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諸葛孔明の風景
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五丈原に堕つ
 三国志の英雄、諸葛孔明(諸葛亮孔明)。 「三顧の礼」、「天下三分の計」、「赤壁の戦い」、「泣いて馬謖を斬る」、「七縦七擒」、「出師の表」 ・・ 等々。 孔明を語る来歴は尽きることがない。 ともに戦った皇帝、劉備(劉備玄徳)、張飛、関羽、亡きあとの弱小国 「蜀」 をひとり支えてきた英雄にも最期のときがせまっていた。 戦乱の時代を駆け抜けた希代の天才軍師が最期に見た風景とはどのようなものであったのか? 孔明最後の戦い 「五丈原の戦い」 の再生を試みる。
 諸葛孔明は度重なる遠征による蜀の疲弊を考え、数年間というもの北伐を断念して国力の充実に励んだ。 そして、西暦234年、五度目となる北伐の軍を起こした。 孔明最後の戦い 「五丈原の戦い」 である。
 孔明は祁山に出陣する。 涼州との交差点である祁山を抑えて魏から涼州を分断、精強な騎馬兵を手にいれる構えであった。 孔明北伐の噂は魏の皇帝、曹叡に届いた。 曹叡は重臣、司馬懿(司馬懿仲達)を呼んで次のように聞いた「また孔明が北伐の軍を起こすという、我が軍は勝てようか?」、司馬懿は「御心配には及びません、天文を見たところ、魏は勝利し、蜀は不利であると出ました、孔明は必ずや敗れ去るでしょう」と応じた。 司馬懿が長安を発して渭水に沿って陣を敷いた頃、孔明は副官に命じて呉の孫権に手紙を届けさせた。 手紙には北伐に呼応して呉も魏を攻めて欲しいと書いてあった。 孫権は常に狙いながら落とせなかった合肥城を落そうと孔明の申し出を快諾した。 副官が帰る際に孫権は 「魏延将軍は実力はあるが、自分勝手でうぬぼれが強すぎる。 孔明殿の死後、反乱を起こさないとも限らない。 注意されるがよかろう」 と忠告した。 それを副官から聞いた孔明は 「さすが孫権殿は名君であられる。 魏延の問題を見抜かれた。 だが、蜀の人材不足を考えると彼の武勇を使わないというわけにもいかないのだ」 この孫権の忠告はやがて現実のものになっていく。
 司馬懿は、息子の司馬師を連れてきていた。 戦法はいつもの通り、豊富な物量を活かしての持久戦である。 途中、鄭文という男を蜀に偽装工作で送り込んだが、孔明に見破られて失敗した。
 北伐の課題であった補給の問題は、孔明が発明した輸送兵器である木牛、流馬で解決するとともに、屯田を行って穀物を栽培した蜀には、今回は余裕があった。 そこで孔明は、司馬懿をおびき出し火計で破ろうと奇策を考えた。 司馬懿は蜀軍のアキレス腱が補給である事を知っていたがゆえに、争いを避けて守備を堅くして持久しているのである。 孔明はそれを逆手に取って上方谷という所に大きな食糧倉庫を建設した。 だがこれは見せかけであって、倉庫の中を火薬で一杯にした。 孔明は高翔という武将に命じて毎日この上方谷の倉庫に荷車を運び込んで食糧が備蓄されているように見せかけた。 それを知った司馬懿は早速、上方谷の食料倉庫を襲撃する計画を立てた。 司馬懿は一軍を祁山に向かわせ、自身は司馬師と共に部隊を率いて、上方谷の食糧倉庫を襲撃したのである。 途中には魏延の部隊がいて慌てふためいて食糧倉庫に走っていく。 「しめた、思ったより敵の備えは少ないぞ」 司馬懿は自信を深め、魏延を追って深入りしてしまった。 ところが全ては孔明の罠であって、魏延は食糧倉庫を通り抜けるや合図を出した。 すると伏兵の弓隊が登場して食糧倉庫に入りこんだ司馬懿の部隊に火矢を浴びせかけた。 火薬を満載した食糧倉庫は燃え上がり、司馬懿と司馬師は火炎の中に包みこまれた。 「しまった孔明の罠か、我ら一族はこのまま、ここで滅んでしまうのか」 司馬懿は息子と抱き合って涙を流した。 だがそこで奇跡が起こった。 なんと突然に天がかき曇り大雨が降りだしたのである。 このチャンスを逃さず司馬懿の部隊は食糧倉庫を脱出したのである。
 魏延から報告を聞いた孔明は暫く押し黙り、そして言った。 「事を謀るは人にあり、事を成すは天にあり」 作戦を計画して実行するまでは人の仕事だが、それが成功するかどうかは天が決める事で人にはどうしようもない。 千載一遇の好機に司馬懿を滅ぼせなかった孔明は、すでに天の時が蜀から離れ魏に移っている事を感じずにはいられなかった。 孔明の頼みの綱は孫権の合肥攻略であったが、10万の大軍で合肥城を包囲した孫権は魏将、満寵の決死の防衛戦に手こずって、いまだに城を落とせていなかった。 そうこうしているうちに、魏帝、曹叡が大軍を持って合肥に援軍に来る事が分ると、孫権は怖じ気づいて軍を撤退させてしまった。
 呉の失敗を聞いた孔明の顔には失望の色が浮かんだ。 それでも孔明は退却しようとはしなかった。 彼にはもうやり直せる時間が残されてはいなかったのである。 孔明は陣を祁山からより長安に近い五丈原に移した。 そして持久戦を取る司馬懿にあの手この手の挑発を行った。 ある時は女物の衣服を送りつけ 「決戦を避けるお前は臆病者だ、女のようなヤツだ」 と司馬懿を罵倒したりした。 突然に孔明が戦法を変えた事で司馬懿には感じるところがあった。 ある時、孔明の使者が来ると食事を与えて手厚くもてなし、さりげなく孔明の近況を尋ねた。 「諸葛丞相においてはご機嫌はいかがかな? よく眠れているだろうか?」 その使者は正直者だったのか孔明が夜遅くまで仕事をし、小さな仕事まで自分で決済して最近はあまり食事を取らない事などを全て喋ってしまった。 司馬懿は孔明が重病である事を確信して、ますます挑発に応じなくなった。 使者から司馬懿が孔明の仕事ぶりや健康状態の事ばかり聞いていたと報告を受けた孔明は司馬懿は私をよく知っていると溜息をついた。 それから暫く後、執務をしていた孔明は激しくせき込み大量の血を吐いて倒れた。 駆け付けた重臣達に 「騒ぐな、動揺してはならぬ」 と告げ何事もなかったかのように立ちあがり、魏延を呼び寄せ魏軍に備えるように命じた。 さらに姜維を呼ぶと、孔明が設計した1台で10本の矢を同時に放てる連弩の設計図を与えた。それから最後の力を振り絞り陣中をくまなく巡回した。 それは普段と変わらない穏やかな姿であった。
 自分の幕舎に戻ると倒れこむように床についた孔明の病状はみるみる悪化していった。 死期を悟った孔明は、馬岱を呼び自身の最後の言葉を伝えた。 「私の後任は 蒋宛(しょう えん) に託すように、彼は物事に動じず職務に忠実だ、私が亡き後も、帝を助け働いてくれるであろう」、馬岱が畏まり、さらに 蒋宛 の次の丞相を聞いた。 「蒋宛 の次は 費緯(ひい) がよい、蒋宛 程に融通は利かないが、器用で全てに目が行き届く、費緯 がいる限り蜀は安泰だ」 馬岱は畏まり、さらに、次の丞相を聞いた。 だが孔明の口が再び開く事はなかった。 「丞相」 馬岱は声をあげた。 時、西暦234年、旧8月23日、秋風が吹く五丈原、諸葛孔明は54年の生涯を閉じた。 三国志後編の主人公である諸葛孔明は五丈原に没したのである。
 蜀の精神的な支柱を失った重臣達や蜀兵の悲しみは海よりも深く激しいものであったが、彼等に悲しんでいる暇はなかった。 孔明の死を察知した司馬懿が攻勢に転じてきたからである。 孔明が事切れた時に赤く大きな星が天空をよぎった。 野外で天文を見ていた司馬懿はこの堕ちた巨星が孔明であることを察知したのである。 「ついに、あの孔明が死んだ」 自身を苦しめ続けた好敵手の最後に司馬懿の胸中を一抹の寂しさが吹きぬけたが、この合理主義者は次の瞬間には魏軍の総司令官に戻っていた。 「好機到来、孔明を失い動揺する蜀軍に攻めかかり、そのまま成都まで抜いてみせる」 と司馬懿はただちに魏軍に総攻撃を命じた。 今こそ孔明もろとも蜀を滅ぼす好機だと司馬懿は確信したのである。 司馬懿の読みの正しさを証明するかのように蜀軍に動きがあらわれた。 五丈原の陣地を引き払い慎重に撤退を開始したのである。 魏軍は 「孔明亡き蜀など烏合の衆も同然、打ち崩せ」 と蜀軍に襲い掛かった。 しかし、魏軍が襲いかかると、蜀軍の最後尾にいた1000名余りの兵がさっと振り向いた。 その1000名の中央に位置する車を見た瞬間、司馬懿は仰天した。 翻る漢の深紅の大旗には 「漢丞相武郷侯諸葛亮」 の金字が染め上げられ、その真下には、道服に白羽扇を構えた孔明が涼しい顔で座っていたのである。 司馬懿は卒倒しそうな程に驚いた。 孔明の横からは、三十代になったばかりの成年武将が、高笑いをしながら矛を構えて飛び出してきた。 孔明の戦術の全てを受け継いだ愛弟子、姜維伯約である。 「漢の逆臣、司馬懿仲達、丞相が死んだ今なら我が軍を滅ぼせようと、のこのこ穴から出てくるとは浅ましき輩、その程度の魂胆は、丞相はすでにお見通しであったわ、貴様の冥途の土産に、この姜維伯約の腕前をみせてやろう」。 「退け、退け、孔明の罠だ」 飛び出してきた姜維の一軍に、司馬懿は生きた心地もせず、すぐに馬の首をめぐらして逃げ出した。 司馬懿が逃げるのを見た魏軍もまた総崩れとなる。 姜維はそこに突撃し魏軍を存分に打ち破って引き揚げた。 実は孔明に見えていたのは、生前に孔明が造らせていた木製の人形であった。 死が近い事を知っていた孔明は、蜀軍を安全に退却させる為に、自分にソックリな人形を造り、魏軍が攻めてきたらそれを見せるように、あらかじめ指示を出していたのである。 司馬懿はそんな事とは夢にも思わず、夢中になって逃げだし、追いついてきた夏侯覇と夏侯恵に対して 「わしの首はちゃんとついておるか?」 と聞いたという。 冷静になってから、司馬懿が情報収集をさせると、孔明が死んだのは本当である事が分り、巷では 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」 と噂になっている事を知る。 司馬懿も軍を引き揚げるが、その途中で孔明が造り上げた、見事な陣計をつぶさに見学した。 「孔明とは天下の奇才なり」 司馬懿は、ついに自分が最後まで孔明に及ばなかった事を悟ったのである。 現実の孔明は戦術では常に司馬懿に及ばなかったが、弱小な蜀の国力から北伐軍を繰り出す孔明の才能には、司馬懿も一目も二目も置いていたのである。 そしてなにより、孔明の死は蜀の人々を悲しませ、孔明に左遷された人々でさえ、孔明の為に涙を流したという。 民衆は自発的に孔明の廟を造り、神として崇めた。 司馬懿はともかく、蜀の人々の心の支えとして孔明はその後何百年も影響を与え続けたのである。
 かく力尽きて天に旅立った孔明を、劉備、張飛、関羽らは諸手を挙げて迎えたことであろう。 「孔明、見事であった」 と ・・。 孔明の労苦は報われたのである。 それは諸葛亮孔明にとって面目躍如たる一世一代の風景であった。
  以下は孔明が遺した名言である。 晴耕雨読の若き日の生活から培われた珠玉の知恵の数々である。 天才軍師の原点はここに発するのである。 第262回 「観察力」 参照
天下は一人の天下にあらず、すなわち天下の人の天下である。
時の流れがわからなければ、寛大であろうと、厳しくしようと、政治はすべて失敗する。
人生とは、困難との戦いの連続である。
勢力や権力を目的とした交際は、長続きさせることが困難である。
治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず。
無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。
優れた人は静かに身を修め、徳を養なう。
自分の心は秤のようなものである。 人の都合で上下したりはしない。
内部の守りを固めずに、外部を攻めるのは愚策である。
人の心をつかめる人は、敵を消滅できる。 古来、兵は戦を好まない。
用兵の道は、人の和にあり。
才に傲りてもって人に驕らず、寵をもって威を作さず。
事を謀るは人に在り。 事を成すは天に在り。
小善を必ず録し、小功を必ず賞せば、則ち士勧まざる無し
夏に扇を操らず、雨に蓋を張らず、衆と同じくするなり
※)以下、蛇足ながら
 谷村新司が唱った名曲 「昴」 は、彼の闘争宣言であり、その原風景はこの 「五丈原」 にあったという。 後に中国を旅して五丈原を訪れた谷村は、夢見た五丈原の風景とは違ってはいたが 「感じるもの」 があった 「大事なものは目に見えない」 と語っている。
昴 / 作詞 谷村新司 作曲 谷村新司

目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開ければ
荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
嗚呼 砕け散る運命の星たちよ
せめて密やかに この身を照せよ
我は行く 蒼白き頬のままで
我は行く さらば昴よ

呼吸をすれば胸の中 こがらしは吠き続ける
されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり
嗚呼 さんざめく 名も無き星たちよ
せめて鮮やかに その身を終われよ
我も行く 心の命ずるままに
我も行く さらば昴よ

嗚呼 いつの日か誰かがこの道を
嗚呼 いつの日か誰かがこの道を
我は行く 蒼白き頬のままで
我は行く さらば昴よ
我は行く さらば昴よ

2023.07.28


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