Linear ベストエッセイセレクション
宮沢賢治の風景〜春と修羅
Turn

人生は現象である
 宮沢賢治(1896〜1933年)が初めて世に送り出した詩集が自ら心象スケッチと呼んだ 「春と修羅」 である。 賢治自身の内面を映し出した表現が独特の文章で綴られている。 賢治の原点とも言われる作品である。
 早逝した宮沢賢治の作品の大半は死後に出版されものであって、生前に出版されたものは、童話としての 「注文の多い料理店」 と、詩集としての 「春と修羅」 の2冊だけである。 「春と修羅」 は自費出版のようなもので、世間からはまったく評価されずわずかしか売れなかった。 作中の言葉の数々は異質で難解であるとともに、あまりに特異な世界観と描写に時代が追いつけなかったのであろう。 だがその豊かな個性が気づかれ始めてからは、時代と国境を越えて、今も尚、人々を魅了し続けている。 詩は絵画に似て見る人や読む人に応じて受け取り方が異なる。 「春と修羅」 の序文で賢治は自分の存在をひとつの 「現象」 であると書いている。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
 自らを 「有機交流電燈の青い照明」 という 「ひとつの現象」 としてとらえる 「賢治の世界観」 は俗世からは隔絶している。
風景やみんなといつしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
 自然の風景や人々との交流によって明滅する現象を 「因果交流電燈としての自分」 であるとする表現は 「自らの何たるか」 を余すことなく表象している。
 詩集の表題となった 「春と修羅」 は、作中に何度か現れる 「おれはひとりの修羅なのだ」 という一節からきている。 春の穏やかで美しい背景と対比するかのように、激しく乱れる情景が並べられ、その後に 「おれはひとりの修羅なのだ」 と諦念するリフレーンが波打つようにくり返される。 「修羅」 とは仏教の世界観である 「六道」 のひとつであって、激しい感情や怒り、争いなど、穏やかさや優しさと正反対の意味を持つ世界とされる。 賢治は仏教徒だったので、阿修羅の持つ激しさや怒り、それらの煩悩を制御できない修羅の苦しみをよく理解していたのであろう。
 宮沢賢治は 「人生は現象である」 としたが、同様に 「宇宙は現象である」 と考えた物理学者がいる。 米国のジョン・アーチボルト・ウィーラー(1911〜2008年)その人である。 ウィーラーはニールス・ボーアの弟子にしてアルベルト・アインシュタインの共同研究者でもあり、世に 「詩心をもった物理学者」 と言われた。 「ワームホール」や「ブラックホール」の命名者としても知られている。
 ウィーラーは 「現実はすべて物理的なものではないかもしれない」 と問題提起した最初の物理学者である。 我々の宇宙は 「観測行為と意識を必要とする参加方式の現象」 かもしれないというのである。 ウィーラーは 「人間原理」 の普及にもひと役かった。 人間原理とは 「宇宙がこのような状態になっているのは、もし他の状態だったら人間がここにいて宇宙を観測することができないから」 という人間主体の原理である。
 真言宗の創始者、空海が遺した 「生まれる前に宇宙はなく、しかして死して後に宇宙はない」 という 「太始と太終の闇」 を物理学に還元すれば、ウィーラーが言うように 「宇宙とは観測行為と意識を必要とする参加方式の現象」 にと転換されることになろう。 曰く。 「宇宙とは現象である」 と。 もっとも詩心をもった物理学者であるウィーラーであってみれば、かくなる表現もまた、空海どうように多分に文学的なのかもしれない。
 詩人、宮沢賢治が 「春と修羅」 の中で描いた宇宙は、物理学者、ジョン・アーチボルト・ウィーラーが考えた観測行為と意識を必要とする参加方式の宇宙と等価的に相似する。 ウィーラーを 「詩心をもった物理学者」 と形容したことは実に言い得て妙である。 依って、宮沢賢治を物理学者に置きかえたとしても、その本質は何ら異なるところはない。 ウィーラーが 「詩心をもった物理学者」 というのであれば、宮沢賢治は 「物理の心をもった詩人」 ということになろう。

2022.06.03


copyright © Squarenet