Linear ベストエッセイセレクション
唯識論的物理学
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不気味な遠隔作用〜宇宙の非局所性とは
 「実証された量子もつれ」 が明らかにした 「非局所性」 とは、この宇宙における現象が宇宙の果てほどに遠く離れた場所であっても、相互に絡み合い影響し合っているとする性質のことである。 宇宙が非局所的であれば、相互に絡み合っているという情報が超光速度で交信されていることであって、アインシュタインの相対性理論が規定した 「時間と空間で構成された宇宙(時空間)」 が消滅することを意味する。 それはまた時間も空間もない 「シンプルな宇宙」 の構造そのものである。 つまり、宇宙とは 「あらゆる存在が境界なく非局所的に繋がった仕組みそのもの」 ということになる。
 アインシュタインはこのような宇宙の非局所性を 「不気味な遠隔作用」 と命名して量子論の欠陥を指摘した。 以後、その解明に向けて 「物理学の100年論争」 と呼ばれる論争と対立が継続されてきた。 だがその 「量子論の欠陥」 は遂に解消されたのである。 量子の非局所的な振る舞いは、さまざまな実験によって事実であることがわかってきている。 そう遠くない未来に非局所性を使った量子暗号や量子コンピュータが実用化される日が到来するにちがいない。
 シュレジンガーの波動理論によれば、量子は観測されるまでは 「波動性」 をおびて、宇宙全域の 「どこにもいてどこにもいない」 存在であるが、宇宙の局所でひとたび観測されるや、量子の波動性は失われ、物質としての 「粒子性」 に転化した量子は 「もはやそこにしか」 存在することができない。 この局所での観測結果の情報は瞬時に宇宙全域に伝達され 「ひとつの宇宙」 として一体化され確定する。 波動理論のかくなる帰結は 「実証された量子もつれ」 のひとつの断面を語っている。 それはまた 「宇宙に内在する非局所性の存在証明」 でもある。
 
経路積分と非局所性
 ファインマンが 「量子力学の精髄」 と位置づけた二重スリット実験から導き出した 「経路積分」 という考え方は以下のようなものである。
 二重スリット実験に対するファインマンの説明によれば ・・ 光子や電子などの量子粒子は発射源と蛍光板の到達点の間で、ありとあらゆる可能な道筋、あるいは軌跡を試そうとする。 微粒子は波長が長いために水の波の干渉のように蛍光板上に干渉縞状の到達点の確率分布を示す。 だが粒子の質量が大きい野球のボールともなれば、ニュートン力学が述べる道筋以外のいかなる軌跡でも相殺干渉が起こることを示している。 量子論では電子がどこに到達するかを予測することはできない。 それは電子がある点に到達する確率を示すだけである。 言えることは電子を1個蛍光板に向けて発射したならば、蛍光板上の多くの点で閃光が現れる可能性である。 だが確率は測定が行われることで事実に変わる。 電子がある点で発見されたが最後、それがほかの場所で見つかる確率はゼロになる。 何度も何度も実験を繰り返して初めて、確率分布が意味のあるものとなり干渉縞が形成されるのである。 つまり、電子が蛍光板に衝突する前に、その所在を尋ねることはできない。 電子は何らかの方法で空間と時間全体に広がっており、蛍光板に衝突する前は、まったくでたらめな方法で2つのスリットを通り抜け、自分自身と干渉しあっている。 電子は同時にすべての場所に存在し、かつどこにも存在しない。 事が起こるたびに、世界は新しく生まれる ・・ というのである。
 従来の量子力学で電子の未来のふるまいを予測しようとすれば、実験が始まる時点における電子の運動量やエネルギといった情報(初期状態)が、実験が終わる時点におけるそれらの情報(終期状態)がどうなったのかを計算するか、少なくともある特定の終期状態に達する確率を計算する必要があった。 そのためには微分方程式を解かなくてはならなかったのであるが、ファインマンが考え出した方法では、この微分方程式を解く必要性がなかった。 その方法とは、電子が初期状態から終期状態までにたどる可能性があるすべての経路を、あるルールに従って足し合わせるというものであった。 従来のニュートン力学の世界では、素粒子は、われわれの日常世界での物体がそうであるように 「決まった経路を通る」 とされていた。 しかし、量子世界では、電子は宇宙を踊るように飛び回っているのであって、それ以外の経路についても考慮しなくてはならないのである。 電子が宇宙の彼方まで旅したり、時間的にジグザグにさかのぼったり、進んだりする経路を無視するわけにはいかないのである。 これらの経路をたどると、自然は何の制御も受けず、通常のルートを無視しているように見えるのである。
 ファインマンは 「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれであって、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至っている」 と主張した。
 ファインマンの経路積分の帰結はどれも常識人には理解しがたく受け入れがたいものであったが、量子もつれが実証した非局所性の 「ひとつの断面」 として理解されてしかるべきである。
 
実験的経路積分紀行〜非局所的人生論
 以下の記載は 第1863回 「実験的経路積分紀行〜どこにもいてどこにもいない」 からの抜粋である。
 量子の世界では、物質は波動性と粒子性という2重の性質をもっている。 但し、波動性を観測したとたんに粒子性は消え、粒子性を観測したとたんに波動性は消えてしまう。 同時に観測することはできない。 この状況を私的現実として説明すれば 「私という物質は観測されるまでは宇宙全域に波動のごとく広がっていて、どこにもいてどこにもいない状態である。 だがひとたび宇宙の局所で観測されるやいなや、波動性は消滅し(あらゆる可能性は消滅し)、粒子性としての私はその局所にしか存在することができない」 と表現される。
 量子の2重性を表現するもうひとつの方法は 「量子はあらゆる可能性を事前に試みる」 というものである。 たとえば台風の進路は進行方向に開いた扇形の確率で示されるが、我々が観測する進路はその中のたったひとつの進路のみである。 だが台風自身はその扇形の進路すべてをすでに事前に試みているのである。 この場合、扇形で示された確率的な進路が波動性であり、観測されたひとつの進路が粒子性にあたる。
 私は長きに渡って映像技術開発の素材を求めて故郷である信州各地を巡り歩いてきた。 つまり、私は波動のごとく信州全域に広がっていて、どこにもいてどこにもいない状態であった。 連載している 「信州つれづれ紀行」 には量子としての私の局所における位置プロットデータが表示されている。 この状況を物理学的な解釈をもって解説すると、私はこの信州紀行を始める時点で、すでに 「あらゆる可能なルートを試し終わっていた」 のであって、私の 「量子としての位置プロットデータの分布」 とは、始める時点ですでに試みられていた波動性の確率分布であったというものである。 量子は一瞬の刹那に時空を超えて 「あらゆる可能性」 を把握し、体験してしまうのである。 これから導かれる帰結は、人の一生とは、この世に生まれ出た時点において、確率的に可能なあらゆる人生がすでに試みられていて、「私の人生とは1個の粒子として生涯をかけてその波動性確率分布をトレースするにすぎない」 という 「運命論」 に近づいていく。
 以上の記載は 「ファインマンの経路積分」 から思考されたものである。 ファインマンは 「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれであって、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至る」 と主張した。
 「出来事を時間の順序で並べるのは的はずれである」 というファインマンの主張は 「過去・現在・未来と連続する線形時間は存在しない」 とする私の主張と通底で一致する。 私の主張の意味するところは 「過去と未来は現在に含まれていて」 その中からある過去が、ある未来が、今の今である現在としての現実空間に象出するというものであり、それらがたどる運動軌跡は紙や意識のキャンパスに描くことはできても、実在としての現実空間に描くことはできないというものである。
 ファインマンの主張との相似性を私なりに等価変換すれば、以下のようになる。
 いろいろな出来事を過去・現在・未来で構成される線形時間を使って並べるのは的はずれであって、可能なすべての過去と未来を加算すれば実験者(私)が観察する現在に至る。
 そうであれば 「信州つれづれ紀行」 とは自らの体験をもって試行された 「実験的経路積分紀行」 と改題されてしかるべきである。 それはまた 「非局所的人生論」 の始まりである。
 
非局所性の狭間〜未知か既知か
 量子もつれにおける 「局所の情報」 が宇宙全域に瞬時に伝達されるとする 「瞬時」 が時間経過がわずかでもある瞬時なのか、それとも時間経過がまったくない 「即時」 なのかによって、その後の事情は大きくかわってくる。 瞬時であれば、その情報は宇宙全体にとってはいまだ知られていない 「未知なる情報」 となるし、即時であれば、その情報は宇宙全体にとってすでに知られている 「既知なる情報」 ということになる。
 量子もつれの情報が 「既知なる情報」 であれば、その情報は宇宙で起きる出来事の 「あらゆる可能性」 のことであって、その可能性は 「すでにして試し終わっている」 ものである。 であれば、我々の人生とは、その試し終わっている 「既知なる可能性」 をトレース(追認)するに過ぎないという 「運命論」 になる。 他方、「未知なる情報」 であれば、その情報は宇宙で起きる出来事の 「あらゆる可能性」 のことであって、その可能性は 「いまだ試し終わっていない」 ものである。 であれば、我々の人生とは、その試し終わっていない 「未知なる可能性」 を試行錯誤する 「体験論」 になる。 量子もつれが実証した宇宙の非局所性からすれば 「かぎりなく運命論」 ということになるのだが ・・ どうであろう。
 
唯識論的物理学〜物質宇宙から意識宇宙への大転換
 量子もつれが実証した 「非局所性の帰結」 はどれもこれも常識人には理解しがたいものである。 光速度を超えた量子もつれの現象は、アインシュタインの相対性理論が規定した 「時間と空間で構成された宇宙」 が消滅することを意味している。 我々はかくなる帰結をどうとらえたらいいのであろうか? 時間も空間もないとは 「物質もない」 ことであって、「唯物論」 もまた破綻してしまう。
 非局所的宇宙とは 「科学的真理」 なのか? それとも 「哲学的思想」 なのか?
 探求はやがて意識だけで構成された 「唯識論的物理学」 へと向かっていく。 しかり、物質宇宙から意識宇宙への大転換である。
 ニールス・ボーアの弟子にしてアルベルト・アインシュタインの共同研究者でもあったジョン・アーチボルト・ウィーラー(米1911〜2008年)は 「ワームホール」 や 「ブラックホール」 の命名者としても知られている。 ウィーラーは 「現実はすべて物理的なものではないかもしれない」 と問題提起した最初の物理学者である。 我々の宇宙は 「観測行為と意識を必要とする参加方式の現象かもしれない」 というのである。 つまり、「宇宙とは現象である」 というのである。
 
波動関数の収縮と非局所性〜謎の黒婦人の正体とは
 ジョン・アーチボルトが提起した 「宇宙は観測行為と意識を必要とする参加方式の現象かもしれない」 との説は、「シュレジンガーの波動理論」 から導かれたものであろう。
 波動理論はシュレジンガーがダボスのスキーリゾートの近くにある保養地アロサに愛人とともに滞在していたおよそ12ヶ月の間に書き上げられた。 後の科学にあまりにも偉大で、かつ計り知れない影響を及ぼした 「創造的思考」 はこの奇跡の時間の中でなされたのである。 シェイクスピアのソネットに謳われた黒婦人のようにアロサの婦人は今も謎のままである。
 物理学と化学で用いられるすべての方程式を説明するこの理論は画期的であり強力な知的思考ツールである。 彼の方程式には 「波動関数」 と呼ばれるまったく新しい量が登場する。 波動関数は物質の粒子性と波動性の両面の性質を考慮し、ふるまいのすべてを詳細に説明している。 また彼はボールのような巨視的物体の場合はニュートン力学の各方程式へと書き直されるように組み立てることで日常世界でも使えるようにしたのである。
 その後、マックス・ボルンにより波動関数の2乗がある瞬間にある場所でその粒子を見つける確率を示していることがわかった。 すべての系は波動関数により説明され、ある瞬間にある位置で(ある時空間で)あるものが見つかったとたんに、このすべての可能性を示していた波動関数が収縮し、その時空間はあるひとつのものに現実化する。 この収縮は観測や測定という行為によってなされる。
 街の歓楽街には幾多の飲食店がひしめいている。 私がそのどこかの店に入る前までの状態は波動関数により説明される。 それはさまざまな可能性の数式である。 それが、私がとある店のドアを開けたとたんに収縮しその可能性の中のひとつが現実化する。 それは、私がその歓楽街の他のいかなる店にもいないことの確定であり、その歓楽街全体の波動関数は収縮しその歓楽街もひとつの時空間として現実化し固定される。 私とその歓楽街に位置するさまざまな店との間には確率的に幾通りもの道筋がある。 ファインマンの 「歴史総和法」 によれば、私はありとあらゆる可能な道筋を試そうとする。 私は何らかの方法でその歓楽街の時空間全体に広がっており、まったくでたらめな方法ですべての店につながっているとともに、その私が私自身と干渉しあっている。 私は同時に歓楽街のすべての店に存在し、かつどこの店にも存在しない。 しかし、私がとある店のドアを開けるやいなや、言い換えれば、その歓楽街の片隅のその店という局所で私が観測されるやいなや、確率的可能性でしかなかった宇宙から、たったひとつの宇宙に収縮し、その宇宙の片隅のとある繁華街のとある店のまわりに広がる時空間全体を現実化し固定化するのである。
 私にはシュレジンガーの波動理論に登場する波動関数こそが、姿を変えた 「アロサの黒婦人」 のように思える。 彼はその黒婦人に魅入られ、そして導かれ、奇跡のような12ヶ月におよぶ創造的思考を実現したのであろう。 そして、それはまた我々が生きている不可思議な宇宙のそこかしこに 「ちらりと姿をかいま見せる謎の黒婦人」 でもある。 この謎の黒婦人をしっかりとつかまえベールに隠された素顔を見たものは未だ誰もいない。 だが波動関数を収縮させる意識的観測によって生まれる宇宙が非局所性に支配された宇宙であってみれば、波動関数の収縮と非局所性の間には強い因果関係があってしかるべきである。 そうであれば、宇宙の非局所性こそが 「謎の黒婦人の正体」 なのかもしれない。
 
科学的真理と哲学的思想の邂逅〜遥かな旅路の果てに
 実証された量子もつれが明らかにした 「宇宙の非局所性」 とは、この宇宙における現象が宇宙の果てほどに遠く離れた場所であっても、相互に絡み合い影響し合っているとする性質のことである。 それは大乗仏教における中心経典である 「華厳経」 が説く 「万物は相互にその自己の中に一切の他者を含み、相互に関係しあい、円融無礙に旋回しあっている」 とする宇宙概念や、理論物理学者、デビット・ボームが説く 「目に見えるすべての明在系には、宇宙の一切を統御する暗在系が含まれている」 とする宇宙概念に等価的に相似する。
 それらの宇宙概念には 「ホロニックな秩序」 が内蔵されている。 ホロニックとは 「どんな部分にも全体の動向がふくまれているような関係性で語られる、ひとつの 「部分=全体系」 のことである。 我々は通常、部分と全体の応変を同時に見ることはできないが、ホロニックな関係性においては同時にとらえることが可能なのである。
 以上をまとめれば、「宇宙の局所には宇宙全域の情報が内蔵されているとともに、宇宙全域にもまた宇宙の局所の情報が内蔵されている」 と還元される。 それはまた 「細部は全体であり、全体は細部である」 という 「宇宙の内蔵秩序」 に合致する。 言うなれば 「非局所性とは宇宙の内蔵秩序」 のことである。
 「唯識論的物理学〜物質宇宙から意識宇宙への大転換」 では、非局所的宇宙とは 「科学的真理」 なのか、それとも 「哲学的思想」 なのかの問いを提起したが、何のことはない、「互いに同じ帰結を内包していた」 のである。 科学的真理と哲学的思想は遂に邂逅を果たしたのである。 なんと遠く遥かな旅路であったことか ・・ 感慨ひとしおである。

2025.01.18


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