Linear ベストエッセイセレクション
時空のめぐり逢い
Turn

宇宙の物語
 現代文明の基礎をなす量子論物理学では物質粒子である量子の胎動を以下のように表現している。
 量子は 「波動性」 と 「粒子性」 という2つの性質を持っているが、2つの性質は同時には観測されず、波動性が観測されれば粒子性は消え、粒子性が観測されれば波動性は消えてしまう。 ある量子がどこかで観測されるまではその量子は波動性を帯びて宇宙全域に波のように広がっている。 この状態を量子論では 「どこにもいてどこにもいない」 と表現する。 しかしひとたび宇宙の局所でその量子が観測されるやいなや波動性は消え、かわって粒子性が現れ、宇宙はその局所に収縮する。 もはやその量子はその局所宇宙にしか存在することができない。
 以上はミクロな量子世界の出来事であるが、私たちが生きているこの等身大の現実宇宙でさえ超ミクロな火の玉の1点から始まったという 「ビックバン宇宙」 の論拠から考えればかくなる量子の胎動を日常生活に還元させることにそう不都合なことはないであろう。
 そうであれば私たちは1個の量子として誰かに見つけられるまでは波動性を帯びてこの宇宙全域に波のように広がっていて 「どこにもいてどこにもいない」 状態であり、ひとたびこの宇宙のどこかの局所で見つかるやいなや粒子性が発現してその局所宇宙にしか存在することができないということになる。
 物理学と化学で用いられるすべての方程式を説明する 「シュレジンガーの波動理論」 はダボスのスキーリゾートの近くの保養地アロサに愛人とともに滞在していたおよそ12ヶ月の間に書き上げられた。 後の科学にあまりにも偉大で、かつ計り知れない影響を及ぼした創造的思考はこの奇跡の12ヶ月の間でなされたのであるが、シェイクスピアのソネットに謳われた黒婦人のようにアロサの婦人は今も謎のままである。
 彼の方程式には 「波動関数」 と呼ばれるまったく新しい量が登場する。 波動関数は物質の粒子性と波動性の両面の性質を考慮し、ふるまいのすべてを詳細に説明している。 また彼はボールのような巨視的物体の場合はニュートン力学の各方程式へと書き直されるように組み立て日常世界でも使えるようにした。
 その後、マックス・ボルンにより波動関数の2乗がある瞬間にある場所でその粒子を見つける確率を示していることがわかった。 すべての系は波動関数により説明され、ある瞬間にある位置で(ある時空間で)あるものが見つかったとたんにすべての可能性を示していた波動関数は収縮しその時空間はあるひとつのものに現実化する。 この収縮は観測や測定という行為によってなされる。
 以下の記載はそのシュレジンガーの波動理論の世界を現実の世界の物語として描いたものである。
 街の歓楽街には幾多の飲食店がひしめいている。 私がそのどこかの店に入る前までの状態は波動関数により説明される。 それはさまざまな可能性の数式である。 それが、私がとある店のドアを開けたとたんに収縮しその可能性の中のひとつが現実化する。 それは、私がその歓楽街の他のいかなる店にもいないことの確定であり、その歓楽街全体の波動関数は収縮しその歓楽街もひとつの時空間として現実化し固定される。 私とその歓楽街に位置するさまざまな店との間には確率的に幾通りもの道筋がある。 ファインマンの 「歴史総和法」 によれば、私はありとあらゆる可能な道筋を試そうとする。 私は何らかの方法でその歓楽街の時空間全体に広がっており、まったくでたらめな方法ですべての店につながっているとともに、その私が私自身と干渉しあっている。 私は同時に歓楽街のすべての店に存在し、かつどこの店にも存在しない。 しかし、私がとある店のドアを開けるやいなや、言い換えれば、その歓楽街の片隅のその店という局所で私が観測されるやいなや、確率的可能性でしかなかった宇宙から、たったひとつの宇宙に収縮し、その宇宙の片隅のとある繁華街のとある店のまわりに広がる時空間全体が現実として固定化されるのである。
 シュレジンガーの波動理論に登場した波動関数こそ、姿を変えた 「アロサの黒婦人」 のようにみえる。 彼はその黒婦人に魅入られ、そして導かれ、奇跡のような12ヶ月におよぶ創造的思考を実現したのであろう。 そして、それはまた私たちが生きている不可思議な宇宙のそこかしこに 「ちらりと姿をかいま見せる謎の黒婦人」 でもある。 しかしながらこの謎の黒婦人をしっかりとつかまえベールに隠された素顔を見たものは未だ誰ひとりいない。
風景の物語
 風景の物語である 「今日のビジョンウィンドウ」 には日付がなく、それは 「かってあった今日」 であり、「いつかある今日」 であるとし、窓(ウィンドウ)の向こうに見える風景(ビジョン)は、過去でもあり、未来でもあるとした所以は、以下のような思索から生まれたものである。
 自然が偉大で素晴らしいのは 「変わらないこと」 である。 かって訪れた高原を湖を森を川を再び訪れても何も変わらずにそこにある。 「変わる」 のは訪れる私のほうで、その時々の状況や心もちでそれらの自然風景がさまざまに変わって見えるのである。 もしその折に撮影した写真に日付を記載しなければ撮影した私をのぞいてその 「切り取られた自然風景」 の時系列を誰も判定することはできないであろう。
 私たちが使っている時系列は 「過去・現在・未来」 と連続する線形時間で構成され、時間は過去から現在へ現在から未来へと流れている。 また過去は記憶で創られた意識世界であり、未来は想像で創られた意識世界であるが、現在は運動をともなった物質世界であって、過去や未来とは本質的に異なっている。 それは意識の源泉である記憶力や想像力を失えば意識世界である過去や未来はたちどころに消失してしまうのに対し、記憶力や想像力を失ったとしても物質世界である現在は厳然とした実在として存在していることを考えれば素直に了解されることであろう。 ではかくこのように異質な意識世界と物質世界を貫いて 「同質的な時間」 が連続して流れていることを、どのような妥当性をもって考えたらいいのであろうか?
 私は過去や未来は 「現在に含まれている」 のではないかと考えている。
 私がとある場所(現在場)を訪れたとき、その現在場(自然界)の中に含まれていた私の過去や未来の意識場が象出することで、内なる意識世界に時間の流れが生まれ、「とある物語」 が構成されるのである。 他方、私をとりまく運動をともなった物質的な自然界(現在場)には時間は存在せず、「物語の背景」 としてただ存在しているにすぎない。
 かくして現在場(自然界)に紡がれた物語とは、言うなれば 「私自身の物語」 なのであるが、あえて私は 「風景の物語」 としたのである。 「今日のビジョンウィンドウ」 はまた、訪れた津々浦々の現在場(自然界)で遭遇したかくなる 「風景の物語」 なのである。
時空のランダム選択
 不可思議な 「時空のめぐり逢い」 を体感することを画して宇宙の物語と題した 「今日のワンダーランド」 と風景の物語と題した 「今日のビジョンウィンドウ」 で構成された 「ランダム選択エッセイ」 を制作しました。 それはまた 「時空のランダム選択」 の体験でもあります。 いかなる時空に遊ぶかはみなさんひとりひとりに与えられた自由な人生の賜です。
宇宙の物語今日のワンダーランド時空のランダム選択今日のビジョンウィンドウ風景の物語

2019.04.08


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