Linear ベストエッセイセレクション
細部と全体
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ローカル社会とグローバル社会
 現代社会を描いた 「半径3Kmの社会」 で、私はその様相を以下のように書いている。
 超グローバル社会も行き過ぎると今度は超ローカル社会に反転する。 そう 「半径3Kmの社会」 である。 超グローバル社会もまた 「そこから始まった」 のである。 何のことはない。 事は遠大なループを描いて原点に回帰したのである。 だが 「半径3Kmの社会」 の超ローカル社会がかならずしも 「小さな世界」 で、地球規模の超グローバル社会が 「大きな世界」 というわけではない。
 「ペアポール宇宙モデル」 では 「細部は全体 全体は細部」 という入れ子状に階層を成す 「フラクタル構造宇宙」 を描いている。 このモデルに従えば、半径3Kmの超ローカル社会には地球規模の超グローバル社会が含まれている。 現代社会は瞬時にあらゆる情報が地球上を駆けめぐる情報社会であって、好むと好まざるに関わらず意識下には超グローバル社会が常に身近に存在している。 しかし、存在しているからと言って、手に触れられるわけでもなく、自由にどうこうできるわけでもない。 超ローカル社会に生きる者が抱く失望感は超グローバル社会で今まさに起きているミャンマーの軍事クーデターやパレスチナとイスラエルの紛争等々を半径3Kmの世界をもってしては 「いかんともしがたい」 という無力感から生まれている。
1人を救うものは世界を救う
 かって地方紙に掲載された 「世界の救済」 と題したエッセイの中で、私は以下の言葉を使った。
1人を救うものは世界を救う だが世界を救おうとするものは1人も救えない
 この言葉はスピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」 で使われた 「1人を救うものは世界を救う」 から着想したものである。 以下の記載は、科学哲学エッセイ 「時空の旅」 で描いた 「シンドラーのリスト」 からの抜粋である。
 スティーヴン・スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」 を観た。 スピルバーグ監督がようようにして手にしたアカデミー賞作品である。 白黒画面で子供の頃に観た映画を思い出した。 私は1949年の生まれである。 この映画の舞台はそれより10年程前のナチス・ドイツの頃である。 映画はユダヤ人大量虐殺の裏に隠された人間愛の物語である。
 SS(ナチ親衛隊)はユダヤ人600万、ロシア人500万、ポーランド人200万、ジプシー50万人等合わせてじつに1400万余の人間を虐殺したといわれる。 企業家であるシンドラーはもてる資産の全てを使ってその強制収容所から救出する人々のリストを作った。 そのリストが題名になった 「シンドラーのリスト」 である。 戦争が終結してシンドラーが救出した人々と別れる最後のシーンは感動的である。 もっと努力すれば ・・ もう1人でも ・・ 2人でも ・・ 救出できたのではないか ・・ とシンドラーは涙を流す。 そして、助け出された人々は別れるシンドラーのために自分たちで手作りしたひとつの指輪を贈る。 その指輪には 「1人を救うものは世界を救う」 という文字が刻まれていた。
 シンドラーによって死をまぬがれた人々は1100人、今その子孫は6000人を越えるという。 確かにシンドラーが救った人々は虐殺された1400万人からすれば、わずかな人数である。 だが世界を形づくる原点がここにある。 我々は生きている間に世界の全ての人々と逢うことはできない。 身のまわりの身近な人々に自分のできるかぎりを尽くすしかないのである。 それはまた1人1人がもつ人体の中にある 「小宇宙」 と、それをつつむ 「大宇宙」 とのつながりのようでもある。 ナチスの大量虐殺は人類がもった最も悲惨な世界であった。 しかし、その狂気の嵐の中にあっても微動だにしない大宇宙と、それにつながった愛の静寂につつまれた小宇宙があったことは驚きであるとともに、「宇宙の心」 がなんであるのかを我々に暗示している。
 以上の史実からは、シンドラーが生きた超ローカルの半径3Kmの小さな世界が超グローバルな大きな世界に紛れもなく影響を及ぼしたことの証左が顕れている。 そこには 「いかんともしがたい」 というような無力感など少しも感じられない。
利休の世界と秀吉の世界
 茶人、千利休が言ったという 「世の中のこと一杯のお茶にしかず」 とは、あたかも天下人として驕っていた豊臣秀吉に対する諫めの言葉であったかのようにも思われる。 この言葉が影響したかどうかはわからないが、のちに利休は秀吉から切腹を命じられている。 秀吉は謝罪すれば許すとしたのであるが、利休は自らの節を曲げることなく従容として死に臨んだ。 大きな世界の権力者として君臨する秀吉に微塵も屈することなく、小さな世界の住人である利休は臆することなく秀吉に堂々と対峙したのである。 だがその大きな世界の秀吉ものちに自らの死に臨んで作った辞世の句で 「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 と自らの生きとしをささやかな露の一滴にたとえたのである。 利休の 「一杯のお茶」 と対比するとき、いずれが大きな世界で、いずれが小さな世界なのかは 「渾然」 として判定することができない。
華厳経の世界観
 般若心経に比肩される大乗仏教における中心経典である華厳経の 「一はすなわち一切であり 一切はすなわち一である」 とする教義は 「細部は全体 全体は細部」 とする現代理論物理学が説く 「フラクタル宇宙構造」 と同義であり、「万物は相互にその自己の中に一切の他者を含み 相互に関係しあい 円融無礙に旋回しあっている」 とする教義は理論物理学者、デビット・ボームが示した 「目に見えるすべての明在系には宇宙の一切を統御する暗在系(宇宙の内蔵秩序)が含まれている」 とする宇宙構造に一致する。
宇宙とは仕組み
 私は自ら構築した 「ペアポール宇宙モデル」 の末尾に以下の帰結を配した。
 環状連鎖ウェーブコイルは群を成し宇宙空間に散在している。 この風景はまた池の水を顕微鏡で覗いた時に見える風景でもある。 大宇宙と小宇宙の区別はどこにもな く、細部は全体であり、全体は細部である。 つまり、宇宙には大きさはなく、構造のみが存在するのである。 我々自身が一杯のコップの水の中の宇宙に存在しているのか、池の水の中の宇宙に存在しているのか、はたまた大海の水の中の宇宙に存在しているのか特定することは永遠に不可能である。 あれよりこれが大きいとか、小さいとか、遠いとか、近いとかのサイズの概念は我々人間が生活上の必要性から創った概念であり宇宙の概念としては適用できない。 この人間が創ったサイズの概念が 「宇宙の果て問題」 を発生させた。 つまり、宇宙の果てはどうなっているのかという問いである。 この問いを解いた人は未だいない。 それは大きさという概念をもってして考えるからであり、この概念を捨て去ればこの問題は難なく解ける。 つまり、宇宙とは仕組みという概念であり、大きさという概念ではない。 大きさという概念がなきところに宇宙の果という概念はもとから存在しないのである。 この仕組みこそが宇宙の構造でありメカニズムである。 この宇宙の仕組みがなぜにこのようなのかは ・・ もはや神のみぞ知るところであろう。
環状連鎖ウェーブコイル群
 現代情報化社会が創りあげた半径3Kmの小さな世界である 「細部」 としての超ローカル社会と地球規模の大きな世界である 「全体」 としての超グローバル社会という2つの世界は互いに相克するものではなく密接に繋がった1つの世界である。 そのことに悟り至れば、目から鱗が落ちるがごとくにさまざまな迷いから解放されるにちがいない。 だがその覚醒に至る困難さは筆舌に尽くしがたく、弘法大師空海は 「太始と太終の闇」 と題する偈をもって以下のように描いている。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し

2021.06.05


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