Linear ベストエッセイセレクション
クリント・イーストウッドの風景
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許されざる者
 夕陽に暮れゆく蕭条たる原野を背景に消え入るかのように静かな音楽がながれいく。 やがてあらわれたオープニングタイトルバックがゆっくりとスクロールをはじめる ・・・ 若く美しい娘クローディアは母の意に背きウィリアム・マニーと結婚した ・・ マニーは人殺しで酒浸りの残忍な札付きの悪党であった ・・ だが母の心配とは逆に美しい妻は天然痘で病没した 1878年のことだった ・・・ 映画「許されざる者(Unforgiven)」 のファーストカットである。
 監督・主演はクリント・イーストウッド、1992年公開、イーストウッドが師と仰ぐドン・シーゲルとセルジオ・レオーネに捧げた 「最後の西部劇」 といわれ、第65回アカデミー賞の受賞作品である。 セルジオ・レオーネとはマカロニ・ウェスタンと呼ばれた 「荒野の用心棒」 で、ドン・シーゲルとは 「ダーティハリー」 で、監督と主演俳優として映画人生をともにした。 セルジオ・レオーネは当時無名に近かったイーストウッドを世界的な人気俳優へと導き、ドン・シーゲルはその人気を不動のものとした恩師である。
 イーストウッドはこの映画の脚本を製作の10年以上前に買い取っていたが、自身が主人公のマニーと同じ年齢になるまで映画化を待っていたという。 映画は観てもらうのがいちばんであるが、最高の場面は最後にくる。 言葉で書いても臨場感は伝わらないことを承知で描けば、以下のようである。
 ・・・ 雷鳴が轟き雨の降る夜 スキニー(店主)の酒場ではリトル・ビル(保安官)がマニーの追跡隊に加わる者たちを前に郡の金で酒を奢りながら翌朝からの追跡の手はずを指示している そこに嬲り殺されたネッド(マニーの相棒)のスペンサーライフルを携えたマニーが静かに姿を現す 店主は誰かと問うや、前に出た店主スキニーを瞬時に撃ち殺す 丸腰の人間を撃った事を非難するリトル・ビルに対して、マニーはネッドの死体を店の飾りにするなら彼にはそれなりの覚悟がいると答える そして、ネッドを殺したお前を殺しに来たとリトル・ビルに告げる 激しい銃撃戦の末、マニーはリトル・ビルと仲間たちすべてを撃ち殺す マニーはスペンサーライフルとその弾丸を見つけるとウィスキーを一杯飲み干し 酒場の外に向かって 「これから外へ出るが もし発砲する奴がいれば そいつだけでなく そいつの妻や友人も撃ち殺す そして家は焼き払うぞ」 と大声で怒鳴る やがて、激しい雨の中を馬上立ち去るマニーの声が暗闇から神の宣告のように町に響き渡る 「ネッドの遺体を埋葬しろ 女たちをもっと人間らしく扱え さもないと 舞い戻ってきて 貴様たちを殺して町を焼き払うぞ」 呆然と立ち尽くしている娼婦たちの顔には畏敬の思いを湛えた表情があった ・・・
 「許されざる者」 とは、社会を統制する法律では許されない者という意味であろう。 現代社会は法律こそがすべてである。 だがそれが 「真の正義」 なのかをイーストウッドは問う。 現代社会では合法であっても正義に欠けることは山ほどある。 法律と言えどもそれは人間が創りだした 「人倫の天秤」 である。 真の正義は 「宇宙の天秤」 によって裁断される。 (第375回 「宇宙の天秤」 参照)
 「許されざる者」 でイーストウッドが描きたかったのは人倫が介在しない宇宙の天秤に従った真の正義の姿であろう。 その姿は 「荒野の用心棒」 で描いた無法者のガンマンであり、「ダーティハリー」 で描いたしたたかな刑事であり、「許されざる者」 で描いた冷徹な老ガンマンである。 イーストウッドの真骨頂は実にこの 「正義を描く」 ことにあったといっても過言ではない。 「Unforgiven」 という原題は、現代社会では善人ともてはやされている合法的な 「Forgiven」 に対して放ったイーストウッドの痛烈な一撃であろう。 それを描くに、あえて人殺しで酒浸りの残忍な札付きの悪党であった冷徹な老ガンマンを使った意味はここにある。 その企ては ・・ 呆然と立ち尽くす娼婦たちの顔には 「畏敬の思いを湛えた表情があった」 ・・ とする最後のシーンで充分に成功している。 彼女たちにとってそれは神が舞い降りたごとくの奇蹟に感じられたのであろう。 あえて換言すれば、それはまた東洋的な仏教思想の中に登場する不動明王の憤怒の姿に感じる畏敬の念にも似たものであったのかもしれない。
 ラストは再びファーストカットにもどり、娘クローディアの墓を訪れた母が 「美しく 慎ましやかな娘が 何ゆえに極悪非道なガンマンと結婚したのかを 最後までわからなかった」 とするエンディングタイトルバックで終わっている。

2016.05.12


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