Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 2 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2003.08.18 〜 2004.04.02
意識操作
 現実を発生させ、現実を消滅させる原因は、人間に関わる 「意識操作」 にある。 意識操作とは現実を発生させる 「意識的観測」 であり、現実を消滅させる 「意識的編集」 である。 日常的な言葉に置換えれば、意識的観測とは 「現実の未来化」 であり、意識的編集とは 「現実の過去化」 である。 現在はこの意識的観測と意識的編集の 「狭間」 に在る。 物理学者、デビットボームの暗在系と明在系の構図で述べれば、意識的観測とは可能性の海である暗在系から現実世界である明在系への万物事象の 「投影(注入)」 であり、意識的編集とは明在化された現実世界の万物事象の暗在系である可能性の海への 「反投影(反注入)」 である。 つまり、未来とは人間の意識的観測によって意識世界に構築される 「期待世界」 であり、過去とは人間の意識的編集で意識世界に構築される 「物語世界」 である。 期待世界は意識の 「想像力」 に左右され、物語世界は意識の 「記憶力」 に左右される。 しかして、現在とは想像力にも記憶力にも左右されない 「現実そのもの」 である。
絶対的主観
 客観から主観への転換は単なる利己主義とは異なる。 利己主義とは現実世界の全体を客観的に眺め、その全体の中に個の位置を見出し、しかる後に全体の中における個の評価を考える過程で発現する 「個の全体に対する主張」 である。 ここで考えている絶対的な主観とは、全体から個を眺めるという経過を経ないで、個自らが現実世界の全体を主体的に評価する主観である。 利己主義が全体と個の相対的主観であるのに対し、絶対的主観とは全体に対する個の絶対的主観である。 客観による現実把握が現実世界のあらゆる存在を全体の共有物であると考えるのに対し、主観による現実把握は現実世界のあらゆる存在を個の専有物であると考える。 つまり、客観による現実把握とは 「全体に与えられた現実世界」 という視点であり、主観による現実把握とは 「個に与えられた現実世界」 という視点である。 全体に与えられた現実世界という視点で構築された典型的社会思想が存在の全体による共有化を追求した 「社会主義思想」 であり、個に与えられた現実世界という視点で構築された典型的社会思想が存在の個による専有化を追求した 「民主主義思想」 であろう。前者の社会主義のアプローチはソ連邦の崩壊が示したように、その相対的主観がゆえの矛盾により破綻し、後者の民主主義のアプローチもまた米国の状況が顕すように、絶対的主観とは似て非なる独善的利己主義という相対的主観に陥りつつある。 今求められる絶対的主観とは、以上のような曖昧模糊とした疑似的主観ではなく、個の自己人生の自律と、厳しい自己責任の上に顕れる絶対的主体性から構築される絶対的主観であろう。
超人への希求
 絶対的主観が確立されなければ過去は参考にならず、また未知なる未来も想像することはできない。 かかる絶対的主体性の本質とは、全体である 「皆」 がしても、個である 「私」 はしないことであり、個である 「私」 のすることを、全体である 「皆」 に強制しないことである。 ニーチェが提示した 「超人」 の人物像とは、このような絶対的主観を確立した人間像のことであり、また彼が言う 「力への意志」 とは、その絶対的主観を確立する力を 「渇望する意志」 のことであろう。 であれば 「超人への希求」 と 「力への意志」 こそが現実世界を形作っている 「基本的エネルギ」 であり、可もなく不可もなく生きる 「末人」 に陥ろうとする現代現実世界に生きる個である人間が、かかる状況から脱皮する唯一の道ではあるまいか? ニーチェの提示する超人とは ・・ 世の倫理観にむやみに従うことをしない ・・ 自己存在の力を確信し ・・ 姿形は誇りに満ちた貴族のごとくである ・・ みじめさという概念を持たず哀れみを嫌い ・・ 妥協せず中庸を求めない ・・ 枝葉末節にこだわらず大きく展開し ・・ 可能性に賭け ・・ 堂々として静かであり ・・ あわてることなくすべてを裁断し ・・ しかして、強大な意志力をもつ。
仮想的現実
 人類が生来の動物から離脱するために行った最初の行為は 「世界を認識する」 ことであった。 世界を認識するとは、自己の回りに存在する得たいの知れない何ものかを 「抽象化」 することである。 抽象化とはその得たいの知れない何ものかを、例えば文字に置換えることであり、図形に置換えることであり、数式に置換えることであり ・・ 現代人が無意識に行っている日常茶飯のすべての置換えである。 認識化とは、つまりは得たいの知れない何ものかを、文字や図形、数式等で 「仮に置換える」 ことであり、そのものずばりを完璧に置換えたものではない。 言うなれば 「不完全な置換え」 である。 現代人が観る世界は、これらの不完全な置換え(抽象化)によって構築されている 「仮想的現実」、つまりは 「仮想的構造物」 である。
仮想的現実の構成原理
 現代人が観る世界は、不完全な認識化(抽象化)によって顕現している仮想的現実であるが、その仮想的現実の構成原理は、認識する本人である人間の自己保存の本能に合致する 「便宜」 によって構成される。 かかる便宜は人間に 「社会」 を顕現させ、その社会効率の追求により、人間に 「階層」 を顕現させ、その階層の制御手段として、人間に 「権力」 を顕現させた。
自己意思の放棄と自己保存の獲得
 世界を認識化(抽象化)することにより生まれた権力とは、例えて言えば羊の群を統御する羊飼いの機能であり、羊の群が人間社会に、羊飼いが権力者に匹敵する。 羊の群は自己意思を羊飼いに委ね、代わりに自己保存が保証されることを黙契している。 しかしながら、自己意思を放棄して、自己保存の保証を獲得することを目的とする集団とは、言葉は悪いが、言うなれば 「畜群」 と同じであり、両者の間に別段の差異を認めることはできない。 もし、畜群と同列に置かれることを潔しとせず、自己意思の獲得を目指す者は、これとは逆に、自己保存の保証を放棄する覚悟が必要である。 これが現実世界に構築された現実社会の権力構造の実体である。
羊飼いの混迷
 では自己意思と自己保存の両方が獲得される世界の認識化(抽象化)とはいったいいかなるものか? 羊の群と羊飼いの対比で言えば、羊から羊飼いになることと言えるかもしれないが、必ずしも羊飼いがこのふたつの人間目的を獲得しているとは言えない。 羊飼い(権力者)の上には、さらなる羊飼いのリーダ(さらなる権力者)が存在しているのであり、その上にはまたさらなる羊飼い(さらなる権力者)が存在しているのが現実社会の構造である。 つまり、羊飼い(権力者)とても、羊の群(畜群)と 「五十歩百歩の違い」 でしかない。 現代社会の実情に鑑みれば、羊の群の中にいるよりも羊飼いの方がさらに自己意思と自己保存がままならない状況であるとも言えるのである。
個の世界認識
 自己意志と自己保存がともに獲得される世界認識とは認識者の個としての自立である。 それは羊の群にいようがいまいが、羊飼いであろうがなかろうが、それらの状態には何ら関係ない。 自己の回りに存在する得たいの知れない 「何もの」 かを純粋に見つめ、直観することにより得られる、自己がまさしく確かであるとする認識である。 この個の自立から導かれる世界認識(世界の抽象化)こそが、現代人と呼ばれる人間から喪失してしまった認識である。
孤高の人
 自立した個の世界認識を確立することは、現代社会では至難の業と言わなければならない。 現在構築されている全体社会の世界認識は、強固であり、威圧的であり、真理に肉薄した虚偽であり、複雑化した偽善であり、膨大な戯言に擁護された世界である。 その中にあって、個の魂による直観から新たな世界認識を構築することは、甚だしい個の孤絶をもたらすであろう。 その孤絶を孤絶として身ひとつに受け入れて生きることは、そう簡単ではない。 そのような生き方をした偉大な先達として、文学者ゲーテ、哲学者ニーチェ、音楽家モーツファルト、画家ピカソ、そして日本の評論家小林秀雄 ・・ 等々の名があげられるであろうか。 ともに 「孤高の人」 であった。
孤影の旅人
 自立した個の新たな世界認識は、おそらく個の 「目的」 ではあるまい。 それは個の 「過程」 であろう。 言い方を変えれば、この世での歩き方である。 急ぐ必要もなく、ただ悠々と、新たな世界風景の中に刻まれた道を、ひとり歩む旅路である。 背負う荷物もなく、しなやかに飄々とした孤影が、この世界風景の中に溶入っている。
ディオニュソスとアポロン
 ディオニュソスとは 「原始性」 である。 人類は言葉をもって我々の周りに存在する得たいの知れない 「何か」 である万物事象を 「語りだした」 のであるが、それは歴史時間で考えれば、つい最近のことであり、それ以前の人類は言葉のない 「沈黙せる」 悠久の時間を過ごしたのである。 言葉のない沈黙せる人類である原始人の精神こそがディオニュソスである。 近代人は便宜的で手軽な言葉を獲得することで、沈黙せる原始人が確固として所有し、また決定的に重要であった、この沈黙せる 「何ごとかの思い」 を喪失してしまったのである。 アポロンとは 「近代性」 である。 近代人は沈黙を忘れ、多くの言葉を語るが、言葉は使用すればするほどに、語れば語るほどに、対象がぼやけてくる。 現代人の精神はアポロンであり、言葉でかく説明し、かく分析する。 しかして何も創らない。 新世界開拓者の精神はディオニュソスであり、絶対的孤絶と孤独の基盤に立ち、多くを語らない。 より多く感じるだけである。 しかして全てを創る。
新世界は何処に
 自立した個の世界認識から創られる 「新世界」 はどこにあるのか? 幾億土離れた宇宙の果てであるか? そんなことはなく 「この身ひとつ」 のあるところにある。 この身はその新世界のただ中にある。 孤絶を覚悟してこの身ひとつを静かに置けばその周りに新世界は 「あまねく」 満ちているのである。 「旧世界」 はいまや人いきれで満ちてはち切れんばかりである。 その世界で人はいったい何を積み上げようとするのか?
芸術とは
 芸術とは、掛け値なしの 「美」 であり、鑑賞に耐えうるものである。 従って見るに耐えない、鑑賞に耐えない 「もの」 は芸術ではない。 それは芸術という名を借りた唯我独善たる自己主張の 「一種」 である。 芸術に必要なものとは 「意図」 であり、素晴らしい芸術には見る者すべてにうったえかける明瞭な意図が顕れている。 従って表現上の技巧の稚拙は二の次である。 芸術の意図を表現するには 「形式」 が必要であり、バッハの 「ロンド形式」 は彼の音楽芸術の意図を顕し、同様にピカソの 「キュービズム」 は彼の絵画芸術の意図を顕している。 しかし、結局。 宇宙にすでにして備わっている 「完璧性」 に感嘆すること、それが芸術に他ならない。
月日は百代の過客
 俳人、松尾芭蕉の 「奥の細道」 の冒頭は ・・ 月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず ・・ と始まる。 日々旅にして旅を住みかとした芭蕉をして 「時間そのもが旅人」 のように思われたのであろう。 人は時とともにやって来て、時とともに去って行く。 宇宙は 「時空」 と呼ばれ、「時間」 と 「空間」 のふたつの要素で構成された世界であるが、この構成要素である 「時間」 と 「空間」 の意味を正確に解明した人は未だこの世にいない。 空間は時間を連れてやって来る ・・ そして、時間は空間を連れて去って行く ・・。 「そのバスは8時にバス停に来るのではない、バス停に来た時に8時なのである」 この世のあるべき事象は、あるべき時間(時)に、あるべき空間(場所)で、起きる。 まさに、時空は宇宙を漂泊する旅人であり、百代の過客のようである。
損と得
 公正無比な 「宇宙の天秤」 で測った場合の損得とはいったい何か? ある者の 「損」 はある者の 「得」 であるとするのが、経済学で言う 「ゼロサム理論」 である。 つまり、社会の中で発生する損と得を合計すれば 「0」 となるという理論である。 これは物理学で言う 「エネルギ保存則」 の経済学的な発現態様であるとも言える。 エネルギ保存則は、この宇宙では 「エネルギの態様は変化して行くがエネルギの総和は常に一定に保たれる」 というものであり、物理法則の中で最も基本的なものである。 経済上の損得もエネルギの変化態様には違いはなく、その損得勘定においてもエネルギの総量は一定に保たれるのではあるまいか。 また私の言う 「ペアポール」 の考え方からしても、損得は陰陽のペアポールであって、いずれが陰陽かは、相対的なものである。 1枚の紙の表裏は、いずれかを表とした場合、いずれかが裏となるにすぎない。 同様に損得もまた、いずれかを損とした場合のいずれかの得にすぎない。 結局、損得は時と場合によって異なる相対的な人間認識による区分けにすぎず、宇宙の天秤における測量結果では同じである。 それはまた、ペアポールで言う 「あざなえる縄の法則(禍福一体の法則)」 を説明する。 人間の万事は塞翁が馬なのであり、禍は福であり、福は禍である。 損は得であり、得は損である。 巷間、口角泡を飛ばし、その区分けに奔走する、この世の損得の内実とは、人間がある一面から眺めた場合の偏狭な価値観にすぎないのである。 それが 「人倫の天秤」 の内実であり、また測量結果でもある。
システム社会からの脱出
 人類は膨大な試行錯誤を経て合理性と利便性に富んだ鉄壁なシステム社会を構築した。 だがその構築により、そのシステム社会を構成する各々の人間から動物本来がもつ本性(野生)を欠落させてしまった。 システム社会構築の目的が人間生活の野生からの脱皮であった以上、それは必然の帰結でもある。 野生を喪失した動物とは、換言すれば 「飼い慣らされた畜獣」 を意味する。 衣・食・住の生活環境の安全と安定は保証され確保されはしたが縦横無尽に張りめぐらされたシステムという目に見えない檻の中で生きなければならなくなってしまったのである。 一般にはこのような生活を我々は 「文化的生活」 と呼んでいるのだが ・・ ふと野生が目覚めて荒野が恋しくなり檻からの脱出を試みようにも目に見えないシステムの檻からの脱獄はそうたやすくはない。 例えて言えば 「アルカトラズ刑務所」 からの脱獄に等しい。 アルカトラズ刑務所を脱獄するには、刑務所長に逆らってはならず、巧みにへつらい、巧みに妥協し、飼い慣らされた看守に巧みになりすますことである。 迫真の演技力が必要とされる。 嘘か誠か定かでないような演技力であり、極言すれば、自分自身をも騙すような演技力である。 さらに、それに運が加われば、この難攻不落の刑務所からの脱獄は成功するかもしれない。
変身願望
 盟友、関西学院大学の宮原浩二郎教授に 「変身願望」 という著作がある。 この世は劇空間のようであり、劇空間に生きる我々は、この世という演目で上演される演劇でのさまざまな役柄として配役された演技者のようである。 だが 「この世の演技者」 はアカデミー賞も色あせる程の 「迫真の演技」 を披瀝する。 社長は社長として、社員は社員として、銀行員は銀行員として、男は男として、女は女として ・・ 等々と。 だが長期間、同じ役柄を演じていると、時として、その役回りに飽きた者は 「配役変更」 を望むようになる。 つまり、「変身願望」 である。 社長は社員へ、社員は社長へ、男は女へ、女は男へ ・・ 等々と。 だがこの世の役回りは 「一世一代」 のものであり、代役はきかない。 つまるところ 「大見得をきる」 のがせいぜいのところなのである。
すべてはその時
 時間が人間の発明による創作物とすれば、あの時は、,この時であり、その時である。 いついかなる時も、この時であり、あの時であり、その時である。 古いあの時もなく、新しいこの時もなく、その時である。 この世の生命にとって、あの時もこの時もなく、すべてはその時である。 花は咲き、実を結び、地中に帰り、芽を吹き、再び花を咲かせる。 がゆえにはたして、花を嘆き、実を嘆き、地中に帰るを嘆く、草花があるであろうか? 花は 「咲くべき時」 に咲き、実は 「結ぶべき時」 に結び、地中に「 帰るべき時」 に帰る。 その 「〇〇べき時」 とはつまり、あの時であり、この時であり、この世の縁(えにし)である 「その時」 である。
天才と秀才
 天才はもともと 「本物」 であり、秀才はどこまで行っても 「偽物」 である。 天才は本物がゆえに 「処世術」 には頼らないが、秀才は偽物がゆえに 「処世術」 に頼る。 処世術とは、言うなれば世の評価をいかに獲得するかの 「方策」 であるが、本物であることと世の評価を獲得することの間には直接的な関係はない。 世の評価の獲得は本物であることを保証するものではなく、往々にして時の経過の中で、その誤りが証明されることの方が多い。 本物にあるのは、あらゆるものから独立した掛け値なしの 「重さ」 である。 ゆえに、天才はそのあらゆるものから独立した 「重さ」 ゆえに 「寡黙」 となり、秀才はその世評に従属する 「言い訳」 ゆえに 「饒舌」 となる。
変遷
 価値の変遷 ・・ 既成の価値に対抗して考案された新成の価値は、やがてはその新成の価値が既成の価値になり、さらに考案される次なる新成の価値に取って代わられる。 権力の変遷 ・・ 既成の権力に対抗して勃興した新成の権力は、やがてはその新世の権力が既成の権力になり、さらに勃興する次なる新成の権力に取って代わられる。 主従の変遷 ・・ 力をつけた従人は既主人に取って代わり新主人になるが、その新主人もまたやがては力をつけた次なる従人に取って代わられる。
生きる自由
 人間が生まれるにおいて 「自由」 などなかったはずである。 生まれる自由なき人間において、生きる自由や、死ぬ自由などあろうはずはない。 もともとの存在理由の意味を問えない存在が、その後の存在理由の意味を問うことは論理矛盾である。 幽霊が幽霊に向かって 「おまえは生きているか?」 と問うてみても意味がない。
なりたいとしたい
 「なりたい」 と 「したい」 の間には深淵が横たわっている。 もともと存在理由の意味を問えない人間に 「何かになりたい」 などという欲求は、大いに身に過ぎた主張である。 もともとの存在理由の意味を問えない人間に、唯一許される主張があるとすれば、それは 「何かをしたい」 という原始的欲求であろう。 それがつまりは 「ディオニュソス」 である。
追うと追われる
 現代人は生活に追われ、時間に追われ、お金に追われ ・・ 追われ ・・ 生きている。 追われると言っても、物質的世界で何ものかに追われているのではなく、目に見えない精神的世界でのことである。 原始、人間はディオニュソス的な 「何かをしたいという情意」 に突き動かされ、その何かを 「追っていた」 のであるが、いつの頃からかアポロン的な 「何かになりたいという理性」 に突き動かされ、その何かから 「追われる」 はめに陥ってしまったのである。
過去の制作
 過去は価値観を編集基準として制作される。 価値観は時代によって異なり、人によって異なる。 ゆえに過去は時代によって異なり、人によって異なる。
ローマは一日にしてならず
 人間の価値観が変わるにはそれ相当の時間がかかる。 それは歴史が物語る。 つまり、ローマは1日にしてはならなかったのである。
2 つの謎
 人類がいまだに解けない謎が2つある。 ひとつは 「宇宙の果てはいかに?」 であり、他のひとつは 「宇宙の始まりと終わりはいかに?」 である。 前者は 「空間」 に関する問いであり、後者は 「時間」 に関する問いである。 この宇宙は 「時空間」 と呼ばれ、この時間と空間の2つの要素で構成されているとされている。 時空間におけるこの 「2つの謎」 がこの世の誰ひとりとして解けない以上、人類はこの宇宙に関して 「何も」 解ってはいないのである。
人間の存在理由
 人間は存在の意味を問い続け、日々生きる意義を問い続ける。 しかし、人間が生まれるにおいて、これらの意味や意義が存在したのか? 気がついてみたら 「この世にいた」 という述懐が、すべての人間の偽らざる心境ではあるまいか? この世に登場する(生まれる)において、もともとの存在理由を問うことができない存在である人間が、その後の存在理由を問うことなどできるのであろうか? それは大いなる論理矛盾である。 この世に登場しても、登場しなくとも、どうでもよかった存在である人間が、この世に登場したとたん、かような出生の由来を忘れ果てて 「大たわごと」 を主張しだす。 もっとも当の人間は誰も大たわごとなどとはさらさら思ってはいない。 「神という宗教的言語を用いて」 ・・ あるいは 「永遠という文学的言語を用いて」 ・・ また「無限という物理的言語を用いて」 その大たわごとに、あたかも存在理由が存在するかのように厚化粧で装飾するのである。 はたして 「神」 や 「永遠」 や 「無限」 という言語の実体を証明した人がこの世にいたであろうか? 人間はそれらの言葉に酔っているだけであり、またそのように酔わなければ生きていけない存在なのであろう。
2 つの人生
 人には2つの生き方がある。 ひとつは 「何かになりたい」 という生き方であり、他のひとつは 「何かをしたい」 という生き方である。 「なりたい」 と 「したい」 は似て非なるものであり、この生き方の違いにより、人は大きく異なった人生を歩むことになる。 「なりたい」 は現在の状態から未来に向けての 「願望」 である。 「したい」 はまさに現在の状態における未来に向けての 「意志」 である。 「なりたい」 は願望であるがゆえに 「理性的」 であり、「したい」 は意志であるがゆえに 「情意的」 である。 理性的願望が人生を有意義で充実したものにするのか? それとも情意的意志が人生を有意義で充実したものにするのか? それぞれ見解が分かれるところである。
思い込み
 人間に存在理由が 「無い」 ことを有効に 「転用」 すれば、これはこれで人間がこの世で生きるうえでの最高条件となり得る。 つまり、自分自身に何ごとかの存在理由が 「有る」 と思い込ませることができれば 「そのような存在」 になることが可能である。 自己を 「天才」 と思い込ませることができれば天才となり得るのである。 存在理由が存在しない虚空間での 「実存性」 とはそのようなものである。 日本密教の創始者、空海が唱えた 「即身成仏義」 の秘密はまさにここにある。 だが問題は彼が唱えるがごとく 「自己が生まれながらにして仏である」 と思い込むことができるか否かであり、それができる人のことを天才と言うのであろう。
身体性の喪失
 現代人は過度に 「精神性」 を追求することで 「身体性」 を喪失させ、現実世界を 「リアリティ」 から 「バーチャル」 に変質させてしまった。 つまり、身体性の喪失の意味するところは 「リアリティの喪失」 に他ならない。
ゼネラリストとスペシャリスト
 今までの社会では 「ゼネラリスト」 が主流であった。 しかし、コンピュータが社会の末端まで普及すれば代わって今度は 「スペシャリスト」 が主流になる。 ゼネラリストが主流であったのは社会のシステムが 「集団指導体制」 であったことによる。 集団指導体制とは軍隊組織に似た階級制システムであり、その階級間における権限の統御管理がかかるシステムに要求される最優先課題であった。 この統御管理を行うのがゼネラリストであり、要求される資質とは 「浅くとも広い知識」 つまりは一般教養と呼ばれる知識と階級間を統御管理する 「調整能力」 であった。 しかし、コンピュータネットワークが社会の至る所に張りめぐらされる状況ともなれば様相は一変する。 およそ階級制などという機能は意味を喪失してしまう。 コンピュータネットワーク社会で要求されるのはスペシャリストであり、要求される資質とは 「狭くとも深い知識」 つまりは専門知識と呼ばれる知識と他者との相違を主張できる個性や独創性を基とした 「創造能力」 である。 以上の主役交代を簡潔に言えば、コンピュータに置換え可能なゼネラリストの資質はコンピュータに置換えられ、いまだコンピュータに置換え不能なスペシャリストの資質が今後はクローズアップされるということである。 だがスペシャリストとて安心はできない。 いずれやがては、その置換え不能なスペシャリストの資質である個性や独創性さえも、コンピュータに置換えられてしまうともかぎらないのである。
社会システムの動特性変化
 社会を変革しようとすれば、今までは 「社会全体へのアプローチ」 が必要であったが、これからは 「社会局所へのアプローチ」 で事足りる。 なぜならば、社会の 「局所」 と 「全体」 はコンピュータネットワークにより密接に繋がっており、局所へのアプローチが 「一瞬で」 社会全体へ波及するからである。 それを運動メカニズムの制御システム系で考えれば、時間的に 「鈍感」 な社会システム系から 「敏感」 な社会システム系への 「動特性変化」 を意味している。 敏感な制御システム系の動特性は応答性には優れるものの微弱な外乱ノイズで制御系が誤動作したり、またハンチングと呼ばれる激しい振動を発生させてシステムが不安定化し場合によってはシステムそのものが破壊されてしまうこともある。 一般の自動制御系ではノイズフィルタを備えてノイズの侵入を阻止し、比例動作、積分動作、微分動作と呼ばれる動作制御技術を駆使してハンチングを防止する。 社会システムも制御システム系においては機械メカニズムの制御系と何ら異なるところはない。 つまり、社会システムの動特性が変化した以上は従来の制御技術を変更しなければならない。 でなければ、わずかな不規則な出来事(外乱ノイズ)で、社会が混乱(誤動作)し、ついには社会全体が激しく乱高下(ハンチング)して恐慌状態(システム破壊)に陥ることになる。
きりがない
 物事に始まりも終わりもない。 それは宇宙に始まりも終わりもないのと同じである。 仕事にきりがなく、読む本にきりがなく、見る映画にきりがなく、悩みにきりがなく、貯めるお金にきりがなく、欲望にきりがなく ・・ 結局、生きることにもきりがない。
自由と孤独
 自由には孤独が付帯する。 自由であるためには孤独でなくてはならず、また孤独を避けて自由になることはできない。 人は誰しも 「たった一人」 で黄泉の国へ旅立つ宿命をおびているのである。
Let it be
 ビートルズ往年のヒット曲である。 意味は 「あるがままに」 である。 人間、生きるにおいて、これ以上の 「名曲」 はない。
情とは
 知に偏すれば堅くなり、情に竿させば流される。 だがしかし、情とは何か? 情の多くは、また多く自己に対する 「執着心」 でもある。 自己の執着心によって、情の相手が 「蛇の生殺し」 になることは避けねばならない。
言い訳の効果
 言い訳とは? 我々は自己人生の結果を弁護するためにいろいろと言い訳をする。 しかし、その言い訳が自己弁護に功を奏することはまれであって、多くは 「嫌み」 となり、「泣き言」 にしかならない。 自己人生の結果には、言い訳をせずに 「じっと耐える」 ことの他に手だてがない。
現代人
 現代人は生きるにおいて脆弱である。 その生活様式は、さながら温室で育った植物のようであり、家の中で飼われるペットのようであり、日陰で育つモヤシのようである。 その行動様式は、何事においても、後生大事であり、優柔不断であり、恨めしげであり、自信喪失である。 つまり、荒野の寒風に鍛えられて育つ野生植物や野生動物のような力強さがなく、岩壁に厳然と屹立する青松のような威厳がない。 結局、生かされているだけであって、生きてはいない。
生きるとは理解すること
 生きるとは 「理解される」 ことではなく 「理解する」 ことである。 多く現代人は、世間体を気にして 「理解される」 ことばかりに血眼となり、「理解する」 ことにはとんと無頓着である。 前者は 「受動の人生」 を実現し、後者は 「能動の人生」 を実現することになるが、受動の人生では何も得ることはできない。 問題は 「あなたがどう思う」 かではなく 「私がどう思う」 かである。
言葉・文字・行動
 言葉は文字に及ばず、文字は行動に及ばない。
風鈴は虚空に架かる
 結局。 この世に絶対的なものなどは何ひとつ存在しないように思える。 すべては相対的であり、何を基準にするかで、一方は白、他方は黒となる。 宇宙は常に相対性の狭間で、右に左に 「ゆらいでいる」 のである。 相対性の世界で、有効に生きる処世術とは、絶対認識を捨て去ることである。 絶対認識を捨て去ることは、一見不安定のようにも見えるが、実はこの上なく安定した状態である。 相対認識を基準とした生き方とは、右でも左でもなく、上でも下でもなく、善でも悪でもなく、正義でも不正義でもなく、すべては 「ペアポールの狭間」 である。 禅で言う 「風鈴は虚空に架かる」 と。 風鈴は家の軒先に架かるが、その家は大地(地球)に架かる、しかしてその地球は虚空に架かる。 つまり、何事も確固たるものに架かっているように見えて、実は確固たる頼りになるものなど何ひとつないのである。 我々は確かなものを求め確かなものを構築しようと遙かな歴史の時空間を通して苦闘してきたが、いまだ誰かそのようなものを手に入れたとは寡聞にして私は聞かない。 古人曰く、この世は 「浮き世」 であると。 かく言い得て妙である。
意識寿命
 物質的存在が経年変化し、老化し、寿命に至ることは我々がよく知るところであるが、意識的存在もまた経年変化し、老化し、寿命に至るのかどうかは不明である。 巷間言われる 「あの人は精神年齢が若い」 という表現からすれば、意識的健康を維持することで、意識の経年変化と老化を遅らせ、意識寿命を延ばすことが可能のようにも思われるのだが。
人生の意味
 人間が何時かは死ぬものである以上、人生の意味は死を前にしての 「辞世の句」 から始められなければならない。 人間が何時かは無に帰すものである以上、人生の意味は 「無を納得」 することから始められなければならない。 生をもって 「生の意味」 は理解されず、有をもって 「有の意味」 は理解されないのである。
過去の実体
 すべては存在したのであり、かつまたすべては存在しなかったのである。 あの人はいたのであり、かつまたあの人はいなかったのである。 あの時は有ったのであり、かつまたあの時は無かったのである。 過去の実体とは 「記憶という抽象」 である。 その抽象が喪失した時、過去は 「有から無へ転位」 する。
未来の実体
 すべては存在するのであり、かつまたすべては存在しないのである。 その人はいるのであり、かつまたその人はいないのである。 その時は有るのであり、かつまたその時は無いのである。 未来の実体とは 「想像という抽象」 である。 その抽象が発生する時、未来は 「無から有へ転位」 する。
現在の実体
 すべては存在しているのであり、この人はいるのであり、この時は有るのである。 現在の実体とは、想像抽象の発生で無から有へ転位する未来と記憶抽象の喪失で有から無へ転位する過去との狭間でゆらぎ瞬くひとときの刹那である。
永遠の生命
 もし犬や猫に記憶や想像という抽象意識がないとすれば、彼らには人間が 「過去」 や 「未来」 と呼ぶ 「抽象世界」 は無い。 有るのは 「現在」 だけであり、結果として 「時間」 も無い。 だがそのことによって、彼らの生命は 「永遠の生命」 となり得る。
限定の生命
 意識を進化させた人間には、記憶と想像という抽象意識により、現在以外の 「過去」 と 「未来」 と呼ばれる 「抽象世界」 が有る。 「過去」 「現在」 「未来」 が有ることで、結果として 「時間」 が有る。 だがそのことによって、我々の生命は 「限定の生命」 に留まる。
すべては存在している
 我々はこの世界の中で日々新たなものを 「創造」 していると思っているのであるが、あらゆるものは、すでに存在しているのであって、我々の意識がそれを 「発見」 するに過ぎない。
自由への脱出
 自由とは 「ねばならない」 という意識拘束からの脱出である。 だが我々はこの 「ねばならない」 の意識拘束から容易に離脱できない。 生活環境の変化に応じて次々とさらなる 「ねばならない」 を考案し続ける。 自由への道は遙かと言わざるを得ない。

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