Linear ベストエッセイセレクション
不確定なこころの時代
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さまよえる大衆心理
 求めるものが曖昧な世界が広がっている。 かってのように人々が求めるものが一律であることは少ない。 大衆の心は今、気ままにうつろっている。 このような社会にあって経済を成長させることは至難の業である。
 いくら情報社会だからといって ・・ いくら広告媒体が増えたからといって ・・ いくら広告技術が進化したからといって ・・・ 大衆心理の不確定性をとらえることはできない。 問題は大衆心理の不確定性そのものにある。 大衆の不確定性とは、すなわち社会の不確定性そのものであり、しかしてその不確定性の原因は 「エントロピの増大」 である。
 エントロピの増大とは 「時間の経過ととも非可逆的にエントロピが増大していく」 とする熱力学の基本法則である。 科学的説明は割愛するが、簡潔に言えばエントロピとは 「ある種の曖昧量」 であり、その曖昧量が時間の経過とともに増大していくことを意味している。 つまり、社会の様相は時間の経過とともに、ますます曖昧に、不規則的となり、「不確定性に支配されていく」 ことになる。 ここでいう時間の経過とは定常的な時間概念ではなく、物事の変化率、つまり、物事の反応速度と規定される。 いうなれば物事がゆっくり変化する時代よりも、急速に変化する時代のほうが、よりエントロピは増大する。
 ご承知のごとく、現代社会は物事が急速に変化する時代であり、ともなって社会の不確定性もまた急速に進展する。 このような不確定性に対し、従来のような認識をもって経済成長を企画しても効果は期待できないであろう。 それはエントロピが増大した自然環境がもたらした予測不能な異常気象を有効にコントロールできなくなっている昨今の状況を考えれば容易に了解されるであろう。
 今求められるものとは、社会と大衆の不確定性に基づいた 「あらたな成長戦略」 である。 その戦略がいかなるものかは熟考を要する。 なにしろ相手は宇宙自然界の運行を司る 「基本法則」 なのである。
こころの不確定性原理
 量子世界の不確定性を描いたハイゼンベルクの 「不確定性原理」 とは、量子の 「位置」 と 「運動量」 の2つを同時に高い精度で確定することはできず、片方の精度を上げようとすれば、もう片方の精度が下がってしまうという原理である。
 では前述の 「さまよえる大衆心理」 で述べた 「大衆心理の不確定性」 はいかに記述されるのであろう。
 ハイゼンベルクの 「不確定性原理」 を等価的に適用すれば、記述は 「大衆が抱く心の位置と運動量の2つを同時に精確に確定することはできない」 となる。 仮に心の位置を 「理性」 に、心の運動量を 「感情」 に、還元すれば、記述は 「大衆が抱く理性と感情の2つを同時に精確に確定することはできない」 と変換される。 これを冒頭の不確定性原理の記述全文に適用すれば以下のようになる。
 大衆が抱く理性と感情の2つを同時に精確に確定することはできず、理性を確定しようとすれば感情が不確定となり、感情を確定しようとすれば理性が不確定となってしまう。
 何のことはない。 それは漱石の 「知に働けば角が立つ 情に棹させば流される とかく人の世は住みにくい」 という小説 「草枕」 の冒頭に一致する。 古今、「理」 と 「情」 は互い相反しあって折り合いよく同化することは困難とされてきた。 大衆心理の不確定性とは、言うなれば理と情の不確定性であり、その不確定性が昨今における世相の変化率の増大(エントロピの増大)によって急激に拡大していることを物語っているのである。
危うきに遊ぶ
 こころの不確定性が増大する社会の様相とはいかなるものか。 より言えば 「理と情」 の不規則性が拡大する社会とはいかなるものか。 それは 「現代社会そのものである」 と言ってしまえばそれまでである。
 問題はこころの不確定性が個々の生き方に与える影響であろう。 現代人のこころの閉塞感は今や臨界点に近づきつつある。 不確定なこころとは確たるよるべがないこころである。 たとえれば浮き草のように波間に漂っているようなこころである。
 この世は 「浮き世」 と呼ばれるぐらいであるから、その不確定性はなにも今に始まったことでもないのかもしれない。 巷間言われる 「あしたはあしたの風が吹く」 とする人生観がそれを追随する。 また少し哲学的にはなるが、禅に 「風鈴は虚空に架かる(第407回)」 という偈がある。 さらには随筆家、白洲正子は自らの著作に 「名人は危うきに遊ぶ」 という表題を冠した。
 これらの 「こころもち」 は 「よるべなく漂うこころ」 そのものを逆に確かなものとする 「しなやかで したたかな こころもち」 である。
 それはまた消えかかってはいるが遥かな時空を貫いて敷島(注1)に引き継がれてきた 「もののあわれ(注2)」 に立脚した和のこころの源流そのものである。 あるいはそのこころもちこそがかくなる閉塞感突破の妙手となるのかもしれない。

(注1)敷島 ・・ 大和国、日本
(注2)もののあわれ ・・ 平安時代の文学をとらえる上での文学理念(美的理念)。 外界としての 「もの」 と感情としての 「あわれ」 が一致する所に生じた調和的な情趣の世界をいう。 本居宣長が指摘したものであり、その極致が源氏物語であるとした。

2015.07.24


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