Linear ベストエッセイセレクション
2つの世界
Turn

発見される宇宙と発明される宇宙
 現代量子物理学が描く「新たな宇宙の発見」は、シュレジンガーが構築した波動理論に基づいた波動方程式における波動関数の「収縮」として述べられる。しかしてその収縮は「意識的な観測」によってもたらされる。観測とはある現象を測定器を使って測定する等々が想起されるが、意識的観測とはそのような狭量なものではなく、とある現象に「気づくこと」であり、「知ること」であり、言うなれば認識活動全域に渡るものである。我々が生きる世界は「現象世界」と呼ばれるが、その現象世界の片隅で何かを認識したとき、そこに新たな宇宙が発見されるのである。
 言葉を紡ぐことは意識の中に「とある世界」を描くことであって、それは新た宇宙を創造(発明)することである。波動理論による意識的観測で「発見される宇宙」と、言葉で紡がれることによって「発明される宇宙」ではどこが異なるのであろうか?
 物質と意識の結びつきを研究した英国の物理学者、ロジャー・ペンローズの代表作「皇帝の新しい心」は発表されるやいなやセンセーショナルな論争を巻き起こした。ペンローズの理論が特徴的であるのは、統一理論のあるべき姿が 「いかなる思考から生まれるのか」 という従来の物理学にはなかったアプローチ方法の違いにある。彼の理論は多分に荒削りではあるものの、もし彼の言うことが正しいとすれば、物理学の理論を一挙に統一するとともに、哲学の最難問とされる「物質と意識の結びつき」を解決する可能性を秘めている。
 現在、統一理論に最も近いとされている論とは「超ひも理論」である。 超ひも理論では10次元空間の中のひもの振動が宇宙のすべての物質とエネルギ、はたまた空間と時間まで生み出すとされている。世界の著名な物理学者の多くは超ひも理論こそが「統一理論」であると考えているが、ペンローズは「ひも理論は正しいはずがない」と考えている。彼は自他共に認めるプラトン主義者であり、科学者は真理を 「発明」 するのではなく、すでにあるものを 「発見」 するのだと考えている。 真理には「美しさ」、「正しさ」、「明快さ」を感じさせる「何か」が備わっているものであって、超ひも理論にはその「何か」が欠けているというのである。確かに超ひも理論は量子論と相対論を数学的には矛盾なく説明してくれるが、現実空間の中で実験できるものでもなく、そもそも10次元のミクロのひもの振動が何を意味しているのかも不明である。ペンローズは超ひも理論は物理学者が「発明」したしろものだと言いたいのであろう。
 彼が論点とする 「発見される真理」 と 「発明される真理」 の対比構造は、前述した 「発見される宇宙」 と 「発明される宇宙」 の対比構造と相似的等価である。
 はたして、真理は 「発見」 されるのか、それとも 「発明」 されるのか ・・?
 しかして、宇宙は 「発見」 されるのか、それとも 「発明」 されるのか ・・?
 前者と後者の根源的な違いは「人間意識の介入」の違いである。前者には人間の意図が作用していないが、後者には人間の意図が作用している。 宇宙存在における究極の問いである「物質と意識の結びつき」は、つまるところ 「人間意図の有無」 に帰着する。 問いを一挙に還元すれば、「我思う、ゆえに我あり」なのか? それとも「我思わず、しかれども我あり」なのか? ということである。
自力本願と他力本願
 宇宙は「発見」されるのか? それとも「発明」されるのか? 問いは人間における意識介入の違いにあることに帰着した。かかる問いの構図は仏教思想における「自力本願」と「他力本願」の対比構造に相似する。本願とは菩提心を起こし成仏(仏に成ること)を願うという意であり、その本願には自力と他力の2つの道筋があるというのがその中核をなしている。さらに詳細な説明となれば、仏教の思想体系全域に渡ることにもなりかねないのでここでは割愛する。 本稿の主旨に従って要点のみを述べれば「発見される宇宙とは他力本願の世界であり、発明される宇宙とは自力本願の世界である」とする指摘にとどめる。
 意図をもった厳しい修行によって成仏に至る自力本願からすれば、南無阿弥陀仏を唱えるだけで成仏できるという他力本願の手法を図りかねるのは当然の仕儀であろう。だが逆に他力本願からすれば不完全な浅知恵から生まれた人間の意図をもって成仏できるなど思い上がりも甚だしいと自力本願の真意を図りかねるのもまた当然の仕儀であろう。2つの本願を隔てる溝は大きくて深い。同様に、発見される宇宙と発明される宇宙を隔てる溝もまた大きくて深い。
心象世界と現象世界
 発見される宇宙とは、身の外に構築された物質宇宙であって、言うなれば現象世界である。 他方。発明される宇宙とは、身の内に構築された意識宇宙であって、言うなれば心象世界である。 現象世界は唯物論で語られる世界であり、心象世界は唯識論で語られる世界である。 自力本願と他力本願の構図で述べれば、自力本願とは発明された宇宙であって、唯識論で身の内に構築された心象世界であり、他力本願とは発見された宇宙であって、唯物論で身の外に構築された現象世界ということになる。 以上を整理すれば以下のようになる。
 発見される宇宙=外なる宇宙=物質宇宙=唯物論的宇宙=現象世界=他力本願
 発明される宇宙=内なる宇宙=意識宇宙=唯識論的宇宙=心象世界=自力本願
色即是空と空即是色
 「発見される宇宙と発明される宇宙」、「自力本願と他力本願」、「心象世界と現象世界」 2つの宇宙を隔てる大きな溝について考えてきたが、その隔絶を埋める方法はないのであろうか?
 ぼんやりではあるが、般若心経の「色即是空 空即是色」の世界観にその方途が垣間見えている。 「色即是空 空即是色」は般若心経の神髄であって、「色」とは有であり、存在を意味し、「空」とは無であり、非存在を意味する。 「色即是空 空即是色」を直訳すれば 「在ると思うと無い 無いと思うと在る」 となる。これが観自在菩薩が深く修行をしていたときにわかった 「この世の実相」 である。この実相から冒頭で掲げた2つの宇宙存在を考えれば、「発見された宇宙は 発明された宇宙であり」、「発明された宇宙は 発見された宇宙である」と等価的に変換される。
 この等価的表現はあたかも現代量子物理学が説明する 「量子の2重性」 の解説を聞くかのようである。 様々な物理現象における物理量の最小単位である量子は「粒子生」と「波動性」の2つの性質を兼ね備えている。だがこの2つの性質は同時に観測することはできない。粒子性を観測しようすれば波動性は観測できず、波動性を観測しようとすれば粒子性が観測できない。 さらに、量子の「位置」と「運動量」の2つを同時に観測することもまたできない。位置を観測しようすれば運動量は観測できす、運動量を観測しようとすれば位置が観測できない。 これらの現象は量子世界の不確定性を述べている。
 ミクロの量子世界とマクロの現象世界が同じ構造をもつことは、「細部は全体であり、全体は細部である」とする「フラクタル構造法則」からも充分に納得できることであろう。 つまり、発見される宇宙と発明される宇宙、自力本願と他力本願、心象世界と現象世界 ・・ 等々の2つの宇宙は同時に観測する(眺める)ことはできないということである。
自然は芸術を模倣する
 芸術家はまず彼らが生活している身の回りを取り囲む自然をながめ、それを模倣することから、その活動をスタートする。例えば芸術家が絵を描く場合を考える。ひとつの花を描こうとすると、まずその花をよく観察しなければならない。花を支える茎の太さ、長さ、構造、また茎から葉がどのように生え、その大きさが全体に対してどのような割合であるのか。また花を構成する花びらが、どのように重なり合っているのか等々。それらの観察を通し1枚のカンバスに、その花を描き採る。それが絵を描くことである。
 芸術家は実際に存在する花と1枚のカンバスに描き採られた仮想の花との間に介在している。つまり、カンバス上の花は芸術家(人間)がいなければ存在できなかったわけである。またカンバス上の花は芸術家の観察を通して描かれた仮想の花である。そのようなものである以上、その芸術家の観察能力や鑑識眼、審美眼等によりカンバス上に現れた花はさまざまに変化する。100人の芸術家がいれば100通りの花がカンバスに現れるのである。その中のどれが実在の花を描き採ったのであろうか? 我々には判断のしようがない。
 これはなにも絵に限ったことではない。彫刻においても同じことである。どれが実在の美しい女性の身体を刻みだしたのか? 小説家はある出来事を言葉という手段を使って文章に現す。そのどれが出来事の実体を本当に伝えているのか? 全ては仮想なのである。 さらに、これはなにも芸術家や小説家に限ったことではなく、人間の表現活動全般に言えることなのである。物理学者は同様に自然を観察し絵筆とカンバスを使うかわりに数式を使い自然を表現するのであるし、音楽家は音符を使用するのである。手段は異なるものの全て自然の実体を描き採ろうとし、表現しようとする人間の作業努力の活動なのである。
 我々はそのようにカンバス上に現れた仮想の花を見て、逆に実在の花を見ようとする。その過程で、またも、人間の想像という仮想が作用する。否定の否定は肯定であろうし、逆もまた真なり。ひょっとするとこの過程で花の実在に到達するのかもしれない。
 時として我々はどこかの美術館で見た1枚の絵の世界と全く同一の自然の風景に出会ったり、小説の中の出来事に実際に出会ったりすることがある。それはまさに 「自然が芸術を模倣している」 かのように思える。であれば、物理学者や数学者が記述した数式を自然が模倣して我々の回りを運行していても不思議はない。
 「発見」には人間の意識介入としての意図は作用していないが、「発明」にはその人間の意識介入としての意図が作用していることは、「発見される宇宙と発明される宇宙」で述べた。この構図に上記した「自然は芸術を模倣する」の論旨を適用すれば以下のような帰結が導き出される。 曰く。発見は人間の意図で構築された 「発明を模倣したもの」 であると。
即身への回帰
 「発見される宇宙と発明される宇宙」から始められた「物質と意識の結びつき」に関する論考は、真言密教を創始した空海の 「即身」 の思想に回帰することで一応の落着に至る。 即身の詳細はベストエッセイセレクション「即身への道〜想像と現実の融合」を参照願えれば幸いである。
 想像と現実の融合とは「物質と意識の結びつき」で論考してきた2つの世界に関わる 「発見された宇宙と発明する宇宙の融合であり、自力本願と他力本願の融合であり、心象世界と現象世界の融合であり、色即是空と空即是色の融合であり、自然と芸術の融合 ・・ 等々」 である。 それはまた陽明学を創始した王陽明の「考えること(知)」と「行動すること(行)」の融合を説いた 「知行合一」 の思想と相似的等価である。 これらの経緯は知の巨人たちが到達する頂が登る道は異なれど同じであることを示している。
 そしてその頂は、ベストエッセイセレクション「存在よりも むしろ無が〜問いの終焉」で論じた哲学者、マルチン・ハイデッガーが至った「なぜいったい、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか ?」という 問うべき問いの最期に位置する 「問いの背景」 をも暗示している。

2020.06.01


copyright © Squarenet