民俗学者の柳田國男が三陸海岸北部に位置する陸中八木を訪問し
「清光館」 に宿泊したのは大正9(1920)年8月のことであった。 「清光館哀史」 はその6年後に再訪した際に書かれた随想で、昭和40〜59年まで現代国語の教科書(筑摩書房)に採録された。
私が高校の授業でその随想を読んだのは2年生であったか3年生であったか記憶は模糊として鮮明でない。 先生はその文章について何事かを話しておられたが、私の思いは描かれていた清光館の世界に没入していて頭には入ってこなかった。
なぜそう思ったか確としないが私はその刻にある決心をした。 いつかきっとこの 「清光館哀史」 の舞台となった陸中八木を訪れることを
・・。 約束が果たされたのはそれから3年ほどした大学生となった夏休みのことであった。 それは野宿覚悟で出発した東北ひとり旅でのことであった。
おそらく昭和44年の夏のことであったと思われる。 柳田國男がその地を訪れてからすでにして50年余の歳月が経過していた。 先日、何処からともなくその旅のことが脳裏に甦ってきた。
今となれば古い話ではあるのだが、その旅の記憶をここで再生してみようと思う。 |
以下はその随想 「清光館哀史」 の全文である。
長くなるがそうしなければ当時抱いた不可思議な情趣の何たるかを描くことは不可能に思えたからに他ならない。 |
おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかった宿屋はどこ。
そうさな。別に悪いというわけでもないが、九戸の小子内(おこない)の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。
こんな何もない問答をしながら、うかうかと三、四日、汽車の旅を続けているうちに、鮫の港に軍艦が入ってきて、混雑しているので泊まるのがいやになったという、ほとんど偶然に近い事情から、何ということなしに陸中八木の終点駅まできてしまった。駅を出てすぐ前のわずかな岡を一つ越えてみると、その南の坂の下が正にその小子内の村であった。
ちょうど六年前の旧暦盆の月夜に、大きな波の音を聞きながら、この寂しい村の盆踊りを見ていた時は、またいつくることかと思うようであったが、今度は心もなく知らぬ間にきてしまった。あんまりなつかしい。ちょっとあの橋の袂まで行ってみよう。
実は羽越線の吹浦、象潟のあたりから、雄物川の平野に出てくるまでの間、浜にハマナスの木がしきりに目についた。花はもう末に近かったが、実が丹色に熟して何とも言えぬほど美しい。同行者の多数は、途中下車でもしたいような顔付をしているので、今にどこかの海岸で、たくさんにある所へ連れて行って上げようと、ついこの辺までくることになったのである。
久慈の砂鉄が大都会での問題になってからは、小さな八木の停車場も何物かの中心らしく、たとえば乗合自動車の発着所、水色に塗り立てたカフェなどができたけれども、これによって隣の小子内が受けた影響は、街道の砂利が厚くなって、馬が困るくらいなものであった。なるほど、あの共同井があってその脇の曲がり角に、夜どおし踊り抜いた小判なりの足跡の輪が、はっきり残っていたのもここであった。来てご覧、あの家がそうだよと言って、指をさしてみせようと思うと、もう清光館はそこにはなかった。
まちがえたくとも間違えようもない、五戸か六戸の家のかたまりである。この板橋からは三、四十間、通りも隔てた向かいは小売店のこの瓦ぶきで、あの朝は未明に若い女房が起き出して、踊りましたという顔もせずに、畠の隠元豆か何かを摘んでいた。東はやや高みに草屋があって海をさえぎり、南も小さな砂山で、月などとはまるで縁もないのに、何でまた清光館というような、気楽な名を付けてもらったのかと、松本・佐々木の二人の同行者と、笑って顔を見合わせたことも覚えている。 |
盆の十五日で精霊さまのござる晩だ。生きたお客などは誰だって泊めたくない。さだめし家の者ばかりでごろりとしていたかったろうのに、それでも黙って庭へ飛び下りて、まず亭主が雑巾がけを始めてくれた。三十少し余りの小造りな男だったように思う。門口で足を洗って中へ入ると、二階へ上れという。豆ランプはあれどもなきがごとく、冬のまま囲炉裏のふちにおいてあった。それへ十能に山盛りの火を持って来てついだ。今日は汗まみれなのにうとましいとは思ったが他には明るい場所もないので、三人ながらその周囲に集まり、何だかもう忘れた食物で夕飯をすませた。
そのうちに月が往来から橋の付近に照り、そろそろ踊りを催す人声足音が聞こえてくるので、自分たちも外に出て、ちょうどこの辺に立って見物をしたのであった。
その家がもう影も形もなく、石垣ばかりになっているのである。石垣の蔭には若干の古材木がごちゃごちゃと寄せかけてある。真黒けに煤けているのを見ると、多分われわれ三人の、遺跡の破片であろう。いくらあればかりの小家でも、よくまあ建っていたなと思うほどの小さな地面で、片隅には二、三本の玉蜀黍(とうもろこし)が秋風にそよぎ、残りも畠となって一面の南瓜(かぼちゃ)の花盛りである。
何をしているのか不審して、村の人がそちこちから、何気ない様子をして吟味にやってくる。浦島の子の昔の心持の、いたって小さいようなものが、腹の底から込み上げてきて、一人ならば泣きたいようであった。 |
何を聞いてみてもただ丁寧なばかりで、少しも問うことの答えのようではなかった。しかし多勢の言うことを綜合してみると、つまり清光館は没落したのである。月日不詳の大暴風雨の日に村から沖に出ていて帰らなかった船がある。それにこの宿の小造りな亭主も乗っていたのである。女房はいま久慈の町に行って、何とかいう家に奉公をしている。二人とかある子供を傍に置いて育てることもできないのはかわいそうなものだという。
その子供は少しの因縁から引き取ってくれた人があって、この近くにもおりそうなことをいうが、どんな子であったか自分には記憶がない。おそらく六年前のあの晩には、早くから踊り場の方へ行っていて、私たちは逢わずにしまったのであろう。それよりも一言も物を言わずに別れたが、何だか人のよさそうな女であった婆さまはどうしたか。こんな悲しい目に出会わぬ前に、盆にくる人になってしまっていたかどうか。それを話してくれる者すら、もうこの多勢の中にもおらぬのである。 |
この晩私は八木の宿に帰ってきて、パリにいる松本君へ葉書を書いた。この小さな漁村の六年間の変化を、何かわれわれの伝記の一部分のようにも感じたからである。かりにわれわれが引続いてこの近くにいたところで、やはり卒然として同様の事件は発生したであろう。またまるまる縁が切れて遠くに離れていても、どんなでき事でも現われうるのである。がこうして二度やってきて見るとあんまり永い忘却、あるいは天涯万里の漂遊が、何か一つの原因であったような感じもする。それはそれで是非がないとしても、また運命の神さまもご多忙であろうのに、かくのごとき微々たる片隅の生存まで、一々点検して与うべきものを与え、もしくはあればかりの猫の額から、もとあったものをことごとく取り除いて、南瓜の花などを咲かせようとなされる。だから誤解の癖ある人々がこれを表して、不当に運命の悪戯などというのである。 |
村の人との話はもうすんでしまったから、連れの者のさしまねくままに、私はきょとんとして砂浜に出てみた。そこにはこのごろ盛んにとれる小魚の煮干が一面に乾してあって、驚くほどよくにおっていた。そのたくさんの筵の一番端に、十五、六人の娘の群れが寝ころんで、われわれを見て黙って興奮している。白い頬冠りの手拭が一様にこちらを向いて、もったいないと思うばかり、注意力をわれわれに集めていた。何とかしてこの人たちと話をして見たら、いま少しは昔の事がわかるだろうかと思って、口実をこしらえて自分は彼らに近よった。
ハマナスの実は村の境の岡に登ると、もういくらでも熟しているとのことであった。土地の語ではこれをヘエダマというそうで、子供などは採って遊ぶらしいが、わざわざそんな物を捜しに遠方から、汽車に乗って来たのが馬鹿げていると見えて、ああヘエダマかといって、互いに顔を見合わせていた。
この節はいろいろの旅人が往来して、彼らをからかって通るような場合が多くなったためでもあろうか。うっかり真に受けまいとする用心が、そういう微笑の蔭にも潜んでいた。全体にも表情にも、前に私たちが感じて帰ったようなしおらしさが、今日はもう見出されえなかった。
一つにはあの時は月夜の力があったかもしれぬ。あるいは女ばかりで踊るこの辺の盆踊りが、特に昔からああいう感じを抱かしめるように、仕組まれてあったのかもしれない。六年前というとこの中の年がさの娘が、まだ踊りの見習いをする時代であったろう。今年は年がよいから踊りをはずませようというので、若い衆たちが町へ出て金紙銀紙を買ってきて、それを細かく切って貼ってやりましたから、きれいな踊り前掛ができました。それが行き渡らぬといって、小娘たちが不平を言っておりますと、清光館の亭主が笑いながら話していたが、あの時の不平組もだんだんに発達して、もう踊りの名人になってたぶんこの中にいるだろう。
なるほど相撲取りの化粧まわし見たような前掛であった。それがわずかな身動きのたびに、きらきらと月に光ったのが今でも目に残っている。物腰から察すればもう嫁だろうと思う年ごろの者までが、人の顔も見ず笑いもせず、伏し目がちに静かに踊っていた。そうしてやや間を置いて、細々とした声で歌い出すのであった。たしかに歌は一つ文句ばかりで、それを何遍でもくり返すらしいが、妙に物遠くていかに聞き耳を立てても意味が取れぬ。好奇心の余りに踊りの輪の外をぐるぐるあるいて、そこいらに立って見ている青年に聞こうとしても、笑って知らぬという者もあれば、ついと暗い方へ退いてしまう者もあって、とうとう手帖に取ることもできなかったのが久しい後までの気がかりであった。 |
今日は一ついよいよこのついでをもって確かめておくべしと、私はまた娘たちに踊りの話をした。今でもこの村ではよく踊るかね。
今は踊らない。盆になれば踊る。こんな軽い翻弄をあえてして、また脇にいる者と顔を見合わせてくっくっと笑っている。
あの歌は何というのだろう。何遍聞いていても私にはどうしてもわからなかったと、半分ひとり言のようにいって、海の方を向いて少し待っていると、ふんといっただけでその問いには答えずにやがて年がさの一人が鼻唄のようにして、次のような文句を歌ってくれた。
なにヤとやーれ
なにヤとなされのう
ああやっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、この浜でも盆の月夜になるごとに、歌いつつ踊っていたのであった。
古いためか、はたあまりに簡単なためか、土地に生まれた人でもこの意味がわからぬということで、現に県庁の福士さんなども、何とか調べる道がないかといって書いて見せられた。どう考えてみたところが、こればかりの短い詩形に、そうむつかしい情緒が盛られようわけがない。要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向かって呼びかけた恋の歌である。
ただし大昔も筑波山のかがいを見て、旅の文人などが想像したように、この日に限って羞(はじ)や批判の煩わしい世間から、のがれて快楽すべしというだけの、浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、やるせない生存の痛苦、どんなに働いてもなお迫ってくる災厄、いかに愛してもたちまち催す別離、こういう数限りもない明朝の不安があればこそ、
はアどしよぞいな
といってみても、
あア何でもせい
と歌ってみても、依然として踊りの歌の調べは悲しいのであった。 |
一たび「しょんがえ」の流行節が、海行く若者の歌の囃しとなってから、三百年の月日は永かった。いかなる離れ島の月夜の浜でも、燈火花のごとく風清き高楼の欄干にもたれても、これを聞く者は一人として憂えざるはなかったのである。そうして他には新たに心を慰める方法を見出しえないゆえに、手を把って酒杯を交え、相誘うて恋に命を忘れようとしたのである。
痛みがあればこそバルサムは世に存在する。だからあの清光館のおとなしい細君なども、いろいろとしてわれわれが尋ねてみたけれども、黙って笑うばかりでどうしてもこの歌を教えてはくれなかったのだ。通りすがりの一夜の旅の者には、たとえ話して聞かせてもこの心持はわからぬということを、知っていたのではないまでも感じていたのである。 |
大学の夏休みを使って大阪から信州松本に帰省した私はそこで数日を過ごしたあと
「約束の旅」 を果たすべく信越本線で新潟を経由して青森を目指した。 日本海を眺めながら奥羽本線をひたすら北上して青森駅に着いたのは午後も9時を回っていたであろうか。
駅前は折しも8月2日から7日に開催される 「青森ねぶた祭」 の最中とあって、そろいの浴衣を身に纏った老若男女の熱気と掛け合う囃子で喧噪を極めていた。
宿をとるのもままならずその夜は駅庁舎の床に蹲って時を過ごすことにした。 やがて朝となり青函連絡船の乗降客の気配で目がさめた私は乗降客に付き従って連絡船の発着所まで行ってみた。
朝靄の中、函館に向かって出航する船影は絵にしたくなるような景色であった。 そのごしばらく駅界隈を散策したのち東北本線で八戸に向かい八戸からは八戸線で目的の地を目指した。
そう陸中八木である。 |
八戸線は青森県八戸駅から岩手県久慈駅を結び、太平洋と面するリアス式三陸海岸を辿る風光明媚なローカル線である。
車両は2両編成であったがそれでも車内は閑散としていた。 乗り合わせた乗客は魚の行商にでも行くかのような元気な4人ほどの老婆の仲間うちであった。
おどろいたことに何を話しているのかまったく不明であった。 とある言語学者が青森弁はフランス語に近いと言っていたことを思い出した。
どうやら昨夜観たテレビドラマの話をしているらしいことは度々発する 「ガードマン ・・」 という英語の部分をもってかろうじて理解された。
元気な笑い声で満たされた車両は碧空に輝く真夏の陽光を浴びながら快適な振動音をともなって変化に富んだ海岸線を進行していく。 昨夜の寝不足のためかやがてまどろむような快感がおとずれその夢がさめるころに大海原を望んで立つささやかな陸中八木の駅頭に到着した。 |
下車した乗客は私ひとりであった。 授業で読んだ
「清光館哀史」 の場面を眺める風景に重ねたが確と場所を定めることはできなかった。 やがて私は、おそらく清光館はここにあったであろう
・・ そして女ばかりが夜どおし踊った盆踊りの場所はここにちがいないと思うことで、記憶としての清光館の世界を現実の世界に描くことで満足することにした。
もっとも柳田國男がその地を訪れた50年前にしてすでに清光館の没落が上記の 「清光館哀史」 に記載された状況であったことを考えればその後に経過した50年の歳月を加えれば訪れた私が目撃した状況はむべなるかなでありむしろ当然の仕儀であったのかもしれない。 |
なすすべなく気落ちした気分で十五、六人の娘の群れが寝ころんでいたという砂浜に出てみた。
勿論。 そこにはハマナスも人影もなかった。 あったのは果てることなく寄せる波の音と彼方から渡ってくる海風だけであった。 それだけは色褪せることなく当時のままを再現していた。 |
陸中八木駅のホームで帰りの列車を待っているとどこからともなく土地の中学生であろうか4人の娘(少女)が現れた。
どの子も屈託のない笑顔を浮かべてホームの上を行き来してかって柳田國男が砂浜で出逢った娘たちと同様な興味の眼差しを私に送ってくる。
そこで私も柳田國男がしたように娘子らに話しかけることにした。 せっかくここまできたのであるから記念写真の1枚ぐらいは残そうとカメラを掲げて
「写真撮ってくれるか」 と声をかけると何を思ったか4人が一列に私の前に並んでしまった。 どうやら私の日本語も彼女たちには伝わらず
「私が彼女たちを撮ってやる」 と受け取ったようである。 今さら 「私を撮ってくれ」 とは言えず 「記念の1枚」 は彼女たちの肖像となってしまった。
娘子らは歳の頃からすれば柳田國男が50年前に砂浜で出逢った娘たちの孫の世代であろう。 だが私はその娘子らの体内におそろしいほどに似かよった遺伝的形質が世代を超えて受け継がれていることを確かに垣間見たのである。
かって高校生であった私が何故にこれほどまでに 「清光館哀史」 に惹きつけられたのかの不可思議さの源泉はかくなる途切れることなく継続される哀感の連鎖であったのではあるまいか?
やはり清光館はここにあったのである。 |
歴史作家、司馬遼太郎は縄文集落 「三内丸山遺跡」
をもち、今でも 「マタギ」 が生活する下北と津軽の両半島で陸奥湾を囲む青森の地を日本民族の 「ふるさと」 であるとし、「北のまほろば」
と呼んだ。 また八戸線の起点である八戸はおよそ2万年前の旧石器時代から人が住んでいたと言われる。 縄文時代後期を代表する大規模集落跡である是川遺跡や風張遺跡などからは数多くの出土品が発掘され多くの人々が暮らし繁栄したと考えられている。
出土された 「合掌土偶」 は国宝となっている。 |
随想 「清光館哀史」 の通底を流れる主調は極東のささやかな列島で生きた人々が築きあげた民族としての遺伝的記憶であろう。
そこに柳田國男民俗学が語る何たるかが横たわっている。 多くの青年達を魅了して止まない秘密もまたそこにある。 |
私の 「約束の旅」 からすでにして50年余の歳月が経過した。
柳田國男の旅から数えれば100年余の経過となる。 まったくもって古い話ではあるがその輝きは今も尚、いささかも朽ちることはない。
民族の証とはかくこのようなものなのであろう。 そして今、再びその地を訪れてみたいと思う。 だが今日だってその世界は微塵も変わらずにそこに存在しているに違いないのだが
・・。 |
「約束の旅」を終えたあと私の東北ひとり旅は南部盛岡、雫石、裏磐梯、会津へと続けられたのであるが本題とはずれるため割愛する。 |
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