Linear ベストエッセイセレクション
いつかどこかで
Turn

 以下の 「5人の彼」 の物語は、私の人生のつれづれで出逢った 「忘れ得ぬ物語」 である。 回帰する 「時空のめぐり逢い」 の中 「いつかどこかで」 再び出逢いたいものである。
東京が駄目なら大阪が
 最初、彼はどこにもいる平凡なひとりのサラリーマンであった。 だがその転身は、天から降ってくるようにやって来た。 妻の実家が営んでいた家業の酒屋が、時代の流れに抗しきれずに、コンビニエンスストアに転換することに応じて、長年勤めていた会社を辞め、長野県北部の地方都市から県中部の松本市に転居して来たのである。 慣れない店長として新たな人生を踏み出した彼は、その店の明かりが年間を通して24時間、一時たりとも消えることがないのと同じに、昼夜を分かたず懸命に働き続けたのである。
 やがて4年の歳月が流れた頃、国内を2分するライバルのコンビニエンスストアが、よりによって、彼の店からわずか100m程の近くに開店した。 あおりをくらって、客足が減った彼の店が、急速に売上を低下させ、経営不振に陥るまで、そう長い時間を必要としなかった。
 それでも何とか打開の道を切開こうと悪戦苦闘の日々をおくっていた彼に、さらなる苦難が訪れる。 それまでの睡眠不足と不規則な生活で蓄積された過労がたたったのであろうか、片方の耳から突然音が消え、平衡感覚を失った彼は、立っていることもできずに倒れてしまったのである。 しばらくの入院治療のかいあって、やがて退院した彼が、近況報告がてら、私の事務所を訪れたが、その時、彼の片耳は、もうほとんど聞こえなくなっていた。 だが、それでも彼は、まだ聞こえる方の耳を私に傾けて、いつものように、明るく、静かに語って ・・ そして帰って行った。
 次に私の事務所を彼が訪れたのは、それから半年程してからであった。 店をたたむ決心を固めた彼は、私への別れの挨拶に来たのである。 採算がとれなくなった店を閉め、本部が用意した長野県南部の地方都市に開店する店を経営するため、今度は妻子を松本において、単身その地へ赴くのだという。 かかる人生転身の出発地からすれば、遙か200km以上隔たった地への赴任である。 去り際、彼は言った 「行けば、そこにはまたたくさんの人がいて、次の新たな生活が始まりますよ ・・・」 と。
 彼は今、その地で単身、昼夜を分かたず、いつものように、明るく、そして静かに、淡々と頑張っているにちがいない。 巷間、「東京が駄目なら大阪があるさ、大阪が駄目なら九州があるさ」 と言われる。 だが、その実行には、決して屈せぬ強靱な意志と、未来に立ち向かう勇気と、何よりささやかであってもいい、明日への 「希望の灯」 が必要なのである。 彼はそのどれをも兼ね備えている。 遙かな旅路に幸いあれと願うのみである。
絵はがき
 絵はがきには、強い陽射しの中で、民族楽器を持って踊っている健康そうなアフリカ原住の人々の陽気で純朴な姿が写されていた。 差出し地は、西アフリカ、マリ共和国の首都、バマコである。
 彼とは松本のネオン街のはずれに位置するとあるスナックで知り合った。 彼が有名国立大学で地球物理学を専攻していたことで、宇宙論や理論物理学などの 「浮世離れした話」 に興が乗り、何とはなしに、妙にうまがあったのである。
 その後、そのスナックで幾たびか会った時々の話から、彼が大学卒業後、地質調査会社に勤め、世界各国を旅したこと、転じて政府ODE(政府開発援助)の仕事に従事し、後進国の援助に東奔西走したこと等を知った。 言うなれば、彼はかって、俗に世に言う 「エリート」 であったわけである。 だが私と出会った時、彼は独り身であり、地元企業の通訳での契約社員として、細々と暮らしていた。 何故に妻子と別れ、何故に松本に来たのかの理由を彼は語らなかったし、しいて私も聞くことはなかった。 根は陽性ではあったが、ふとした時に見せる横顔には、孤高の影が射し、歌うカラオケの中に寂寥が漂っていたことを印象深く覚えている。
 彼がきっといつかは、この松本の地を去って、再び旅立つであろうことを予感していたせいか、3ヶ月ほど前、突如として通訳の仕事を辞め、外国に旅立ったことを、店のママから聞かされても、そう驚くことはなかった。
 そうして今日 ・・ 1通の絵はがきが、私に届いたのである。
 はがきには、挨拶なく旅立ったことのわび、今、マリ国政府の立場で小規模水供給施設(水道)の施工管理をしていること、毎日30度〜35度の気温の中でも、やせもせず食欲旺盛で頑張っていること等が、強い筆跡でしるされていた。 私は松本からは遙かに遠く隔たった地球の裏側で頑張っている彼の姿を思い描いた。
  そしてもう一度、絵はがきの写真を眺めたとき、原住民にまじって踊っている 「彼の姿」 をその中に確かに見たのである。
------------------------------------------------------------------------------------
「マリ共和国」

 通称マリは、西アフリカの内陸国。 首都はバマコ。 モーリタニア、アルジェリア、ニジェール、ブルキナファソ、コートジボワール、ギニア、セネガルに囲まれている。 国土の北側 3分の1 はサハラ砂漠の一部であり、残りの中南部も、ちょうど中心を流れるニジェール川沿岸だけが農耕地となっている以外は、乾燥地帯である。 マリの名は、かつてこの地にあったマリ帝国の繁栄にあやかって名づけられた。 マリとは、バンバラ語で 「カバ」 という意味で首都バマコにはカバの像がある。 ちなみにマリのGDPは世界第128位、1人当たり900ドル(約10万円)、人口密度は世界第67位、10人/km2 である。

知謀天翔る
 忘れられないシーンがある。 技術者としてまだ駆け出しの頃のことである。 私は新たな製鋼工場を建設するプラントエンジニアとして総合工程調整を担当していた。 総合工程調整の担当者は私以外にもうひとりいて、本社社長室から派遣されていた。 私とは10歳程も年長であり、建設本部長が若輩の私を心配して特別に呼び寄せたのである。
 本部長からは 「語りぐさになるほど」 に優秀だと聞かされていたが、どこが優秀なのかと思うほどに茫洋とした風貌を漂わせ、何処へ行くともなく、のらりくらりと歩き回っていた。 しかし、いざ仕事にかかるやその速度は驚異的であった。 私が1週間かかることを軽々と1日で処理してしまう。 私が必死になっている机の前では頬杖をついてニヤニヤ笑って眺め、コピーしている私をつかまえては 「君のコピーは1枚あたり0.何秒のロスがある ・・ それを一生繰り返すと何時間のロスになる ・・」 などと言う。 この野郎と思うとともに唖然としていた私はその後、彼の凄さを目のあたりにすることになる。
 それは酸素供給設備を検討しているときであった。 工場から提出された計画書には必要酸素量は1日あたり〇〇万立方メートルと記載されていた。 それを見た私はさっそく酸素設備会社へ来社の意向を問う電話をかけようとしたが、窓辺に立ってぼんやりと窓外に広がる工場群を眺めていた彼は、おもむろに 「酸素の分子量はいくつか」 と聞く。 「O2ですから分子量は32です」 と答えると、では 「酸素1分子量の体積はどのくらいか」 と聞く。 「アボガドロの法則では1分子量(1モル)あたり22.4リットルです」 と答えると、では 「提出された必要酸素量の〇〇万立方メートルを22.4リットルで割って32グラムをかけてみてくれ」 と言う。 電卓を叩いた私は〇〇トンという数字を見て建設すべき酸素供給設備の概要を瞬時に理解したのである。 この間に要した時間は数分であった。
 酸素設備会社を呼んで打ち合わせをしようとしていた私ではその数百倍の時間を要したにちがいない。 つまり、知識は多分に私にあったのであろうが、知恵は多分に彼にあったのである。 彼はその知恵をもって、私の頭の中にあった知識を使って、最短で答えに行き着いたのである。 「生きた知識」 とは、かくこのようなものであるかと骨身にしみた私はその後、物事に行き詰まる度に、この時の 「シーン」 が脳裏に甦ってきた。
 無二の先輩となった彼からは、「こぼれ落ちるほどに」 多くの生きた薫陶を受けた。 だが悲しいかな、その数年後、突如として彼はこの世を旅立ってしまった。 戦国の名軍師、竹中半兵衛ほどに無欲で知謀天翔るような天才技術者であったと今も思う。
仕事はやらなければ終わらない
 もはや30年も前の話である。 当時、彼は歳の頃30前後、地方に位置する製造工場で使用される省力化装置を設計する技術者として可もなく不可もない日々を過ごしていた。 その工場に出入りしていた私は社員食堂の片隅でひとり食事する彼の姿をときおり見かけてはいた。 風貌はどちらかといえば斜にかまえ漫然たる世間に背を向けてしらけた風情を漂わせた内気な青年といったところであろうか。
 その彼に大役が回ってきた。 後に直属の課長が話してくれたところによれば、経験を積んできた彼にはそろそろひとり立ちしてもらわなければと、彼には少々荷は重いが組立ラインの1ライン分全体を任せることにしたというのである。
 それからというもの彼には昼夜を分かたない設計作業に没頭する日々が到来した。 3ヶ月が過ぎ、6ヶ月が過ぎても遅々として工程は進まない。 やがては計画した日程も過ぎてしまう。 彼はノイローゼ症状を呈しているとはそのときの課長の弁である。
 ようやくにして仕事が終わったのは1年後のことであった。
 以前のように社員食堂でひとり食事している彼を見つけた私は慰労の声をかけた。 そのとき彼が言った言葉はいまも鮮明に覚えている。 「仕事って ・・ やらなきゃ終わらないものですね ・・」 1年に渡る苦闘をやり終えた万感の思いがこめられていた。
 おそらく彼は途中でありとあらゆる言い訳を考えたのではあるまいか。 病気になったら ・・ どこかへ遁走してしまったら ・・ 担当を外せと課長に頼んだら ・・・ 等々。 ありとあらゆる責任逃れに向けた口実を考え続けたに違いない。 しかし、彼はそのどれをも使わなかった。 そして行き着いた解決策が 「仕事はやらなければ終わらない」 という厳然たる事実だったのである。 事情を知らない人がこれを聞いたら、当然しごくのあたりまえのことであると言うであろう。 だが本当の意味を悟るとは 「ごくあたりまえのこと」 をかく深く理解することなのである。 小学校で聞いた先生の箴言を理解するのはずっと先、そうその小学生が年老いた頃なのである。
 この話には後段がある。
 その後に催された彼のご苦労会でのことである。 普段は飲まない彼がしたたかに酔い、帰宅する電車内で眠ってしまい終着駅まで行ってしまった。 戻る電車はすでになく暗いホームのベンチで一夜を明かしたのだという。 「なんと馬鹿な奴だ」 と課長は笑った。 だが私には何ものにもかえがたく満ち足りた気分で満天の星を見上げている彼の姿が目に浮かんでくる。 そのとき横たわるベンチは寒くも痛くもなく羽毛のごとく柔らかかったであろう。
 しばらくしてその工場を離れた私にはそれからの彼の消息は定かではない。 だがひとりの技術者として本分を全うしたであろうことだけは確かである。
最も美しい顔
 それは大阪にある製鋼工場に赴任、製鋼設備の保守を担当していた若き日のことである。 私には 「忘れ得ぬ笑顔」 がある。
 駆け出しの若輩者であった私に、その彼は少しも恥じらうことなく 「人間にとって最も美しい顔は笑顔だ」 と教えてくれた。 彼は私より10歳程も年長の現場の職長であった。 当時の製鋼工場では旧弊が残っており現場の職制は 「伍長代理→伍長→組長代理→組長」 というようにまさに軍隊式であった。 彼はその伍長である。 ヘルメットには黒色の太い帯が1本巻かれていた。 呼称のとおり、彼は現場では 「歴戦の勇士」 であった。 その彼が 「最も美しい顔は笑顔だ」 というのだから言われた私が戸惑ったのも無理からぬことである。
 その理由を彼流の言葉で語ってくれた。 それを私の言葉で説明すると以下のようである。
 若き日、彼は気むずかし屋で笑うことはなかった。 そのため周囲との関係が思わしくなく孤高の日々をおくっていた。 あるとき彼は考えた 「人間として人間らしい顔とはどのような顔なのか?」 という根源的な問いである。 行き着いたのが 「動物の中で笑うのは人間だけだ」 という事実である。 以来、彼は人間として人間らしい顔は 「笑顔である」 ことを信じて、周囲に向けて笑顔を投げかける。 最初は引きつったような笑顔であったらしいが、周りが笑顔で返してくれるに及んで 「心から笑える」 ようになったという。 そしてついに冒頭の言、「人間にとって最も美しい顔は笑顔だ」 という究極に達した。 それからは惜しみなく笑顔を振りまくことにしたというのである。
 その後、私は彼の笑顔の凄絶さに畏怖することになる。 次第は以下のようである。
 製鋼現場では時として溶鋼炉が爆発したり、炉心が溶融して底が抜けてしまう大事故が発生する。 千数百度の溶鋼が流れ出てしまうのであるからその復旧作業の過酷さは筆舌に尽くしがたい。 作業員は地獄の釜の底のような環境下で昼夜に渡って作業しなくてはならない。 彼らの顔は黒く煤け作業衣は塩を吹いて戦場のようであった。 その現場指揮官であった彼は交代することなく復旧完了まで現場にとどまっている。 あまりに長時間が経過したとき、彼を交代させようと炉底に下りていくと、疲弊した作業員の中にあって輝きを失わない目をした彼が動きまわっている。 交代をいやがる彼を説き伏せて炉底から上がらせ風通しのいいタラップで休ませた。 彼は手摺りにもたれてあらぬ方向を見つめている。 その横顔を覗くと、あろうことか 「静かに笑っていた」 のである。 そのとき私は背筋が寒くなるほどの畏怖を覚えると同時に、動かし難い 「畏敬の念」 にうたれた。 彼のいう笑顔とはこういうものであったのか。 私は声をかけることもできずに彼の横で只々立ち尽くすばかりであった。
 それから幾星霜、自らをもって、笑顔が少なかった私にそのことを教えてくれた彼は今はもういない。 その 「最も美しい笑顔」 を私にのこして、彼は天国に旅立っていった。

2019.02.04


copyright © Squarenet