物質は時の経過とともに生々流転し変化は免れない。
だが小説として文字で描かれた世界は時が経過しても何も変化しない。 また絵画として図形で描かれた世界は時が経過しても何も変化しない。
これらの世界は紙やカンバスに定着された「意識世界」である。
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さらに紙やカンバスを脳細胞に置きかえれば、記憶として脳に定着された意識世界は歳をとらないと還元される。
ゆえに定着された若き日の記憶の中では、貴方はいつになっても 「あの日のまま」 であって、未来にも、過去にも、どこにも往かない。
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知的冒険エッセイ 「風景の物語」では「撮影した自然風景に日付を記載しない限り、撮影した私をのぞいて、誰もその自然風景の時系列を判定できないとはいかなることか」について論考した。
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しかしてその論考の帰結は 「自然そのものには時間は存在せず
人間の内にのみ時間が存在する」 というものであった。 「過去は記憶」で構成され、「未来は想像」で構成される。 どちらもはなはだ曖昧模糊とした人間の「主観的な意識作用」である。
だが「現在は運動」という確固たる「客観的な物理作用」で構成されている。 我々は線形時間の流れとして「過去・現在・未来」を配列し、時間は過去から未来に向かって流れていると考えている(思っている)が、現在はその構成において過去や未来とはまったく異なる。
それを同列に配置するのは人間の意識作用のなせる業であって、それ以外には何も根拠がない。 つまり、時間は人間の主観的意識場においては、流れていることが保証されるが、現在のような客観的物質場においては、流れているのかどうかは保証されない。
私は過去や未来は線形に配列されるものではなく 「現在に含まれている」 のではないかと考えている。
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以上から考えれば「風景の物語」とは、私がその現在場を訪れたことで、自然風景の中に含まれていた私の過去や未来の意識場が象出することで発生した内なる時間の流れが紡いだ「私自身の物語」である。
他方、私をとりまく自然には「時間は存在せず(流れず)」、運動する風景として、ただそこに存在しているのである。
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撮影された自然風景とは前段の「あの日のまま」で述べた「定着された意識世界」としての「あの日」の記憶に他ならない。
そのあの日とは、私がその現在場を訪れたことで、私の内なる意識場に象出した「この日」のことに他ならない。 そうであれば、あの日の永遠性とは、またこの日の永遠性でもある。
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夭折の詩人、立原道造は友人に宛てた書簡の中で
「いつか僕は忘れるだろう 思ひ出という痛々しいものよりも 僕は忘却というやさしい慰めを手にとるだろう 僕に この道があの道だったこと
この空があの空だったこと ほど今いやなことはない そして今日 足の触れる土地はみな僕にそれを強いた 忘れる日をばかり待っている」
と語っている。 だが「あの日のあの道」も「この日のこの道」も、ともに道造の内なる意識場によって紡がれた「風景の物語」であって、永遠性の確立は保証されているのである。
それほどに悲嘆することはないのである。 それでもままならなかったとすれば、道造の悲嘆とは、あるいは、あの日とこの日の「永遠性の確立」そのものにあったのではあるまいか。
詩人であった道造にとってみれば、過去にも、未来にも、どこにも往かない、という永遠性の確立こそが、忘却するしか他にやりようがない
「虚無の確立」 であったのかもしれない。
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