚してくる。 山川草木の自然の中で育った私にとってみれば、それは新たな文明との遭遇のようにも思えたし、異次元世界の出来事のようにも感じられた。
眩しいばかりの投光器に照らされた工場地帯をぬけるとやがて閑静なベットタウン西宮に至る。 立ち並ぶ高層団地の群はミッドナイトブルーに染められ、その狭間を霞なのか霧なのかぼんやりした白濁がゆっくりと漂っている。
窓明かりのひとつひとつからはささやかであっても懸命に生きる生活の安らぎがこぼれ落ちていた。 何とも幻想的な空間をぬってホンダN360は快調なエンジン音を響かせて疾走していく。
「いいだろう ・・。」 Aさんは自慢げに呟いた。 今を遡る50年ほども前にあった忘れ得ぬ場面である。
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