Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 1 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2002.09.04 〜 2003.07.29
地図帳と羅針盤
 そうあわてる必要はない。 人生において 「一大事」 などはそうたくさんあるわけではない。 まして現代のように虚行、虚言、戯言、妄想が横行する世であってみればなおさらである。 「大変だ、大変だ」 とあわてふためくことは 「ただ、ただ」 疲れるのみであり、他に遅れじとなりふりかまわず、しゃかりきにアクセルをふかしてスピードを上げてみても 「迷妄せる地図帳」 と 「迷妄せる羅針盤」 では行けるところなどあろうはずはない。 幾分ましな所へ行くことを望むならば 「そこそこ正確な地図帳」 と 「そこそこ正確な羅針盤」 を必要とする。 急がば回れのたとえのごとく、今はゆっくりとこの地図帳と羅針盤を用意することである。 しからば 「いつか」 旅立ちの時は自ずとやって来るのである。
ボロは着てても心は錦
 自己の意識に自己の体が宿っている。 言うなれば自己の肉体的五体とは 「自己意識の衣装」 のごとき機能である。 衣装である以上、華麗なものあり、質素なものあり、デザインも色合いも多種多様である。 しかし、いつも言われることながら、外見の衣装より 「中身」 である。 であれば、外見的衣装である肉体的五体よりも中身である意識が重要である。 「ボロは着てても心は錦」 とはこのことである。
価値の相対性
 巷間言われる 「あれ」 と 「これ」 の区別と識別。 この区別と識別はさまざまな価値観を人間社会の中に制作する。 「あれ」 を善しとすれば 「これ」 は悪となり、「あれ」 を美とすれば 「これ」 が醜となる価値観の制作である。 この価値観の制作はまた相対性の本質である。 「あれ」 を善しとするとは 「あれ」 を善の相対基準にすることであり、「あれ」 を善の相対基準とした以上 「これ」 は相対的対称である反対の位置と立場である悪の相対基準に移行することは必然の成り行きである。
非日常とワームホール
 ワームホールとは時空間に掛け渡された 「時空のトンネル」 である。 このトンネルは時間と空間の制約から離脱して 「タイムワープ」 が可能なトンネルである。 このトンネルを通過すれば何億光年離れた場所でも一瞬に到達できる。 現代理論物理学はこの存在を証明しつつあるが、このワームホールの効果と非日常性の効果は 「等価性」 がある。 日常性では、日々の飽くなき努力によってしか目的の高みには到達できないが、非日常性では、一瞬の飛躍で目的の高みに到達できるかもしれない。 非日常性とは、目的地に一瞬でタイムワープする 「意識のトンネル」 と呼ぶことができよう。
刹那空間と連続空間
 刹那空間とは時間軸に垂直な空間であり、時間が存在しない空間である。 連続空間とは時間軸に添った空間であり、時間が存在する空間である。 刹那空間は因果が存在しない偶然性で語られる空間であり、連続空間は因果が存在する必然性で語られる空間である。 刹那空間は直観的場面で構築された意識空間であり、連続空間は歴史的場面で構築された物質空間である。 刹那空間は現代人が理解しない虚空間であり、連続空間は現代人が理解する実空間である。 この世はこの刹那空間と連続空間が一体となった世界であり、古人はこの世界の呼び名に 「浮世」 という霊妙な言葉をあてた。
鬱病と分裂病
 先日、「鬱病は過去にこだわる」 ことにより発症する精神病であり、「分裂病は未来にこだわる」 ことにより発症する精神病であるという話を精神科医から聞いた。 「過去において」、こうしておけば、こうしなければ云々 ・・ と、くよくよ悩む症状が鬱病であり、こんなことをしていると 「未来において」、こんな災いが襲ってくると戦々恐々、不安に苛まれている症状が分裂病であるという。 両病状とも 「現在をそっちのけにして」 実生活から逸脱してしまうことが精神病たる所以であろう。 精神病とは医学的問題ではあるが、多く時空間的な物理学問題でもある。
文字の威力
 文字は我々が意識も知覚もできない暗在系宇宙(虚空間)から我々が意識し知覚できる明在系宇宙(実空間)への万物事象の象出を促す。 それは現実としての実在場構築メカニズムの 「起動ボタン」 のごとくである。 阪神球団の星野監督が色紙に 「打倒、巨人」 と文字に顕わした瞬間、打倒巨人が現実化するメカニズムが起動したのであり、かかる日において巨人が阪神に打倒される実在場が構築されるのである。 さても偉大であり、怖ろしきは文字に顕わすことであり、顕れた文字は必ず実在化されるのである。 言霊の威力とはこのことである。
刹那の行為
 誰も一瞬の刹那になされた行為の意味を、その瞬間において理解することはできない。 だが人生の意味と価値は、この妥協も躊躇も掛け値もゆるされない 「一瞬の行為」 にある。 その一瞬の行為の意味は、その後、万巻の書物をもって語られることになるが、その価値は一瞬の行為の価値に永遠におよばない。
最高の所有
 現代人が口角泡を飛ばして主張する建物や土地や車などの 「物質の所有概念」 は制限付きであり、矮小で、偏狭である。 だが、志操や情操や美意識などの 「意識の所有概念」 は無制限であり、広範で、無辺である。 人間がこの世で専有できる最大で最高な所有は 「考える頭脳と思う心」 である。
打算と志操
 人類が構築した社会システムとはそれぞれの人間の立場を組織化したものであり、この組織化は民主国家であれば社会全体の繁栄を目的として構築される。 組織の一員である個々人の価値観はこの社会目的達成にそって、各人が獲得できる個人的繁栄の最大値を計算するものとなる。 通常、この最大値の計算を 「打算」 と呼ぶ。 つまり、打算的とはこの計算能力の優劣を表現したものである。 この社会目的達成に向けての打算は個々人の物質的繁栄には貢献するが、個々人が達成を目指す人生目的である意識的繁栄に寄与するかは不明である。 個々人が目指す意識的な人生目的は 「計算される」 ようなものではなく、無形で、無量な 「思いの構造」 による。 現代人は今、打算から発現した物質至上主義社会システムがもたらした閉塞空間に陥ってしまっている。 この閉塞空間を突破できるものは、この打算を捨て去ったところに発現する 「高い思い」 である。 換言すれば 「志操」 である。 現代日本人は世界で1、2を争うぐらい打算的ではあるが、志操的かどうかは不明である。
確かなこと
 確かなことは、人間はまぎれもなく、そしてまちがいなく、死ぬことである。 ある人の人生が 「本物」 であるか否かは、このまぎれもなく死ぬという意味をしっかりと 「自覚」 しているか否かにより決まる。 この意味では現代日本人はかなり 「偽物」 が多い。 それは長く続いた平和で安定した社会環境の中で、この人間が確かに死ぬことを顕在意識上で自覚しなくなり、潜在意識下において永遠に生き続けるかのごとく思うようになってしまったことに起因する。 人間無駄なことをするのは致しかたがないことではあるが、あまりに無駄が多いことは考えものである。 万物の霊長と尊称される人間であってみれば、このはるかに無駄なことを少々無駄でなくすることぐらいは努力しなくてはならない。
原始、人類は生物であった
 原始、人類はこん棒を振り回していたのであり、コンピュータのキーボードを叩いていたのではない。 原始、人類は川の水を飲んでいたのであり、缶入りのジュースやコーラを飲んでいたのではない。 原始、人類は自分の足で歩いていたのであり、自動車や電車に乗っていたのではない。 我々人類は博物学の分類では生物とされている。 しかし、生物とすれば、現代人の生態はまことに 「挙動不審」 である。
言葉の崩壊
 物質文明機能社会をここまで牽引してきた最大の功労者は文字で構成された言葉であろう。 現代文明はこの 「言葉の石垣」 の上に築かれた堅固な城塞である。 だが近年に至り、この堅固な城塞が揺らいできている。 原因はとりもなおさずその城塞の基礎をなす石垣のひとつひとつである 「言葉の力」 が失われてきたことに他ならない。 力を失った石垣は瓦解するほかなく、その基礎の上に乗った城塞もまた早晩崩壊する運命にある。 言葉の力が失われたとは、言葉が軽く、薄っぺらになったということであり、それは繰り返される政治家の 「国会答弁」 しかり、巷間身の回りに飛び交う 「虚言」 や 「戯言」 を考えあわせれば了解されるであろう。 これはまた物質文明が成熟し、爛熟し、行き着いた必然的帰結でもある。 「満ちれば欠ける」 は世のならいである。 言葉には思いが込められなければならない。 「思いが込められた言葉」 こそが、崩れゆく城塞の基礎に再びの力を与え、その崩壊をくいとめる 「漆喰(しっくい)」 として機能するのである。
意識世界の相対性
 物質宇宙に相対性の法則が在るように意識宇宙にも相対性の法則が在る。 この世に絶対的な正義や善は存在しない。 存在するのは、ある基準の上に立った正義であり、善である。 その基準は人間が置かれた社会システム上の 「立場」 から発生し、また歴史上のそれぞれの時代がもつ 「価値観」 から発生する。 10人の人間がいれば10の立場が在り、その立場に従った10の正義と善が存在するし、時代のもつ価値観で言えば、ある時代の正義や善は、別のある時代においては不正義であり、悪である。 正義や善悪の基準がこのように置かれた立場や時代の価値観の相対性で変遷し、流転する以上、巷間、口角泡を飛ばして激論する人々のそれぞれの主張意見の基盤は 「砂上の楼閣」 ほどに脆弱である。
意識世界の絶対性
 意識世界の絶対的価値観は時間軸に垂直な空間である刹那宇宙に存在する。 「今、ここにある危機」 という映画の題名ではないが 「今、ここにある正義」 と言う価値観である。 しかし、今、ここにある危機も時間が経過すれば危機ではなくなるように、今、ここにある正義も時間が経過すれば正義ではなくなる。 つまり、時間軸に垂直な空間である刹那宇宙での意識世界の価値観は 「絶対性の法則」 に支配され、時間軸に添った空間である連続宇宙での意識世界の価値観は 「相対性の法則」 に支配される。 この意識世界の絶対性と相対性をよく理解していないと、時間0の刹那宇宙の意識の絶対性から発射されたミサイルで、連続宇宙の意識の相対性が破壊され、消滅してしまうかもしれない。
時間のエネルギ
 時間には莫大なエネルギが秘められている。 その時間のエネルギは強大な権力で栄華を誇ったローマ帝国を崩壊させ、権威を誇った徳川幕府を崩壊させ、近くは磐石の基盤を保っていたソビエト連邦をも崩壊させ 「時空の闇」 に葬ってしまった。
偉大な意識の巡り逢い
 ニュートンの偉大な意識は 「物体の運動法則」 をこの時空から抽出し、アインシュタインの偉大な意識は 「物体と空間と時間の関係法則」 をこの時空から抽出し、エジソンの偉大な意識は 「数々の利便性製品」 をこの時空から抽出し ・・ の偉大な意識は 「・・・」 をこの時空から抽出した。 我々が今、実在とする現在という 「実在場」 は、これら偉大な意識が遭遇した時空との巡り逢いで抽出した 「意識場」 を基にして構築されている。 この意識場のことを社会学では 「現代社会」 という呼び名をもってあてている。
意識の奴隷
 インターネット的な意識の集団化が拡大すればするほど確実に一人一人の個別意識は小市民化し束縛されていく。 人類の未来は今、大きな分岐点に至ったと言ってよい。 現代社会において最も必要とされるものは意識的な集団化に対応できる強靱な 「知力」 であり、それは古代社会において最も必要とされた物質的な集団化に対応したヘラクレスのような強靱な 「体力」 に比肩される。 古代社会においては体力が劣れば身の自由が束縛された奴隷になってしまった。 同様に現代社会においても知力が劣れば心の自由が束縛された奴隷となってしまう。 古代ギリシア人は理想の人間像として、アポロン的な 「肉体美」 を追い求めた。 同様に現代人は理想の人間像として、ディオニュソス的な 「精神美」 を追求することになろう。 しかしながら、現代社会に顕現している政治家の意識しかり、企業家の意識しかり、芸術家の意識しかり ・・ このディオニュソス的な精神美とは未だほど遠い状態にある。
意識の出家者
 現代の出家者と従来の出家者は様相を異にする。 今までの出家者が 「この世から我が身を離脱」 させたのに対し、これからの出家者は 「この世から我が意識を離脱」 させなければならない。 この世からの意識の離脱とは、この世のいかなる意識にも束縛されず、またいかなる意識にも従属しない意識となることである。 従来の出家思想にこだわっていては、現代の出家者にはなれない。
観察力の戦い
 今や世界はボーダーレス化し大競争の時代に入った。 地球はひとつの戦場(市場)と化し、各国、各企業、各集団が覇権を争っている。 この戦いは 「情報戦」 であり、通信衛星を飛ばし、調査員を派遣し、情報の収集にやっきになっている。 情報を制した者がこの戦いに勝利する。 だがこの情報をいくら集めても、あるいは調査員を何人派遣しても、情報が力をもつためには観察力に優れた指揮官や、観察力に優れた調査員がその情報をいかに用いるかによる。 この戦いに勝利するには、三国志の英雄、諸葛亮孔明のごとく、眼光紙背に通ずる 「人間観察力」、「社会観察力」、「自然観察力」 が必要である。 世界が喧噪を極め、華々しく群雄割拠しても、最後に戦いを制するのは孔明のごとく、宇宙の片隅で野に伏し、沈思黙考、晴耕雨読して、これらの情報を有効な力に転化できる優れた観察力を獲得した者である。 コンピュータ全盛の世ではあるが、この理に古今はない。
実社会の構成
 虚空間の混濁混沌である感情集合体エネルギタンクから個別意識により選択された個別意識エネルギが流出し、流出した個別意識エネルギが実空間に個別物質(個別物体)を発生させる。 これらの個別意識が集合したものが社会集団意識(意識世界)であり、個別物質が集合したものが社会集団物質(物質世界)である。 実空間に在ると考える実社会とは、この社会集団意識と社会集団物質が表裏一体となったものである。
帰納された宇宙
  我々が生きている世界とは感情が創造意識と破壊意識で制御されたものである。 創造意識と破壊意識をまとめて 「理性」 という言葉に置き換えれば、世界とは感情が理性で制御されたものである。 さらに感情を 「情」 という言葉に、理性を 「理」 という言葉に置き換えれば、世界とは情が理で制御されたものである。 さらに情を 「思い」 という言葉に、理を 「考え」 という言葉に置き換えれば、世界とは思いが考えで制御されたものである。 さらに思いと考えを 「思考」 という言葉に置き換えれば、世界とは思考で制御されたものである。 さらに世界を 「物質」 という言葉に、思考を 「意識」 という言葉に置き換えれば、物質とは意識で制御されたものである。 これらの帰納を続ければ、やがて宇宙が意識によって発生していることに帰着する。
編集的現実
 編集工学を研究する松岡正剛氏は 「エディット・リアリティ」 という言葉を用いてこの実空間を表現する。 エディット・リアリティとは 「編集的現実感」 とでも訳されようか。 我々が実在として感じているこの実空間はある種の 「意識的編集」 によって発生する世界であるとする考えである。 「お金という編集基準」 でこの世界を編集すれば、その編集に応じた世界が象出し、「愛という編集基準」 でこの世界を編集すれば、その編集基準に応じた世界が象出する。 実空間であるこの世は地球上に生きるすべての人の編集基準で編集された 「多重的な編集世界」 として存在している。 編集基準を価値観と言い直せば、この状況はより理解されるであろう。 我々が目の前にする 「現実」とは、意識的な価値観で編集された 「エディット・リアリティ」、つまり、「仮想的現実」 であるとするのが松岡氏の言わんとするところであろう。
科学と人間
 壁にボールを投げる時、科学の方法論はニュートンの運動方程式を使用して、このボールの壁からの距離、初速度、角度等を知ることにより、壁で跳ね返ったボールがどこに帰って来るかを予測可能である。 だが 「そんな計算」 などしなくとも子供は壁に向かって投げたボールがどこに帰って来るのかを 「瞬時に把握」 してキャッチすることができる。 この子供からすれば、ニュートンの運動方程式とは 「何と稚拙な方法」 であろうかと考えるに違いない。 この例が示すように人間は科学の方法論である 「ニュートン力学」 や 「アインシュタインの相対性理論」 や 「シュレジンガーの波動方程式」 や 「ボーアの量子論」 ・・ 等々の難解な科学理論を知らなくとも、それ以上のことを日常において、何の苦もなく実行しているのである。 この 「事実」 を科学者はいったいどのように説明するのであろうか? もし、我々が日常において行うさまざまな行為を、これらの科学的方法論で記述しようとするならば、気が遠くなるほど膨大で、難解な方程式の羅列をもってしても不可能であろう。 実空間に存在する人間、あるいは他の生物、植物 ・・ 等々もみな同様に、このようなことを 「すでに知っていて」 それらを 「難なく行う」 ことができる能力を備えているのである。 現代科学の粋をもってしても、この不可思議な能力を説明することは不可能であろう。
化石と幽霊
 この宇宙が 「物そのもの」 だけで構成される科学の方法論で記述される 「唯物的世界」 であるとするならば、人間は 「化石」 のようなものである。 他方、宇宙が 「心そのもの」 だけで構成される心理学の方法論で記述される 「唯心的世界」 であるとするならば人間は 「幽霊」 のようなものである。 化石も味気ないが、幽霊も味気ない。
言葉の本質
 我々はこの世の万物事象を言葉に置き換えることでその万物事象を理解したかのような気になる。 だが、これは単にこの世の万物事象に 「レッテルを貼った」 だけであり、その万物事象が意味する 「本質」 を理解したわけではない。 私はここまで工学メカニズムの研究開発に従事して来たが、この研究開発の根幹は万物事象の本質を、いかに見抜き、理解するかにかかっている。 その経験で言わせてもらえば、身の回りに起きる現象に対する我々の理解力は、ほとんど 「猫に小判」 の状態であり、その観察眼はほとんど 「ふし穴」 程度の状態である。 子供の頃に恩師に教えられた 「箴言の本質」 が理解されるのは、その子供が白髪の老人になってからなのである。
抜け穴だらけの牢獄
 人類が構築した現代システム文明が閉塞状態に陥っているとする見方が世相の主流を占めつつあるが、このシステム文明が 「言葉を基本」 として構築されていることは異論のないところであろう。 言葉が物事の本質を表現していないことは従前のごとくであり、依って言葉を基本として構築されたシステム文明もまた本質を表現していないことになる。 これからすれば、「にっちもさっちもいかない」 という現代システム文明の閉塞状態はまた 「抜け穴だらけの牢獄」 のようだと言うことができる。 人類にとって今、最も必要なことは、不完全な言葉のレッテルで構築された現代システム文明の 「常識」 という意識の束縛から脱皮することにある。 そのためには、身辺に飛び交い、浮遊する言葉の真の意味(本質)を理解することに努力を傾注しなければならない。 でなければ、巷間言われる 「自己変革」、「発想の転換」 ・・ 等々の言葉は、単なる 「お題目」 に過ぎず、俗に言われる 「経読みの経知らず」 に逸することになる。 つまり、「自己とは何か?」、「変革とは何か?」、「発想とは何か?」、「転換とは何か?」 という 「言葉の本質」 を追求しなければならないのである。
動と静
  動が 「積極的」 であり、静が 「消極的」 であるかは一概には言えない。 機が至らぬ状況での動とは 「手の内の暴露」 であって、顕れてしまったエネルギは消滅するしかない。 動の有効性は機が至った時の 「刹那」 での行使にあり、これにより事の勝敗は決する。 機が至らぬ状況での静には、計り知れないエネルギが秘められている。 静の有効性は機が至るまでの 「継続」 に存するのであって、この行使により事の勝敗は決する。 つまり、事の成否は、機に応じた動と静の 「調和」 にある。 事を急いだからとて、またゆっくりしたからとて、それによりどうなるものでもない。 また、機とは天・地・人の 「三つの気」 が一点に集まった瞬間であり、その機を見極めて、動と静を選択的に行使すれば、事は自ずと成るのである。 天・地・人の三つの気が一点に集まる現象とは、時代の潜在エネルギ(ディオニュソス的意識エネルギ)が、ある日、ある時、突如として顕在エネルギ(アポロン的意識エネルギ)に昇華し、とある時空風景を象出させようとする現象である。 これこそが 「直観的場面構築」、「歴史的場面構築」 のメカニズムに他ならない。 それはまた物理学者イリヤ・プリゴジンが提示した 「自己組織化」、生物学者ダーウィンが提示した 「突然変異」 等々の現象と等価である。
機の本質
 天・地・人の三つの気が1点に集まった 「機」 により、とある時空風景が象出する条件とは何であろうか? 換言すれば、無限数ある万物事象の諸相が集合化された混沌のエネルギの中から、あるひとつの相が規則正しく結晶化(自己組織化)する条件は何であろうか? 物理学者イリヤ・プリゴジンは、この自己組織化が熱力学で言う 「エントロピーが増大」 し、臨界点に達した時に発生すると言う。 エントロピーが増大するとは、万物事象が複雑化、曖昧化、雑然化する状況のことである。 日本の諺である 「雨降って地固まる」、「窮すれば通ず」 等々は、これらの自己組織化(結晶化)の様相を簡潔に語っている。 つまり、機とは我々が嫌う 「修羅場」、「土壇場」 等々の、にっちもさっちもいかなくなった状況のことである。 我々はこれらの状況を何とか回避しようと考えてしまうが、逆にこの切迫した状況こそが 「機の本質」 である。 巷間言われる 「ピンチはチャンス」 とは、まさにこのことを述べている。 多くの歴史事件はこの証左である。 風雲急を要する修羅場の中で、時代は創られてきたのであり、時代の英雄は、この風雲に乗って登場したのである。 この逆説は、英雄は時代が混乱し、風雲急を要する状況とならなければ、登場しないということであり、また時代が混乱し、風雲が押し寄せなければ、英雄とて何ら事が為せないということである。
英雄の機能
 英雄は時代が行き詰まり、天・地・人の気が1点に集中した時に顕れる。 そして、その行動を観察すると、彼が時代の混乱を巧みに利用していることがみえてくる。 それは、一種の梃子(てこ)のような作用である。 梃子を利用すれば、理論的には一人の力をもってして、地球をも持ち上げることも可能である。 英雄はこの梃子の理論を使って、時代を動かすのである。 力学的な梃子の作用は、化学的な触媒の作用に相似する。 化学反応は触媒の介在によって急速に進行する。 時代の相転換(混沌からの自己組織化)において、英雄の機能は、その自己組織化(結晶化)を促進させる 「触媒」 であり、莫大な時代エネルギを動かす 「梃子」 の役割を演じているのである。
呑舟の魚
 何事か為そうとする者は、時代の混沌から発現する 「機」 を有効に運用しなければならない。 そのためには、常に時代の混乱と混沌の中に、身を置かなければならない。 「水清ければ魚住まず」 のたとえのごとく、混沌から身を離しての人間生活の実存はなく、仙人のごとく、これらの混沌から遊離していてはならない。 「呑舟の魚」 は、常に混濁の淀みに生息するのである。
無の存在意義
 我々は目に見える世界に生きている。 だが私が使用する携帯電話の電波は目に見えない。 その見えない電波を使用して何千キロ離れた、それも何億人の中から選択された、とある特定の人と会話ができる。 アインシュタインの相対性理論はエネルギが物質の質量と光速度の二乗の積であることを示したが、そのエネルギを目で見ることはできない。 現代人はこれらの目に見えない現象を宇宙の中から見つけだし、それを生活に利用して生きている。 量子論物理学者ディラックは、真空とは 「何も無い」 のではなく、「虚のエネルギで満ちている」 と言う。 彼はその虚のエネルギで満ちている真空から 「電子」 と 「陽電子」 というマイナスとプラスの電荷を持った 「一対の素粒子(物質)」 が生まれることを明らかにした。 「無からの有の発生」 である。 またこの一対の電子と陽電子の素粒子は光を放ち対消滅をする。 「有からの無への消滅」 である。 電子は 「物質」 であり、陽電子は 「反物質」 と呼ばれる。 物質は物質ではない反物質と一対となることで物質であり得、逆に反物質は物質と一対となることで反物質であり得る。 換言すれば、有は無と一対となることで有として存在し得、無は有と一対となることで無として存在し得る。 つまり、我々が目にする世界は、目に見えない世界が存在することで存在している。 同様に、実は虚で支えられ、自由は不自由で支えられ、幸福は不幸で支えられ、喜びは悲しみで支えられ、安定は不安定で支えられ、富者は貧者で支えられているのである。 無の存在はかくも偉大であり、無の存在がなければ、我々が日々とやかく言っている目に見える有の意味はあとかたもなく消滅してしまう。 無の存在意義である。
Number One から Only One へ
 Number Oneは 「ひとつ」 しか無い。 だがOnly Oneは 「たくさん」 有る。 Number Oneは 「拘束的」 であり、「硬直的」 である。 だがOnly Oneは 「開放的」 であり、「弾力的」 である。 Number Oneは 「没個性的」 である。 だがOnly Oneは 「個性的」 である。 現代社会の価値観は今、Number OneからOnly Oneに向かって転換を試みている。
負けない者
 勝ち抜ける者とはNumber Oneを目指す者であり、負けない者とはOnly Oneを目指す者である。 今後展開するOnly Oneの価値観からすれば、これからの闘いの勝負は 「勝つこと」 よりも 「負けないこと」 が基準となる。 巷間言われる 「勝ち気に勝る営業マンより、負けん気に勝る営業マンの方が成績が良い」 という構図がこの意味を語っている。
徒労と無能の狭間
 過去と未来の狭間に存在する宇宙が現在であるが、この現在という宇宙は特異な宇宙である。 なにげなくこの現在という宇宙を通過する人もいれば、この宇宙にすべてを賭ける人もいる。 これらのさまざまな人間模様が展開されるのが、現在と呼ばれる宇宙の様相である。 未来は未確定なのか、それとも確定されたものなのか? 小説は過去・現在・未来を必然性をもって描写した確定された世界である。 だが現実としての現在は、何とも得体の知れない、未知数の世界である。 物事は 「やらなくてもわかる」 のか? それとも 「やってみなければわからない」 のか? これは特異な現在宇宙が抱える、永遠の課題である。 この構図は、因果律を基礎とする古典ニュートン力学と、確率論を基礎とする近代量子力学との対比構造に相似する。 前者は時間が連続する時空間(連続宇宙)の中で語られる世界の描写であり、後者は時間 0 の時空間(刹那宇宙)の中で語られる世界の描写である。 前者は過去・現在・未来を必然性をもって描写した確定された小説世界と等価であり、後者は我々が直面する現在という得体の知れない未知数の現実世界と等価である。 事実は小説のごとくなのか? はたまた小説より奇なりなのか? この視点の異なりによって、なにげなく現在を通過する人と、すべてをこの現在に賭ける人が、過去と未来の狭間の宇宙(現在)に混在することになる。 前者が正しければ 「後者は徒労」 であり、後者が正しければ 「前者は無能」 である。 おそらく、現在という刹那宇宙は、この人間の 「徒労と無能」 の意識が渾然一体となって宇宙スクリーンに投影された曼陀羅模様の風景なのであろう。
意識のワームホール
 有の世界は無の世界を基準とし、無の世界は有の世界を基準とする。 善悪と言えど、善の基準は悪の意味をもって定まり、悪の基準は善の意味をもって定まる。 人間は有の世界は見ることはできるが、無の世界を見ることはできない。 だが有の世界のそこかしこに無の世界が漂っている。 無の世界は心眼をもって観ようとすれば観ることが可能である。 また無の世界に飛び込み、再び有の世界に戻ることも可能である。 その道筋は近代物理学が語る時空のトンネル 「ワームホール」 のようである。 ワームホールを通れば何億光年隔たった空間へも物体は瞬時に移動可能である。 意識のトンネルもまた、この物質のワームホールに等価と考えれば 「意識ワームホール」 を通れば有の世界から無の世界へ、無の世界から有の世界へと、意識は瞬時に移動可能となる。 問題はこの 「意識ワームホール」 をいかにして発見するかではあるが。
質と量
 宇宙をとらえる最も基本的な知的ツール(編集基準)は 「形」 と 「数」 である。 我々は 「形」 の知的ツールで 「あの人は美人だ」 と言い、「数」 の知的ツールで 「あの人は金持ちだ」 と言う。 「形」 の知的ツールから 「幾何学」 が創始され、その体系下に絵画や彫刻などの芸術、建物や都市などの建築学等が創出された。 また 「数」 の知的ツールから 「代数学」 が創始され、その体系下に音楽や経済学等が創出された。 この 「形」 と 「数」 の知的ツールは 「質」 と 「量」 という知的ツールに置き換えられる。 「形」 が意味するところは 「質」 であり、「数」 が意味するところは 「量」 である。 あの人は美人だと言うときの美人という 「形」 は 「質」 であり、あの人は金持ちだと言うときの金持ちという 「数」 は 「量」 である。
アナログとデジタル
 さらに 「形」 と 「数」 の知的ツールは 「アナログ」 と 「デジタル」 という知的ツールに置き換えられる。 アナログとは 「連続的」 なものを意味し、デジタルとは 「刹那的」 なものを意味する。 つまり、「形」 とは 「質」 であり、「連続的」である。 また 「数」 とは 「量」 であり、「刹那的」 である。 この知的ツールで考えれば機械工学はアナログ的であり、電気工学はデジタル的である。
なぜの最終解答
 なぜを突きつめるとニヒリズムに帰着する。 なぜ生きるのか? なぜ仕事をするのか? 等々。 これらの 「なぜ」 を人は常に問いつめずにはおれないが、ようようその答えらしきものに到達し、その答えを口にしたとたん 「だがしかし」 と再び 「次のなぜ」 を問わずにはいられない。 してみると、これらの 「なぜ」 には、最終解答が存在しないようにも考えられる。 これらの 「なぜ」 は、あるいは 「人生の余興」 のようにも思えてくる。 人が仕事をするのは、何も理由があってするのではなく、人が生きるのは、何も理由があって生きるのではなく、「ただ仕事をして」、「ただ生きている」 という解答が、実は最も 「現実的」 なものなのではないか ・・ と思えてくるのである。
意識パワー
 情報文明社会の基本パワーは 「意識パワー」 であり、機械文明社会の基本パワーは 「物質パワー」 である。 従って、人間のパワーもまた、従来の体力、筋力などの物質パワーから、意志力、決断力、忍耐力などの意識パワーに、「パワーシフト」 する。 この意識パワーで最高に強力なものは、あらゆるものから独立し、あらゆるものに隷属しない、自律した 「自由意思の意識パワー」 である。
大人物とは
 この世の不条理や不遇のひとつひとつに腹を立てていたのでは、人間、体が幾つあっても足りない。 人間個々の欲求がすべて 「自己保存の法則」 に従っている以上、相互の欲求のすべてが、ともに成り立つことは不可能である。 ある人の欲求は、またある人の欲求を阻害することになるのは必然の理である。 この時、阻害された人は、阻害した人に対し、腹を立て、口汚くののしることになるが、そのののしっている人自身が、またある時、今度は阻害する側に立つことになる。 自己の欲求を 「主張」 する人はまた、他者の欲求に対しても 「寛大」 でなければならない。 世の不条理や不遇にいちいち腹を立ててはならないのである。 大人物とは 「この構図」 をよく理解している人であり、いかなる不条理や不遇をも、笑って 「平然と腹に納める」 ことができるのである。 この大度量が自己に幸いをもたらすとともに、また多くの他者に幸いをもたらす。 誰しも自分を非難する人よりも、自分を許容し、認めてくれる人を好きになるのは必然のながれであり、このながれは理屈ではなく、多く感情の問題なのである。 つまり、人はその 「理に従う」 のではなく、その 「情に従う」 のである。
過去・未来の実在性
 我々は、実際に眺めることができ、直接に手を触れることができる現在という 「刹那宇宙」 に生きている。 この現在という刹那宇宙が、時間軸に添って積層されて構築された宇宙が 「連続宇宙」 であり、一般に言う 「過去」 と 「未来」 の世界である。 誰しも、過ぎ去った 「過去にこだわり」、訪れる 「未来におののく」 のであるが、この過去への 「こだわり」 と、未来への 「おののき」 の本質とはいかなるものであろうか? 過去へのこだわりが度を越すと、人は 「鬱病」 になり、未来へのおののきが度をこすと、人は 「分裂病」 になるといわれる。 これらの精神病の本質は、実際に眺めることができず、また直接に手を触れることができない連続宇宙(過去・未来の世界)の存在感を、意識世界の中で、喪失してしまった状況である。 これらの病状に陥らないためには、過去と未来という意識世界に構成されている連続宇宙が、実際に眺めることができ、また直接に手を触れることができる刹那宇宙(現在の世界)を、時間軸に添って積層することにより構築した世界であることを、常に念頭において生きることである。 つまり、今日が駄目でも明日があるのであって、勝負は下駄を履くまで解らないのである。 時間が経過すれば、悲しみはやがて喜びとなり、不運はやがて幸運となるのである。 連続宇宙としての 「過去・未来の実在性」 とは、まさに 「このようなもの」 である。
万物事象の所有権
 宇宙全体である 「可能性の海」 としての暗在系からこの世に実在化した明在系である現実世界に存在する 「万物事象」 は、言うなれば我々の意識という 「投影機」 で投影された、投影像のような存在である。 我々の意識という投影機が消滅すれば、その投影像は、全体宇宙の暗在系に没し去る。 このようにあてどない万物事象の所有権を、あれこれ主張してみても、所詮は我々の意識が継続する間のことであり、意識の投影機が消滅(一般には臨終)すれば、これらの万物事象は泡のごとく消えてしまう。 粗末な庵で生涯を過ごした良寛が、慈しんだ貞心尼へ遺した辞世の句、「かたみとて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」 は、このような、この世の 「うつせみの構造」 を、彼がよく悟っていたことを物語っている。 良寛が愛したこの世の万物事象は、彼の意識がこの世に創りだした、「彼の意識の所有物」 であり、この世の 「形見」 なのである。 このように、この世に実在化している万物事象は、全体宇宙である可能性の海から、我々の意識の投影機により投影された投影像にしか過ぎない。 可能性の海としての暗在系には、意識できる限りの、あらゆる可能性が含まれているのであって、言うなれば 「打ち出の木槌」 なのである。 打ち出の木槌などというものは、この世には無いと、我々は考えているのであるが、まさに可能性の海である暗在系は、この打ち出の木槌に匹敵する。 そして、その打ち出の木槌を振るうのは、あなた自身の意識なのであって、万物事象の所有権とは 「あなた自身の意識の所有権」 なのである。 依って、この世での最大にして最強の資産とは 「考える頭脳と思う心」 ということになる。
宇宙の道徳規範
 過去も未来も 「現在」 に含まれている。 昨日の私は今日の私に含まれ、明日の私は今日の私に含まれている。 全体宇宙としての可能性の海である暗在系から明在系である現実宇宙として実在化した 「現在」 という空間は、一瞬も留まることなく千変万化する 「刹那宇宙」 である。 換言すれば、現在という空間は、常に 「可能性のゆらぎ」 の中にある。 諸行は無常であり、万物は流転するのである。 この可能性の明滅にゆらぐ現在という空間に、もし確固たる永遠の真理があるとするならば 「あらゆる確固たる真理は、確固たる真理でない」 という真理である。 あらゆる確かなことは、いずれ不確かなことに変化する。 栄枯盛衰は歴史の必然であり、盛者必衰は歴史の理である。 人間社会は時代が創った 「道徳規範」 によってコントロールされているが、この道徳規範もまた、唯一確固たるものではない。 全体宇宙である可能性の海には人間意識が考えられる限りのあらゆる可能性が含まれている。 現実世界として実在化しうる 「無限の許容量」 をこの可能性の海は内蔵しているのである。 現在の道徳規範を、我々は唯一絶対の教条のごとく考えて、それに束縛されてしまうが、全体宇宙はそれを唯一絶対とは規定していない。 その道徳規範は 「ほんの一例でしかない」 のである。 宇宙が規定する道徳規範とは、善と悪、正と誤、大と小、増と減、美と醜、あれとこれ ・・ 等々。 「ペアポールの狭間」 で可能性のゆらぎに明滅するその 「無常性」 のみである。
精神的破産者
 現代人は物質的に見れば大富豪であろうが精神的に見ればみじめな破産者のごとくである。 現代科学は我々の周りに実在化した万物事象を理性で分析し、解剖し、我々の生活のために役立つ道具に変換した。 万物事象に対するこの科学のアプローチ手法の絶大な成功は 「科学的合理主義」 という唯一絶対的な概念を現代人の精神世界に強烈に植え付けることにもまた成功した。 現実世界を客観的に冷ややかに理性をもって眺めることが科学の基本姿勢であり、その中に自己の主体性を差し挟む余地はない。 あくまで自己を空しくして対象である万物事象を客観視しなければならない。 我々はこのような科学的合理主義をもってあらゆる万物事象を利便的道具に変換し豊饒な物質文明社会を地球という惑星上に築いたのである。 しかし、物質文明社会の大成功の裏で人間自身の主体性の喪失という精神文明の衰退が密かに進行してきたことを見落としてはならない。 自己を空しくして現実世界の万物事象を客観視する姿勢は必然的に 「これ」 という自己基準でものを考える視点から 「あれ」 という他者基準でものを考える視点に視点を転換することを強要する。 「これ」 から 「あれ」 への視点転換で確立される主体性とは 「あれ基準」 で構築された偽善的主体性であって、自己を主体とする 「これ基準」 で構築される真の主体性ではない。 言うなれば、他者を主体とする 「従属性」 である。 科学的合理主義を信奉する多くの現代人が主張する 「主体性」 とは、実は他者への 「従属性」 に他ならない。 これらの従属性は現代社会のそこかしこに顕れている。 それは社会システムへの従属であり、権力への従属であり、金銭への従属であり、土地や物への従属であり ・・ 等々である。 「これ」 以外の 「あれ」 への従属は、また隷属であり、追従であり、服従である。 ゆえに、現代人は華やかな物質文明社会に生きて生活を豊饒な利便性物質で飾り自由人であると胸を張って微笑んではいるものの、その微笑みにはどこか薄ら寒い虚しさが漂うのである。 現代人は物質的には大富豪に近づきつつあるとともに、また精神的には破産者へも近づきつつある。
精神の漂泊者
 現実世界に実在化した人間は 「精神の漂泊者」 のようである。 可能性の海である全体宇宙(暗在系)から投影(実在化)された現実宇宙(明在系)は時々刻々と万物事象を変化させて留まることがない 「無常性の世界」 である。 この無常性の世界を古人は 「浮世」 という軽妙な言葉を使って表現したが、まさにこの世は暗在系である全体宇宙としての可能性の海に泡沫のように浮いているような世界である。 泡沫はかつ生まれかつ消えその泡沫の中に顕れた人間もまた一粒の泡のごとく一瞬も留まることなくその海に漂泊する。 この世で確固たる存在と考える万物事象はそのように確たるものとは言えず人間意識の観測(意識化)よってこの世にたまたま象出しているにすぎない。 最先端物理学は万物事象の根源を成す物質が量子レベルでは波動性と粒子性の狭間でゆらぎの状態にあることを説明する。 かく述べる私もまた時としてこの現実世界にたまたま実在化した物質であり、その不確定性の世界に居住しているのである。 このような 「不確定性の世界」 で言える確かなこと。 それは、身の周りに広がる宇宙に対して 「我、かく思う」 という意識者(観測者)としての意識(観測)の実存性のみである。 我々は可能性の海(全体宇宙)を旅する 「精神の漂泊者」 のようであり、浮世と呼ばれるこの現実世界に浮き草のようにあてどなく漂っているだけの存在なのかもしれない。
宇宙のゆらぎ
 現代物理学は 「宇宙のゆらぎ」 に着目している。 その特性について考えてみる。 人間が物を手に持って重さを確認しようとする場合、物を持った手を上下に振ってその重さを計る。 物を持った手を静止させてその物の重さを確認しようとすると、何故かしっかりとした重さを感ずることができない。 言うなれば、この上下に振る運動がゆらぎの運動である。 同様に人間の目は小刻みに振動しているが、この振動を止めてしまうと何も見えなくなると言われる。 網膜に映った像が細かくゆらいでいないと物体の実像をとらえることができないのである。 テニス競技でサーブレシーブする選手が小刻みに体を左右に揺らしているのも、昆虫が触覚を小刻みにあらゆる方向に揺らしているのも、蛇が長い舌をひらひらと揺らしているのもまた 「同じゆらぎの運動」 である。 これらのゆらぎ運動は来るべき 「未来を予測しようとする働き」 をもつと言われる。 それは、盲人が歩行する時に進むべき方向に対してもった杖で足下の地面のあちこちを叩き進路上の障害を予測するのと同じである。 この杖のゆらぎがないと盲人にとって全く未知で不確定な空間である路上を安全に歩むことができないのである。 来たるべき未来に対して我々もまたこの盲人と何ら変わることがない。 全くの未知な不確定な状態に置かれているのである。 盲人の杖のゆらぎに対応する未来を予測するための何らかのゆらぎ手段がなければこの不確定な空間で安全に生きていくことはできない。 つまり、昆虫は触覚を揺らし、蛇は舌を揺らし、テニス選手は体を揺らし、未知なる未来を予測し、手探りしているのである。 これらのゆらぎは可能性の海である全体宇宙としての暗在系から明在系である現実宇宙が実在化しようとする際に発生する 「根源的ゆらぎ」 に起因する 「有と無の狭間に発生する」 ゆらぎ現象である。 かくして地上を渡る風しかり、経済の胎動しかり ・・ しかり、この世の万物事象はすべて、次に象出する現実世界を予測するためにゆらいでいるのである。
ゆらぎの倫理観
 宇宙ゆらぎから発生する現実世界(この世)には何ら確たるものがない。 すべては可能性に対する確率である。 我々の日々の営みはその可能性に向かっての試行錯誤であり、その試行錯誤のゆらぎが我々の生命エネルギの根源である。 現実世界(この世)には確定された未来などどこにもなく、すべては可能性への確率で、一瞬も留まることなくゆらぎ続ける 「不確定性の世界」 である。 映画カサブランカで名優ハンフリーボガードが言った 「明日のこと ・・? そんな先のことは解らない」 が 「ゆらぎの倫理観」 を雄弁に語っている。
決断の美
 人間の行う決断が詩となり絵となるためにはその決断が 「美意識」 に支えられていなければならない。 日本民族の誇りはこの 「決断の美」 に在ったと言うことができる。 武士道などはその典型であり、決断の美としての 「行動の潔さ」 が追求された。 現代人が失ってしまったものは、この行動の潔さであり、それは保身のために言を左右にする政治家、経営者、文化人 ・・ 等々を眺めれば歴然たるものである。 決断の美には理由も説明もいらない。 必要なものは決断という 「行為」 のみであり、その行為がすべてをあますところなく語っているのである。 つまり、決断の美はその行為の潔さによって裏打ちされるのである。

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