Linear ベストエッセイセレクション
この世界とはいかなるものか
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意識的場面 と 物質的場面
 この世界がいかなるものかの解明にはさまざまなアプローチがある。 科学的なアプローチ、哲学的なアプローチ、心理学的なアプローチ、宗教的なアプローチ等々と枚挙に暇がない。 本稿でもさまざまなアプローチで思考探求してきたがいまだにその核心を射るまでには至っていない。 核心はさまざまなアプローチを集合組成したものであるのは確かではあるが、それを 「ひとつの世界」 にまとめることができていないのである。
 この世界がいかなるものかの解答は言葉よりは画像によって与えられるであろう。 それは1枚の画像が内蔵する情報量が百万言の言葉に勝るからに他ならない。 画像とは図形であり、絵画であり、映像であり ・・ 姿形をもった形象である。 その意味を一気に還元すれば時間と空間を取り込んだ 「場面」 という普遍的概念に帰着する。 我々の記憶の多くが論理的言語よりも映像的場面によって構成されていることを考えればその意味は素直に了解されよう。
 さらにその場面は意識場に投影された 「意識的場面」 と物質場に投影された 「物質的場面」 という 「2つの場面」 で構成されていることに思考展開される。 かって私は意識的場面を 「直観的場面」 と名付け、物質的場面を 「歴史的場面」 と名付けて各々の場面がいかに構築されるかを探求している。 以下の記載はその探求結果である。
直観的場面構築
 直観的場面構築とは顕在意識や潜在意識で構成された広漠茫洋たる意識の大海に蓄積されていた玉石混淆、種々雑多なさまざまな断片的認識要素(断片的記憶要素)が、ある瞬間に連鎖関連して(連鎖反応して)意識のスクリーンに投影する 「直観的場面」 である。 はなはだ難解な表現であるが、「連想ゲーム」 を思い浮かべてもらえばよい。 ばらばらに意味なく存在していた言葉が、ある瞬間にまとまりをもち 「何事か」 を語りだすのである。
 私は機械工学のメカニズム開発技術者であり、この直観的場面構築の手法を使用して多くの開発を手がけた。 メカニズムを言葉で表現すれば以下のごとくになる。
メカニズムとは要素で連鎖された構造がある目的達成に向けて行う連鎖反応である。
 メカニズムの構成には 「要素で連鎖された構造」 と 「目的」 と 「反応」 の3つが必要不可欠な条件である。 直観的場面構築にはメカニズムに必要な 「要素で連鎖された構造」 と 「目的」 と 「反応」 の3つの条件が具備されている。 「要素で連鎖された構造」 とは意識下に蓄積されたさまざまな個別意識としての断片認識要素(断片記憶要素)で構成された意識構造であり、「反応」 とは直観としての意識作用であり、「目的」 とは問題解決としての意識決定である。
 直観的場面構築とは 「意識メカニズム」 であり、それは歯車、チェーン、ボルト、ナット等々の機械要素で構成された 「機械メカニズム」 と等価である。 従って機械メカニズムを開発することは、この意識メカニズムを作動させることに他ならない。 私はこの直観的場面構築という意識メカニズムを使うことで、機械メカニズムの開発に向けた新たなアイデアや多くの着想を得ることができた。
 ただ意識メカニズムの手法は多分に文学的である。 なぜなら意識は言葉を介して認識できる形に変換されるからである。 根源的な意識は混沌とした 「ディオニュソス」 であり、このディオニュソスを認識できる形に表現する変換技術が言葉による言語認識システムである。 言語認識システムは目鼻も姿も形も混沌としたディオニュソスを言葉(文字)という形に置き換える。 稚拙な文学とは、この根源意識の言葉(文字)への変換技術が稚拙であることであり、練達な文学とはこの変換技術が当意即妙であることである。
 文学的な短歌や俳句はこの言語認識システムが集約洗練されたものであり、より短い文章で宇宙のディオニュソスを表現する。 その文章(構造)は幾つかの言葉(要素)で構成(連鎖)されることにより、情緒や情景(場面)を発生させる(目的)のである。 これからすれば短歌や俳句もまた優れた 「直観的場面構築技術」 ということができる。
 この意味では 「工学の開発」 と 「文学の創作」 とは何ら異なるところはない。 優秀な工学とはまた多く優秀な文学であり、優秀な文学とはまた多く優秀な工学なのである。
 但し、直観的場面構築によって現れた場面は一瞬間の場面であり、現れるやいなや再び混沌とした根源意識としてのディオニュソスの大海に消えてしまう。 ゆえに、この場面を定着させるためには並外れた技量を必要とする。 言葉をもって定着させるには 「文豪ゲーテの記述力」 が、形をもって定着させるには 「巨匠ピカソの描写力」 が、音をもって定着させるには 「天才バッハの音楽力」 が、必要とされるのである。
(※)ディオニュソスとは
 哲学者、ニーチェは認識的なものを 「アポロン的」、情意的なものを 「ディオニュソス的」 というギリシャ神の名をもって分類した。 アポロン的とは形而下的であり、言語的であり、ディオニュソス的とは形而上的であり、抽象的である。 私はこの分類を日本の歴史時代の名をかりて、認識的なものを 「弥生的」 と表現し、情意的なものを 「縄文的」 と表現している。 弥生的とは機能的であり、縄文的とは呪術的である。 これらの対比を数学的概念で表現すると、アポロン的、弥生的とは 「デジタル的」 であり、ディオニュソス的、縄文的とは 「アナログ的」 である。
歴史的場面構築
 歴史的場面構築とは直観的場面構築の対極にある場面構築メカニズムである。 2つの場面は互いに相対性と相補性を具備した 「Pairpole」 を成している。 直観的場面とは 「意識世界に構築された場面」 であり、歴史的場面とは 「物質世界に構築された場面」 である。 また直観的場面構築メカニズムと歴史的場面構築メカニズムのメカニズム構成は互いに等価的である。
 歴史的場面構築メカニズムはかってにバラバラに存在していた事実(要素)がある時に関連性(連鎖)をもち事件(構造)に発展(反応)し、社会に影響(目的)を及ぼす物質世界での場面構築メカニズムである。 関ヶ原の戦役も、第2次世界大戦も、ナチスドイツのホロコーストもこのメカニズムが構築した 「歴史的場面」 である。 これらの歴史的場面がいかように構築されたかは歴史書の記述を読めば瞭然と了解されよう。
 直観的場面構築の基本要素は 「意識」 であり、歴史的場面構築の基本要素は 「行動」 である。 東洋思想の陽明学の主題は 「意識と行動の一致」 を求める 「知行合一」 である。 意識と行動は別々のものではなく、本来は 「一体的」 な存在であるとする。 かかる陽明学からすれば直観的場面と歴史的場面は別々の場面ではなく 「一体的な場面」 である。
 直観的場面と歴史的場面は万物事象の 「表裏」 であり、直観的場面は歴史的場面を投影し、歴史的場面もまた直観的場面を投影する。
 言うなれば意識メカニズムが投影した直観的場面と行動メカニズムが投影した歴史的場面は互いに相対的であり相補的である。 関ヶ原の戦役は、西暦1600年の日本列島に生きていた人々の意識メカニズムが行動メカニズムに投影した歴史的場面であり、ナチスのホロコーストは当時のドイツに生きていた人々の意識メカニズムが行動メカニズムに投影した歴史的場面である。
 世に怖ろしきは実に 「意識」 することであり、その意識メカニズムが直観的場面を構築し、行動メカニズムに投影して歴史的場面を構築してしまうのである。 「思いは実現する」 とは、巷間よく言われることである。 我々は正しく意識する必要がある。 なぜなら正しい意識だけが、正しい行動を発生させ、正しい歴史的場面を構築するからである。
曼荼羅の世界
 以上に記載した 「直観的場面」 と 「歴史的場面」 という 「2つの場面」 は対を成す 「Pairpole」 であって互いに 「相対的」 であり 「相補的」 である。 それは1枚の紙の表裏のような関係であって 「切り離す」 ことができない。 換言すれば、それは 「意識と物質」 の相関関係であり、「想像と現実」 の相関関係であり、「心理と物理」 の相関関係である。
 弘法大師、空海が目指した 「想像と現実の統合(即身)」 とは、まさにかくなる 「2つの場面がひとつの場面に昇華する状態」 を意味しているのではあるまいか ?
 そうであれば、自らが生きている物質世界とは自らの意識世界が投影した 「物質場」 であるとともに、自らが生きている意識世界とは自らの物質世界が投影した 「意識場」 ということになる。 物質場とは 「現実としての場面」 が展開される世界であり、意識場とは 「想像としての場面」 が展開される世界である。
 畢竟如何。 自らが生きているこの世界とは、意識場と物質場という 「2つの場面」 がめくるめく交錯するとともに、互いにリフレクトする 「曼荼羅世界」 ということになる。
※)曼荼羅世界とは
 曼荼羅とは仏教(密教)の中で考えられている世界を図柄で表したものであり、代表的なものには大日経を示した 「胎蔵界曼荼羅」 と金剛頂経を示した 「金剛界曼荼羅」 がある。 この2つはどちらも大日如来を中心とした図柄で 2つで一対 とされ 「両界曼荼羅」 と呼ばれる。 私は自ら構築した 「Pairpole 宇宙モデル」 の基本コンセプトである宇宙内蔵秩序としての 「対称性」 を両界曼荼羅からイメージした 「宇宙のベーシックデザイン」 として意匠化している。

2019.09.02


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