Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 5 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2005.08.22 〜 2011.12.08
一日一歩
 フランスの数物理学者、アンリ・ポアンカレ(1854年〜1912年)が証明した「ポアンカレ循環」の帰結は「もし永遠の時間の存在を想定すれば、あらゆる物事は出発点に回帰し、同じ循環を繰返す」というものである。この世に始まりも終わりもなく、出発点は終着点であり、終着点は出発点である。したがって、物事を始めるに、遅すぎることも早すぎることもない。であれば、物事は一日に一歩も進めば、もはや充分であり、一挙に物事を進展させることに、何らの有効性はない。何より、慌てて一挙に完成させた仕事は手筋が荒く、そのような底浅い仕事をいくら積み上げてみても、真に有益なものが生まれるとは思えない。巷間言われる「いい仕事」とは、時間をかけて、あれこれ考え、一日一歩の前進を高く積み上げたものである。
連続テレビ小説
 連続テレビ小説も毎日15分間の放映が限度であって、1時間の放映であっては散漫となり、やがては誰も見なくなるであろう。だいいちシナリオが続かない。多くを割愛して15分間にしているところに高視聴率の秘密があるのであり、言うなれば物語の展開が、日々、未熟であり、未完であり、舌足らずのところがいいのである。つまり、すべてを語らずに「明日への余韻」とすることこそが、連続テレビ小説の真髄であり、かかる「一日一歩の余韻」に視聴者は魅了され、引きつけられるのである。
遊園地遠望
 この世は遊園地のごとくであり、人はその遊園地を訪れた旅行者のようである。遊園地にはさまざまなエリアがある。アトラクションエリア、レストランエリア、劇場エリア、少々歩くと、工場エリア、会社エリア、さらに歩くと、農場エリア、牧場エリア、森林エリア、とッ・・あの人だかりでごったがえしているエリアは永田町政治エリアであり、聞けばどうやらこれから選挙ゲームが始まるらしい・・。ともかくも、遊園地のいかなるエリアで遊んでも、それは自由である。ただ首に下げられた入場者カードには入場の際にスタンプされた退園時間が刻まれている。許された滞留(ステイ)時間は入によってそれぞれ異なるが、おおむね70年間から80年間というところであろうか、やがて指定された退園時間が到来すれば、いかなる人であろうと、またいかなるエリアにいようとも、入場者は強制退園とあいなる。であれば、遊園地でふさぎ込んでいる子供がいないように、目を皿のように開けて遊園地のあれこれを見渡し、自分が好きなエリアを見つけ出し、制限時間いっぱいまで満足がいくよう遊び楽しまなくてはいけない。
虚業と実業の狭間
 かっては、かいもく何をやっているのか分からないような事業を「虚業」と呼び、鉄を削ったり、穴を掘ったりする事業を「実業」と呼んだ。だが現代では、注文がないのに鉄を削ったり、必要がないのに穴を掘ったりする事業を「虚業」と呼び、IT企業や金融投資会社のように、何をやっているのか、かいもく分からないが高収益を達成する事業を「実業」と呼ぶ。朝から机に座って「ウーン、ウーン」と頭を抱えて七転八倒している仕事が「実業」で、健康な汗を額にして「エーイ、エーイ」と穴を掘っている仕事が「虚業」とは・・いやはや世の中は変ったものである。
速度考
 アインシュタインの相対性理論によれば、速度が光速度(30万Km/s)に近づくに従い、時間はゆっくり流れ、光速度となれば時間は停止し、その光速度を越えると時間は逆に(つまり、現在から過去へ)流れることになる。しかし、これはある限度以上の速度の場合であって、私には日常での速度(例えば飛行機の速度、新幹線の速度、自動車の速度等々)では、その理論とは逆に、速度が速くなればなるほど、時間は速く流れるように感じられる。日常速度では速度を上げれば上げるほど、視界は狭くなり、周りからは音が消えていく。新幹線の車窓からは、昼寝をしているお父さんの姿や、蝉の声をとらえることはできないが、鈍行列車の車窓からは、それのみか洗濯をしているお母さんの姿や、谷川のせせらぎまで、とらえることができる。また車で、とある街を通過しても、その街の臭いや、笑い声をとらえることはできないが、ゆっくり歩けば、その街の臭いや、笑い声はおろか、路傍に横たわる犬猫の顔から、漂う空気まで、とらえることができる。現代人は速度を上げることで、多くの風景、多くの声、多くの空気、多くの・・を失ってしまったのである。
慢性病
 日本の財政赤字は今や700兆円(2005年当時)を凌駕し、さらに拡大中である。その負債額は国民1人あたり500万円以上の借金をしている勘定になるという。だが我々国民ひとりひとりには、その自覚症状がない。それはどこか遠い国の話のごとくにリアリティが欠如し、しかして危機感は微塵も感じられない。かかる財政悪化が「慢性病」に擬せられる所以である。慢性病の怖さは、実にこの自覚症状がないというところに存在するのであり、やがていつか臨界点に至れば、白アリに浸食された楼閣が一夜にして瓦解するごとく、おのが身を奈落の底に突き落とすのである。かって日本が誇る科学者、寺田寅彦(1878〜1935)は今にのこる名言を遺した。曰く、「天災は忘れたころにやって来る」と ・・・。
知識と知恵
 知識は物体を構成する「部品」であり、知恵はその部品を連結させる「アイデア」である。また、知識は物体を構築する「道具」であり、知恵はその道具を使用する「手腕」である。いくら優れた部品を何万点と揃えても、その部品を「有機的に連結させる」アイデアが「設計者」になければ、生まれるものは何もない。また、いくら優れた道具を山のごとく揃えても、その道具を「巧みに活かす」手腕が「製作者」になければ、生まれるものは何もない。現代は、例えて言えば、倉庫にはありとあらゆる優れた部品や道具が膨大に蓄えられ揃えられているにもかかわらず、その部品を生かすアイデアを持った棟梁や、その道具を活かす手腕を持った職人がかいもく見あたらない状況である。まとめれば、今必要とされるものは「知識」ではなく、その知識を生かす「知恵」である。
永遠と無限の存在証明
 日常、我々は「永遠」、あるいは「無限」という言葉を何気なく使用して、何ら疑問とするところがない。だが、この永遠や無限は「数学的概念」であって、いまだその「存在を証明」したものはいない。しかしながら、日常生活において、永遠や無限という概念は、誠に都合がいい概念であって、訳が分からなくなると人はこの言葉を唱えることで、いかなる物事も一応の落着をみるのである。してみると、永遠とか無限という言葉は、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」等々同様、威力抜群の「真言(マントラ)」のごときものかもしれない。
ポアンカレ循環疑義
 フランスの数物理学者、アンリ・ポアンカレ(1854年〜1912年)が証明した「ポアンカレ循環」の帰結は、もし「永遠の時間の存在を想定すれば」、あらゆる物事は出発点に回帰し、同じ循環を繰返すことになる・・というのだが。この証明の「永遠の時間の存在を想定すれば」という前提条件が「引っかかる」。前項で述べたごとく、「永遠」や「無限」の存在を証明したものはいないのである。してみると、ポアンカレ循環の有義性は、単なる「数学的概念」ということになってしまい人間が生活する上での哲学的有義性は消失してしまう。
一期一会
 もし仮に、永遠や無限の存在が証明されず、永遠回帰を標榜するポアンカレ循環が、単なる数学的概念であったならば、「円環を成す哲学思想」、例えば、インド仏教哲学の円環を成す時間概念(輪廻転生説)、あるいはニーチェの円環を成す人生哲学(永劫回帰説)等々の「連続宇宙を基盤とした哲学思想」は力を失い、代わって万物は「生々流転」し、事象は「一期一会」であるとする「刹那宇宙を基盤とする哲学思想」が優勢となってくる。
※)連続宇宙、刹那宇宙とは「時間軸を基準」にして区分けした私流の宇宙の「2つの断面構造」であり、時間軸に添って断面した宇宙を「連続宇宙」、時間軸と垂直に断面した宇宙を「刹那宇宙」と呼んでいる。
天才とは
 エジソン曰く、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」と。ひらめきは意識的な無限界世界に居住し、現実は物質的な限界世界に居住する。依って、住む世界が異なる「ひらめきそのもの」が、そのままにして「現実そのものに」一致するものでは、さらさらない。ひらめきが居住する意識世界では、人は万能であり、いかなることも努力することなく、一瞬で実現可能であるが、現実が居住する物質世界では、人は非力であり、いかなることも努力することなしに、実現可能なものなどひとつとしてない。ゆえに、ひらめきと現実を一致させようとすれば、限界で拘束された現実世界の分厚い壁を、非力な人力をもって打破しなければならないが、その突破には不撓不屈の闘争心と、臥薪嘗胆をいとわぬ忍耐力をもってして、なお多大な時間を要する。畢竟。エジソンは、この構図を熟知していたに違いない。つまり、天才とは頭脳明晰で聡明な「ひらめきを発する者」ではなく、むしろ現実の壁に限りなく挑戦して拒まれ、なお「怯まず努力する者」であることを。
灯台もと暗し
 私が持っているものを、皆は持っていず。皆が持っているものを、私は持っていない。しかし、私は自分が持っているものには目もくれず、皆が持っているものを羨望する。すると、今度は皆の方が自分で持っているものには目もくれず、私が持っているものを羨望するのか? 「灯台もと暗し」とは、このことである。畢竟。人生には誰にも共通する「一般解」などは存在せず、それぞれ個有の「特殊解」しか存在しない。ありもしない「人生の一般解」を生涯に渡って解き続けることは、徒労以外の何ものでもない。花も実もある人生とは、それぞれ個有に与えられた「人生の特殊解」を解くことにこそある。しかしながら、特殊解であるからしてその解はその人「個有の解」であって自分で解く以外に他に方法はない。隣人の答案用紙をいくら「カンニング」したとて、得られるものではない。それは明白である。
可能性に賭ける
 生きることは「可能性に賭ける」ことである。賭けであるから「絶対はない」。絶対でないから「賭けることができない」というのであれば、そもそも生きることは始まらず、であれば「生きられない」。およそ、この世に絶対などというものはない。あるのは「可能性」でしかなく、その可能性に向かって幾度となく挑戦すること、言うなれば「試行錯誤の継続」こそが「この世を生きる」ということである。
現実発生メカニズム
 量子論によれば、電子は「あらゆるルート」を確かめる。同様に、未来から現在に発生する現実もまた、「あらゆる現実」を確かめる。理論物理学者ファインマンが言う歴史総和法とは、「現実発生メカニズム」の別表現でもある。
※)リチャード・P・ファインマン(1918〜1988)。アメリカ合衆国出身の物理学者。経路積分や、素粒子の反応を図示化したファインマンダイアグラムの発案でも知られ。1965年、量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同授賞した。
去る者は追わず
 「去る者追わず、来る者拒まず」、かかる箴言は単なる「人生訓」ではなく、「時空の理」を述べている。去る者とは「過去」であり、来る者とは「未来」である。「覆水盆に戻らず」の例えのごとく、去りゆくものは「ただ見送るのみ」である。「さよならだけが人生だ」の箴言を終生好んだ寺山修司の真意もまた、この理の必然にあったのではあるまいか?
この大を計る
 人はこの世の「ままならぬ」を嘆き悲しむことに、人生を「消耗」させてはならない。人は「この世の未完成」を嘆くまえに、「自らの未完成」を嘆かなくてはならない。畢竟。この世の大を計るとは「自らの大を計る」ことに帰着し、 自らをして自らを「鍛え」、「磨き」、「育て」・・そしてついには「完成」させることである。
ならないはない
 この世に対する「こうでなくてはならない」とは、単なる人間の「意識的願望」であって、それ以上のものではない。この世には「こうでなくてはならない」などという「断定的拘束条件」は存在しない。であるから、この世に生起する「出来事」に、あれこれ「いちゃもんをつける」ことはやめたほうがよい。それらの出来事は、この世(宇宙)のすべての事情(内蔵秩序)をふまえた上で、生起しているのであって、不完全な人間の「浅知恵」で計り知れるような「しろもの」ではない。
事の順位
 新幹線は「自然法則で走っている」のであって、「経済法則で走っている」のではない。同様に、ビルは「自然法則で立っている」のであって、「経済法則で立っている」のではない。しかしながら、最近の世相は、新幹線が「経済法則で走っている」かのごとき、ビルが「経済法則で立っている」かのごとき風潮を呈している。「事の順位」は自然法則があっての経済法則であって、経済法則があっての自然法則などという順位はない。現代社会で発生しているさまざまな問題(例えば、ビルの構造計算偽造問題等)は、この事の順位を逆転させたことに起因する。仮に、一国の大統領が経済法則をもって「氷でお茶を沸かせ」と命令したとて、かかる自然法則が覆ることは「決してない」のである。
飽和社会
 最初は「買いたい物」が山のようにあっても、しだいに数は減り、やがては飽和し、ついには皆無となる。最初は「行きたい所」が山のようにあっても、しだいに数は減り、やがては飽和し、ついには皆無となる。最初は「したい事」が山のようにあっても、しだいに数は減り、やがては飽和し、ついには皆無となる。つまり、買いたい物が無く、行きたい所が無く、したい事が無いことは、「何ら異常なこと」ではなく、飽和社会である現代では、ごく「普通のこと」である。問題は、買いたい物が「無く」、行きたい所が「無く」、したい事が「無い」ことを「前提」にして、「いかに生きるか?」ということである。
予兆
 未来は突然として生まれるのではなく、まず「予兆」がある。見えない小さなものは顕微鏡で眺め、見えない遠くのものは望遠鏡で眺めるように、見えない未来を眺めるためには「予兆」を探さなくてはならない。
未来予測の方法
 未来を予測する方法として最も基本的なものは「波動性」と「共時性」という、2つの「宇宙の内蔵秩序」であろう。波動性とは、繁栄はやがては衰退し、衰退はやがては繁栄するという、我々がよく知る「栄枯盛衰の理」であり、それは宇宙を時間軸に添って断面した世界(連続宇宙)に顕れる宇宙の内蔵秩序である。共時性とは、心理学者ユングが言う「意味ある符号(予兆)の象出」であり、それは宇宙を時間軸に垂直に断面した世界(刹那宇宙)に顕れる宇宙の内蔵秩序である。
波動性未来予測
 波動性に則って未来を予測することは我々がごく日常的に行っていることである。しかし、波動の構成には「時間の経過」が必要不可欠であるため、「一瞬先の未来」を予測することはできない。波動は「振幅」と「波長」の2つの特性をもっているが、その振幅や波長は時々刻々と変化していくため、現在ただ今の位置が、その波動における、振幅と波長の「いかなる位置」に在るかを確定することができない。つまり、下がった株価はいずれは上がるのは確かではあるが、現在ただ今の株価がその波動における振幅と波長のいかなる位置に在るかを確定することはできない。さらに下がる過程に在るかもしれないし、また上がるにしても、その波長の長さが1ヶ月なのか、半年なのか、はたまた5年なのかは、時間が経過した後で確定される「結果論」なのである。波動性による未来予測の方法は、「結果としては正しい」のであるが、「方法としては妥当性を欠く」ということである。
共時性未来予測
 共時性における「意味ある符号(予兆)の象出」には時間の経過に関係しないため、「一瞬先の未来」を予測するには妥当性があると言えるが、肝心要のその予兆を探し当てることはそう簡単ではない。共時性は別名「目的論」とも呼ばれ、象出した予兆には「何らかの目的」が内蔵されていると考えられている。例えば、「白い蛇(予兆)の出現は、未来における事の吉兆である」というような構図である。白い蛇の象出と、未来における吉事の到来とは、時間の経過によって構成される「因果律」では説明不能である。つまり、現在における白い蛇の出現という原因と、未来における吉事の到来という結果の間には合理的な理由が見あたらない。共時性(予兆)による未来予測の方法は、考えるのではなく直観的に感じるのであって、ただただ「眺める」という、はなはだ非科学的な手法によるのであって、方法の妥当性を検証する手立てがない。
眺める
 現代人は科学的合理主義の基盤である原因と結果で構築される因果律に従わないものは信用しないため、意味ある符号(予兆)の象出を基盤とする共時性の効力に確たる信頼をおいていない。しかしながら、現代の最先端量子物理学は、かかるユングの集団的無意識や共時性等の考え方を導入しなければ、もはや問題を解決できない状況に立ち至っている。つまり、「因果律的に考える」という方法から「共時性的に眺める」という方法への方向転換である。 閑話休題。 最近以下のことに気がついた。「眺める」という文字構成を見てほしいのだが、眺めるとは「目」をもって「兆し」を観ると成っている。畢竟、「眺めるとは予兆を感受する」ことをすでに示唆していたのである。
いやらしさ
 この世の「いやらしさ」とは、例えば、混み合った道を、我がもの顔で「人を押しのけて歩く」ことである。私は混み合った道を行くよりも、むしろ未開の荒野をひとり歩くことをすすめる。太陽の光を全身に浴びて、自らの体と自らの心を頼りに、自由に歩くことをすすめる。曰く、「人が行く裏に道あり花の山」。 畢竟如何。
シナリオの制作
 人間が唯一、他の動物と異なるとすれば、未来を想像し、その未来に向けて、さまざまなシナリオを創造することである。現在の日本にとって最も不足しているものは、かかる「未来シナリオの制作」であろう。つまり、シナリオなきところには、いかなる「ドラマ」も生まれないのである。
情報化時代の真相
 情報化時代とは情報をすばやく「伝達する」ところに主体があるのではなく、どうやら情報を意図的に「創作する」ところに主体があるようである。アメリカは情報を創作し、その創作された情報を操作することで、イラク戦争を引き起こしたかのようであり、しかして創作された石油価格を操作することで、世界の経済活動を自国に有利にすすめようとしているかのように観える。人が創られた情報によって右往左往させられることは滑稽でもあるが、それはまた悲惨でもある。
言論の時代
 現代は言論の時代であると言われる。しかしながら、その言論を基とした討論や論争の状況をかいま見ると「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」というような屁理屈の応酬に終始しているだけのようにしか観えない。言論の時代の実相が「屁理屈の応酬」であるとすれば、それは誠にもってはや「嘆かわしい世」と言うより他に言葉がない。
潔き言論
 言論は「ああでもない、こうでもない」といくら時間をかけても問題は生じない。だが、行動は「ああでもない、こうでもない」などと悠長に時間などかけてはいられない。交差点の真ん中で「右に行こうか? 左にいこうか?」などと躊躇していたら事故になるは必定である。言論に潔さがなく行動に潔さがあるのは「このため」である。王陽明が説いた知行合一の「神髄」は、かかる「潔さ」を言論に求めたところにある。
熟考とは
 現代人は何事かを解決させる策を作りだすために考えるのではなく、逆に何事かを解決させない策を創りだすために考えているように観える。ゆえに熟考すればするほど、事態は明瞭になるどころか、ますます複雑に、ますます混沌としてくる。その原因は、事態の明瞭化が「決断の実行」を促すからに他ならない。つまり、現代人は、決断を回避したいがゆえに、「決断しない言い訳」を考えだすのである。現代社会における何事かの解決策には、「言い訳の羅列」となる必然性が内在しているのである。
知行不可分
 王陽明が説く「知行合一」の表層的解釈は「考えと行動を一致させる」ことにあるが、その深層的解釈は「考えることが、即ち行動である」というところにある。知行(考えと行動)を分けてはならず、不可分にして一体である。
考える姿勢
 考えることが「行動」であるならば、なまじな姿勢で考えては「大ケガ」をする。まさに千仞の谷に架けられた吊り橋を渡るがごとく「真剣」に考えなければならない。
人生の成算
 生きることは「考えどうりに生きる」ことよりも「自分らしく生きる」ことである。もし、考えどうり生きることを目指すならば、考えどうりにいかなかった場合、常に「落胆の日々をおくる」ことになる。しかしてこの世はおよそ「考えどうりにいかない」ものである。したがって、考えどうりに生きるよりも、自分らしく生きることのほうに「人生の成算」は「より多く見込める」のである。
似て非なるもの
 頭の中で考えた世界と実在する世界は同じではない。がしかし、実在する世界にはかくこのように世界を実在させる「何もの」かが在る。おそらく、釈迦にして、キリストにして、マホメットにして、かかる世界を実在させる「何もの」かを、頭の中で考えた世界で理解し得た者であろう。認識をもって実在を眺めることと、実在をもって認識を眺めることは、まことにもって「似て非なるもの」である。
世界の中心
 世界の中心は自分自身が今いる「ここ」にある。すべては「ここ」から始まるのである。
忘れてはならない
 すべてを今日しなければならない必要性はないが、そのしなければならないことを忘れずに覚えている必要性はある。そしていつか「できるとき」にやればよい。
風前の灯火
 現代人は多く「打算的」である。その事、金になるかならないかで考え行動して、金で心を売ること「日常茶飯事」である。そもそも「こころ」など、もはや「ない」かのごとくであり、「こころ」などいまだ「あった」ならば世に棲む狼の餌食になるが必定の様相を呈している。ならば「こころ」は鎧で覆わなければならない。現代功利性社会の強烈な害毒の中にあってみれば、むき出しの「こころ」では「風前の灯火」のごとくに、その存続維持は脆弱である。
大きな視点と小さな視点
 大きな視点で眺めれば小さいことが見えず、小さな視点で眺めれば大きいことが見えない。世の論争をかく見れば、大きな視点と小さな視点の果てしないバトルロイヤルの様相を呈している。
いつになったら
 「やめない首相」をやめさせることで奔走した国会は、今度は「やらせる首相」がいないことで奔走する。この国の国会は、いつになったら「国家百年の計」について話し合おうというのであろうか? 沈みゆく船上での「うちわもめ」など見たい者などどこにもいない。
何をもって
 信義を捨て、誇りを捨て、ではいったい「何をもって」人は生きようとするのか?
利害のバロメータ
 人は自らに利害を及ぼす物(あるいは者)に注目し、及ぼさない物(者)には注目しない。したがって、現在注目されている物(者)はその度合いに応じた利害を人に及ぼしている。つまり、注目度とは人々に対する「利害のバロメータ」なのである。
目的と手段
 手段は目的のための手段であって、目的のために手段はいかようにも変えられる。だが時として、人間の社会では、手段が目的となり、手段のために目的がいかようにも変えられる。このような行動様式をとるのは、おそらく生物界の中で人間のみではあるまいか? 獲物をとることより獲物をとる努力を目的とする生きものなど寡聞にしていまだ見たことがない。
何を競っているのか?
 人間はこの世で何を競っているのであろうか? 寿命の長短を競っているのであれば、それは「天命」に任せるべきであり、資産の多寡を競っているのであれば、それは「天運」に任せるべきであり、人生の優劣を競っているのであれば・・あれば・・・やはりこればかりは「自ら」に任せるいがい任せられる者がいない。
経済学と生物学
 需要と供給という共生関係を基にしてきた「経済学」は、今や弱肉強食という存亡関係を基とした「生物学」に変じようとしている。この状況をわかりやすく言えば、経済学は「衣食足りて礼節を知る」というところに依って立つ基盤があり、生物学は「命あってのものだね」というところに依って立つ基盤がある。さらに分かり易く言えば・・さらに分かり難くなる。
記憶のアルバム
 これはすごいと思ってやったことも後で考えればそうたいしたことはなく、やがて時空の闇に消えていく。そして今日もまた記憶のアルバムに「1枚の写真」が飾られる。
情報の民主化
 情報化社会とは情報価値流動化社会でもある。インターネットや携帯電話などのIT機器が発達した現在、誰もが手軽に、気楽に、情報発信が可能である。だが発信された情報の価値は玉石混交で定かではない。その価値を決めるのはその情報に接した「あなた」である。民主的といえば民主的であるが「釈然としない何かが」のこる。
怖ろしく貧乏
 どくとるマンボウこと作家の北杜夫氏が亡くなった。氏の「どくとるマンボウ青春記」を読んだのははるか昔、いつのことであったであろう。あの頃は「読書」そのものが極上の文化であり、娯楽であり、夢であった。現代はさまざまに文明が進歩発展したとはいえ、あの頃のような胸躍る「読書」がない。電子書籍でどこでも読めるようになったにしても、いったい「何を読む」のであろうか? 現代社会は便利とひきかえに「生きるに大切な何か」を失ってしまったようである。物質的には豊かかもしれないが、精神的には怖ろしく貧乏である。
俺たちに明日はある
 現代政治事情はあちらが立てばこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たない。手をこまねくばかりで対策が打ち出せない。エントロピー増大社会とはこのようなものであろうか。人々の探求心は野次馬化し、知的好奇心も3日ももたず、次々にうつろっていく。はたして現代人に救いはあるのであろうか? 世相の閉塞はそのことを少しも語らない。語っているのは目先の利害や不平や不満や不安。いかに不遇であるかの訴えごとの数々である。まるで明日などないかのごとくである。かって「俺たちに明日はない」という映画があったが、今や「人類に明日はない」という様相を呈している。今、考えなければならないことは「俺たちにも明日はある」という企画であり、「人類にも明日がある」という思想である。
新世界への道
 近代化という物質文明は、あるいは人類衰亡の契機なのかもしれない。あまりに生活の利便性が向上すると生物は堕落する。物質文明の豊饒さとはまたこの人類の堕落文明の豊饒さを意味する。肥満体を自らがコントロールできないように、今人類は自らをコントロールできない状態に近づいている。その状況にありながら人類はそれをわかろうとはしない。心の中で夢は再び回帰すると思っているのだ。だが今のままでは夢は2度とは回帰しない。このことをしっかり自覚したもののみが、かろうじて「新世界への道」をたどるであろう。
社長急募
 先日、会社を経営している友人と話していて以下のようなくだりとなった。最近は関係する会社の従業員や知り合いから「荷物運びでもいいから勤めさせてくれないか?」などと頼まれることが多く、その時、彼は「荷物運びなどというポストは1年待ちの状態だ」と答えるのだという。彼に言わせると「荷物運び」こそが精神的には悩むことなく身体的には運動となるこのうえない恵まれた職種であるというのだ。それにかわってすぐにでも必要なポストがあるがどうかと言って 「それは社長だ」 と告げると「それは畏れ多い」とほうほうの体で即座に辞退するとのことである。しかして彼は最後にこう言った。「こうなると “ 社長急募!高給優遇 ” とでもうたって新聞広告でもだすしかないか ・・」 と。

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