時間が 過去→現在→未来 と連続的に流れているとする 「線形時間」 が存在しないことは 「時は流れず」 で論考してきたことである。
その論拠は 「過去は記憶意識」 で 「未来は想像意識」 で構成された 「無形の意識世界」 であるのに対し、運動をともなった実在としての現在は
「有形な物質世界」 であって、その構成が本質的に異なっていること、そしてそのような 「異質な世界」 を貫いて 「均質的な時間」
が流れているとは相当の妥当性をもって考えることができないことにある。
時間が 過去→現在→未来 と線形的に流れているように感じるのは、時間というパラメータを使って、この世の出来事の経過を支障なく説明できるからに他ならず、それ以外に相当の妥当性を満たす理由を見いだすことはできない。
またその論考の中では 「運動を時間で分解することはできない」 とも述べている。 運動とは森羅万象や空間の変化率を表現した言葉であるが、運動を撮影した映像がコマ送りすることができても、現実の運動をコマ送りすることはできない。
この意味では運動と映像は似て非なるものである。 投げあげたボールを空中で停止させることなどできないのであって、停止するのは運動が終了して速度が
0 になった状態でのことである。 同様に投げあげたボールの運動軌跡を時間をパラメータにして1枚の紙の上に描けるからといって、実在場であるひとつの現実空間の上にその軌跡を描けるわけではない。
線形時間を使った 過去・現在・未来 とは時間をパラメータにして脳裏にある記憶としての1枚の紙の上に描いた森羅万象の運動軌跡であって、実在場であるひとつの現実空間の上に描いた軌跡ではない。
現実空間にあるものとは 「今の今」 という現在だけである。 現在とは速度をもった運動そのものであって、それを静止画に分解することなど、もとより不可能なのである。
「時は流れず」 とはそういうことである。
その 「 時は流れず」
の論考から 「過去と未来は現在に含まれている」 とする世界観が導かれるのであるが、その思考過程は多岐に渡るためここでは割愛する。
必要とあれば、 第1150回
「連なった世界と重なった世界」、 第1152回
「時間も空間もない宇宙構造」 等々を参照願えれば幸いである。
芥川賞作家、小川洋子の同名の小説を映画化した 「博士の愛した数式」 は映画 「阿弥陀堂だより」 と同じく私にとっては何度も繰り返し観る記憶にのこる映画のひとつである。
物語は天才数学者であった博士(寺尾聰)が不慮の交通事故がもとで記憶が 80分 しかもたなくなってしまうことから始まる。
その博士のもとで働くことになった家政婦の杏子(深津絵里)とその10歳の息子(吉岡秀隆)との心の交流を描いたものである。
博士はその息子を ルート(√) と呼び可愛がる。 博士が教えてくれる数式の美しさや、キラキラと輝く世界にふれていく中で、2人は純粋に数学を愛する博士に魅せられ次第に数式の中に秘められた
「美しい言葉」 の意味を知る ・・ 詳細は映画を観てもらうとして、本題は以下のところである。
80分 しか記憶がもたない博士は家政婦の杏子が出勤する度にきまって昨日と同じに 「君の靴のサイズはいくつかね?」 と聞く。
杏子が 「24です」 と答える。 「ほお 実に潔い数字だ 4 の階乗だ」 と褒める。 昨日の記憶がない博士にとっては、毎日がまったく経験のない
「新たな日々」 なのである。
博士が生きている世界は、まさに冒頭に掲げた 線形時間 を廃した 「時は流れず」 の世界であり、「運動を時間で分解できない」
とする 今の今 の世界であり、過去や未来が重層的に内蔵された 今の今 の世界である現在そのものである。 博士の日々はその
「可能性の海」 に内蔵されている過去や未来から実在場としての 「その日(現在)」 に投影された 「場面」 である。 我々はなまじ
「記憶が持続」 するために現実空間に 「ありもしない」 昨日から今日に至る 「日常(運動)の軌跡」 を思い描いているにすぎないのかもしれない。
博士の日常 と 我々の日常 を分け隔てているものは 「はなはだ曖昧」 で頼りない 「意識的記憶」 でしかない。 かく考えれば、映画
「博士の愛した数式」 は冒頭に前提として掲げた 論考 を証左するために企画された 「ひとつの思考実験」 のようにもみえてくる。
博士が生きた世界は常人であれば行き着くことができなかった純粋で透明な美しき数式の世界であったが、その投影された過去と未来の場面(日々)の中で
「充分に幸せ」 であったであろうし、その日々をともに過ごした家政婦の母子にとっても、それはまた同じであったに違いない。
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