Linear ベストエッセイセレクション
宇宙は現象である
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現象としての宇宙
 宇宙が現象であるならば、それは 「物質的現象」 なのか? それとも 「意識的現象」 なのか?
 「宇宙は現象である」 と言ったジョン・アーチボルト・ウィーラー(米1911〜2008年)はニールス・ボーアの弟子にしてアルベルト・アインシュタインの共同研究者でもあった 「詩心をもった物理学者」 である。 「ワームホール」 や 「ブラックホール」 の命名者としても知られている。 ウィーラーは 「現実はすべて物理的なものではないかもしれないと問題提起した」 最初の物理学者である。 我々の宇宙は 「観測行為と意識を必要とする参加方式の現象」 かもしれないというのである。 ウィーラーは 「人間原理」 の普及にもひと役かった。 人間原理とは 「宇宙がこのような状態になっているのは、もし他の状態だったら人間がここにいて宇宙を観測することができないから」 という人間主体の原理である。
 空海が遺した 「太始と太終の闇」 と題された以下の詩文については、本稿で幾度となく論考してきた。 「太始と太終の闇」 は空海の生涯を代表する大作となった 「秘密曼荼羅十住心論」 をみずからが要約した 「秘蔵宝鑰」 の序文の最終行に配されている。 秘蔵宝鑰を書き終えて5年後、空海は62歳で高野山に入定(入滅)している。
三界の狂人は 狂せることを知らず
四生の盲者は 盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終わりに冥し
  「太始と太終の闇」 を物理学的に表現すれば、ウィーラーが言うように 「宇宙とは観測行為と意識を必要とする参加方式の現象」 と訳されることになるのかもしれない。 つまり、「宇宙とは現象である」 と。
 量子論の基礎を構成するシュレジンガーの波動方程式では、観測により波動関数が収縮し、「ひとつの宇宙」 が象出することを述べている。 観測が為されるまで、宇宙は無限の可能性を秘めて霞みのごとく広がっているが、観測が為された瞬間、宇宙はその観測に応じた 「たったひとつの宇宙」 に収縮するのである。 例えて言えば、私がある人から観測されないかぎり、そのある人から見た私は松本市の全域に霞のごとく広がっている状態であり、松本市のいかなる所にも存在し、またいかなる所にも存在しない状態であり、そのある人が私を松本駅前で観測した瞬間、すべての可能性は消え、たったひとつ、つまり、松本駅前に私が存在する宇宙に収縮するのである。 この波動方程式の波動関数の収縮は 「ネズミの観測」 や 「酔っぱらいの観測」 では起きないことは重要である。 この収縮が起きるのは人間による 「意識的観測」 のみであって、ネズミの意識や、酔っぱらいの意識では宇宙は収縮しないのである。 量子論は、まさに 「この宇宙が人間意識により発生する」 ことを述べているのである。 覚醒せる人間意識の観測のみが、あらゆる可能性の海であるカオス状態(混沌)の中から、「あるひとつの宇宙を出現させる」 のであり、もし覚醒せる人間意識が存在しなければ、この宇宙は霞のごとき混沌状態のままに保たれ、このような現実は存在しないことになる。
 結局。 「量子もつれの実証」 がもたらした物質から意識への大転換は 「宇宙が人間の意識的観測によって存在する」 という意識的存在論の妥当性を述べているのである。 化石でも幽霊でもない人間の存在理由は 「ここ」 にあるのである。
 想像と現実が融合した 「即身の場」 である今の今である 「現在」 を意識を必要とする参加方式の 「現象」 であると要約したウィーラーの直観力は 「詩心をもった物理学者」 の面目躍如たるものがある。 曰く、現在とは物質と意識が融合した現象である。 即身の場である現在を唯物論的視点で眺めると物理学が語る 「物質的運動」 の世界であり、唯心論的視点で眺めると心理学が語る 「意識的運動」 の世界である。 この宇宙が 「物そのもの」 だけで構成される科学の方法論で記述される 「唯物的世界」 であるとするならば人間は 「化石」 のようなものであり、宇宙が 「心そのもの」 だけで構成される心理学の方法論で記述される 「唯心的世界」 であるとするならば、人間は 「幽霊」 のようなものである。 化石も味気ないが、幽霊も味気ない。
 以上を考える時、この知的探求の主題である 「意識が物質を発生させるのか? それとも、物質が意識を発生させるのか?」 という根本義の何たるかが見えてくる。 別表現に換言すれば、「意識に物質が宿るのか? それとも、物質に意識が宿るのか?」 という根本的懐疑である。
 帰着した私の根本義としての懐疑はまた 「物質と意識の結びつき」 を研究した物理学者、ロジャー・ペンローズ(イギリス1931年〜)の代表作 「皇帝の新しい心」 の語るところと一致する。 「皇帝の新しい心」 は、発表されるやいなやセンセーショナルな論争を巻き起こした。 ペンローズは 「皇帝の新しい心」 の中で、意識を解明する鍵は、物理学の2大理論である 「量子論」 と 「相対論」 の狭間に隠されているとした。 量子論の創始者、ニールス・ボーア(デンマーク1885〜1962年)と相対論の創始者、アルベルト・アインシュタイン(ドイツ1879〜1955年)以来、世界の物理学者はこの2つの理論をまとめた 「統一理論」 を導きだそうと懸命に試行錯誤を続けてきたが、いまだにまともな解答を得るには至っていない。 ペンローズの理論が特徴的であるのは 「統一理論のあるべき姿がいかなる思考から生まれるのか」 という従来の物理学にはなかったアプローチ方法の違いにある。 彼の理論は多分に荒削りではあるものの、もし彼の言うことが正しいとすれば、物理学の理論を一挙に統一するとともに、哲学の最難問とされる 「物質と意識の結びつき」 を解決する可能性を秘めている。 現在、統一理論に最も近いとされている理論とは 「超ひも理論」 である。 超ひも理論では10次元空間の中のひもの振動が宇宙のすべての物質とエネルギ、はたまた空間と時間まで生み出すとされている。 世界の著名な物理学者の多くは超ひも理論こそが 「統一理論」 であると考えているが、ペンローズは 「ひも理論は正しいはずがない」 と考えている。 彼は自他共に認めるプラトン主義者であり、科学者は真理を 「発明」するのではなく、すでにあるものを 「発見」 するのだと考えている。 真理には 「美しさ」、「正しさ」、「明快さ」 を感じさせる 「何か」 が備わっているものであって、超ひも理論にはその 「何か」 が欠けているというのである。 確かに超ひも理論は量子論と相対論を数学的には矛盾なく説明してくれるが、現実空間の中で実験できるものでもなく、そもそも10次元のミクロのひもの振動が何を意味しているのかも不明である。 ペンローズは超ひも理論は物理学者が 「発明」 したしろものだと言いたいのであろう。
 「皇帝の新しい心」 には書かれてはいないが、ペンローズはきっとかく言いたかったのではあるまいか? 「意識が物質を発生させるのか? それとも、物質が意識を発生させるのか? しかして、意識に物質が宿るのか? それとも、物質に意識が宿るのか?」 と。 あるいは、「この問い」 に答えることこそが 「統一理論」 に至る 「究極の道筋」 なのかもしれない。
意識的現象としての宇宙
 ウィーラーが言った 「宇宙は観測行為と意識を必要とする参加方式の現象である」 という考え方は、量子論の根幹を成す 「シュレジンガーの波動方程式」 における 「観測による波動関数の収縮」 によって 「宇宙が発生する」 という波動理論に依拠する。 さらには、その収縮が起きるのは人間による 「意識的観測」 であって、ネズミの意識や、酔っぱらいの意識では発生しないということが、宇宙論としての 「人間原理」 の依って立つ基盤である。 また、宇宙に人間が存在する意味は、人間のみに与えられたかくなる 「宇宙を発生させる意識的観測」 にこそあると言っても過言ではない。
 もし、宇宙が物質的存在ではなく 「意識的現象」 であるとすれば、この知的冒険の主題である 「意識が物質を発生させるのか? それとも、物質が意識を発生させるのか? しかして、意識に物質が宿るのか? それとも、物質に意識が宿るのか?」 という根本的懐疑は、「意識が物質を発生させ、意識に物質が宿る」 という 「意識的存在論」 に帰着する。
 その存在論は、あたかも般若心経が説く 「色即是空 空即是色」 のごとくに 「夢幻の世界」 である。 かくなる宇宙像を納得して認める人は今だ希少も希少であろう。 だがことの次第は、その希少に近づきつつあるのである。
人間の存在理由〜その使命とは
 人間の 「存在理由」 が、宇宙を発生させるために必要不可欠な シュレジンガーの 「波動方程式における波動関数の収縮」 を可能にする 「意識的観測」 であることは、人間にとって象徴的である。 この宇宙は人間存在なくしては存在し得ないのであるから。
 であれば、我々人間は 「この宇宙を存続させる」 ために、かくなる意識的観測を永遠に継続しなければならない。 しかして、この意識的観測は 「ネズミの観測」 や 「酔っぱらいの観測」 のような 「漠然たる観測」 であってはならず、明瞭な意志的観測でなければならない。 ボーッとしていては、人間としての使命は達成されないのである。

2023.06.29


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