ベストエッセイセレクション
ふるさとは遠きにありて
以下に掲載する4編の詩は、とめどない望郷の思いを綴ったものである。 そのどれにも 「時代」 や 「世代」 や 「国」 を越えても変わることのない故郷への 「忘れがたき感懐」 が流れている。
遠きみやこにかへらばや
室生犀星の 「小景異情」 は、故郷は遠きにあって思うもの、そして悲しくうたうものであって、たとえ異国の地で落ちぶれ乞食(こじき)になったとしても 「帰るところではない」 と断言する。 そしてもし遠き都に帰ったならば、その夕暮れを眺めながら、ひとり故郷を思って涙ぐむような気構えで生きていかなければだめだと奮起を促す。 ただ犀星はこの詩集の自序で 「この本をとくに年すくない人々に読んでもらひたい 少年時代の心は 少年時代のものでなければわからない」 と書いている。
小景異情 / 室生犀星
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
ふるさと行きの乗車券
中島みゆきの 「ホームにて」 は、1977年6月にリリースされた曲である。 それから40年余りの歳月を経ても尚 「忘れがたき名曲」 として世代を越えて唄いつがれている。 ふるさとから都会に出てきた私はふるさとに向かう汽車が停まっている駅のホームに今日も来たものの、いまだその汽車に乗るかどうか躊躇している。 そして今日もまた、乗らずに手のひらに残されたものは 「ふるさと行きの乗車券」 であった。 そうして積み重ねられた乗車券の枚数はまた、この街で積み重ねられた涙の数とため息の数でもあるのだが、華やかな都会のネオンライトでそのふるさと行きの乗車券を燃やそうにも燃やすことができない。 帰ろうかな、帰るのよそうかな ・・ ふるさとは 「いつも心にかかって」 消えることがない。
ホームにて / 中島みゆき
ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
やさしい やさしい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ
振り向けば 空色の汽車は
いまドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う
走りだせば間に合うだろう
かざり荷物をふり捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けばドアは閉まる
振り向けば 空色の汽車は
いまドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う
ふるさとは 走り続けたホームの果て
叩き続けた 窓ガラスの果て
そして 手のひらに残るのは
白い煙と乗車券
涙の数 ため息の数 溜ってゆく空色のキップ
ネオンライトでは燃やせない
ふるさと行きの乗車券
たそがれには 彷徨う街に
心は 今夜も ホームにたたずんでいる
ネオンライトでは燃やせない
ふるさと行きの乗車券
ネオンライトでは燃やせない
ふるさと行きの乗車券
家路は500マイルの彼方
Peter Paul & Maryの 「500 miles」 もまた、国は違えど断ちがたい故郷への思いを歌った名曲である。 故郷から500マイルも離れ、着るものもなく、小銭を恵んでくれる人も居ない。 嗚呼、故郷から500マイル ・・ 家路は遠すぎる。 単調な100マイルのリフレーンは、故郷を離れゆく若者の胸に去来する哀しき願いの 「ゆらぎ」 のようである。 旅立ちを告げることなく後にしてきたもろ人はその思いに気づいてくれるであろうか。
500 miles / Peter Paul & Mary
If you miss the train I'm on
You will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles
僕の列車が出た後に
君はそれに気づくだろう
100マイル彼方の汽笛を聞くかもしれない
A hundred miles, A hundred miles
A hundred miles, A hundred miles
You can hear the whistle blow a hundred miles
100マイル、100マイル
100マイル、100マイル
100マイル彼方の汽笛を聞くかもしれない
Lord I'm one, Lord, I'm two
Lord I'm three, Lord I'm four
Lord I'm 500 miles from my home
100マイル、200マイル
300マイル、400マイル
嗚呼、故郷から500マイル
500 miles, 500 miles
500 miles, 500 miles
Lord I'm 500 miles from my home
500マイル、500マイル
500マイル、500マイル
嗚呼、故郷から500マイル
Not a shirt on my back, Not a penny to my name
Lord I can't go a-home this a-way
着るものもなく小銭を恵んでくれる人も居ない
嗚呼、家路は遠すぎる
This a-away, this a-way
This a-away, this a-way
Lord I can't go a-home this a-way
遠すぎる、遠すぎる
遠すぎる、遠すぎる
嗚呼、家路は遠すぎる
If you miss the train I'm on
You will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles
僕の列車が出た後に
君はそれに気づくだろう
100マイル彼方の汽笛を聞くかもしれない
相反するゆらぎの中で
以下の詩文は江戸末期の浄土真宗本願寺派の僧で自らも勤王家であった月性(げっしょう)が 「勤王立志の詩」 と題して1843年に作ったもので、多くの勤王の志士に愛唱された。
勤王立志の詩 / 月性
男児志を立てて郷関を出づ
学もし成らずんばまた還らず
骨を埋むるに何ぞ期せん墳墓の地
人間到るところ青山あり
「男子が一度志を立てて故郷を旅立つからには目的が成就しない限り2度と故郷の地を踏むことはできない、骨を埋めるのにどうして墓所を決めておく必要などあろう、世の中にはどこにでも墓地がある」 という意である。 後に団塊の世代と呼ばれる戦後の復興と日本の近代化を背負った青年たちが故郷をあとにする際に胸に秘めた心意気として参照したものである。 その思いは 「学もし成らずんばまた還らず」 の部分を 「学もし成らずんば死すとも還らず」 と読み改められていたほどであった。
室生犀星の 「小景異情」 にはその影響が色濃く漂っている。 それは程度は違っても中島みゆきの 「ホームにて」 にも、また国は違えどPeter Paul & Maryの 「500 miles」 にも同様に顕れている。 かく観れば、故郷とは 「自らを温かく包んでくれる存在」 であるとともに 「自らを厳しく律する存在」 でもある。 人はその2つの存在の狭間で、ときに慕い、ときに憎み、ときに歓喜し、ときに悲嘆し ・・ とめどなく 「相反するゆらぎ」 の中で生きていく。 だがその 「望郷の感懐」 は永久に尽きることはないであろう。
2019.01.30
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