Linear ベストエッセイセレクション
漂う時空
Turn

永遠と無限の狭間
 永遠とは線形時間軸両端の無限延長上における概念である。
 その線形時間がそもそも存在せず「時間は流れない」ことはしばしば述べてきた。 この帰結から考えれば永遠という概念そのものが意味を消失してしまう。 永遠などどこを探しても見つからないということである。
 では線形時間に代わる概念とは何であろうか?
 哲学者、ニーチェはサイクリックな円環を成す時間概念を考えた。 「未来に向かえば過去に至り 過去に向かえば未来に至る」という永遠回帰の説である。 それを科学的に裏打ちしているのがフランスの数物理学者、アンリ・ポアンカレ(1854〜1912年)が証明した「ポアンカレ循環」である。 その語るところを簡略にまとめれば「無限の時間を想定すれば あらゆるものは いずれは出発点に戻り 同じ繰返しをする」となる。
永遠は瞬間にあり〜永遠回帰に思う
 哲学者、ニーチェは言う。 宇宙は円環を成し、あらゆることは再び回帰する。 かってあった幸せな時も辛い時もまったく同じに回帰する。 人は同じことを同じ手順と脈絡に従って繰り返すのみである。 新たな人生の可能性などはどこにもない。 そのことを絶望をもって肯定して受け入れることこそが「超人への道」である ・・ と。 かの有名な「永遠回帰説(永劫回帰説)」である。
 東洋の「輪廻転生」の思想もまた円環を成す宇宙構造をもつが、こちらは次々と異なった何者かに生まれ変わるのであって、新たな人生の可能性は残されている。 まったく同じ人生を永遠に無限に繰り返すことを受け入れる苦痛は想像を絶するものがある。 ニーチェはそれを「受け入れよ」というのである。
 永遠回帰の構造とは、今の今という現在を起点として未来に向かうと過去に至り、その過去から再び今の今という現在に回帰するというものである。 今の今という起点は円環上のすべての点であって、そこは「始点」でもあり「終点」でもある。 八代亜紀が歌う「愛の終着駅」ではないが、愛の終着駅は「愛の始発駅」でもある。 終着駅の改札口を出たら、そこは始発駅の改札口の入り口であり、終わったと思った愛は再び同じ手順と脈絡をもって始まるというわけである。 夢があるような希望がないような話である。
 だが失望することはない。 「存在と時間」を著した同じドイツの哲学者、ハイデッガーはニーチェの「永遠回帰説」について次のように述べている。
 未来において何が起こるかはまさに決断にかかっているのであり、回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれるのではなく、輪が切れ目のない連結をとげるのは、相克の中心としての「この瞬間」においてなのである。 永遠回帰におけるもっとも重い本来的なものは、まさに「永遠は瞬間にあり」ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾走する刹那とかではなく、未来と過去との衝突であるということである。
 ハイデッガーの言うところは、永遠は遥か彼方にあるのではなく、未来と過去を連結する「今の今」にあるのであって、この「瞬間こそが永遠」なのであるということである。 そして大切なことは、未来と過去が衝突し相克の中心であるこの瞬間での「決断」であるというのである。
 人間以外の生物に過去や未来があるのかはわからないが、私には彼らが今の今というこの瞬間を永遠に昇華させているように観える。 人間より遥かに短い生涯しかもちえない彼らであってもその生はすでにして永遠に行き着いているように観えるのである。 なまじ認識力に優る人間であるがゆえに今の今という足下には目がいかず、遥か彼方の「ありもしない永遠」を求め続けているのかもしれない。
 そのことをニーチェは全身全霊をもって叫んだのではなかったか ・・ 悲しいかな、かかる永遠の刹那宇宙に精神崩壊してしまった彼の真意は今となっては確かめようもない。
 他方、無限とは3次元空間軸端末の無限延長上における概念である。
 だが3次元空間(宇宙)さえシュレジンガーの波動理論が解くように観測によって現れたり消えたりするような不確かな存在である。 この帰結から考えれば無限という概念もまた意味を消失してしまう。 無限などどこを探しても見つからないということである。
 では空間概念に代わる概念とは何であろうか?
 手がかりはフランスの数学者、ブノワ・マンデルブロ(1924〜2010年)が導入した「フラクタル」と呼ばれる幾何学概念である。 その語るところを簡略にまとめれば「全体の形状と部分の形状が自己相似になっている」となる。 私はそれをさらに略し「細部は全体 全体は細部」と表現している。
以下の記載は地元新聞に掲載された「世界の救済」と題したエッセイからの抜粋である。
 最先端科学は宇宙のフラクタル構造を解き明かしはじめた。 フラクタル構造とは「入れ子」の構造である。 物質を微視化していくと原子核とそれを周回する電子で構成された原子構造が観察され、逆に巨視化していくと太陽とそれを周回する惑星で構成された太陽系構造が観察される。 このふたつの世界は同じ構造をもった入れ子である。 さらに微視化していっても巨視化していっても再び同じ構造が観察され、無限の階層を成し連続する。 この構造をフラクタルと呼ぶのである。
 この構造法則は宇宙存在のあらゆるものに潜在する内蔵秩序である。
 一枚の朽葉に生息するバクテリアの世界は庭の片隅で活動する蟻の世界と同じであり、それは安曇野に暮らす人々の世界と同じであり、それは長野県の ・・ 日本国の ・・ 世界と同じである。
 さらにこのフラクタル構造を探求していくと我々の宇宙が一滴の雨だれの中に存在しているのか、一杯のお茶の中に存在しているのか、池の中に存在しているのか、はたまた大海の中に存在しているのかという疑問に直面する。 しかし、人類はこの我々が居住する世界のフラクタル階層を永遠に知ることができないであろう。
 このことは「宇宙には大きさという概念は無く 仕組みという概念しかない」という直観的覚醒を我々にもたらす。 大きさという概念はせいぜい我々が目撃できる銀河系宇宙程度までであり、それを越える大宇宙に展開されると意味を失う。
 この認識の覚醒は我々がはるか悩み続けてきた「宇宙の果て」という究極の問いに重要な示唆を与える。 なぜなら大きさが無く仕組みだけの宇宙であってみれば、もとより宇宙の果てなどという大きさ概念を基とした問い自体が消失してしまうからである。
 この仕組みだけの宇宙をもう少し分かるように記述するならば「顕微鏡で眺めていた宇宙が実は望遠鏡で眺めていた宇宙であり 望遠鏡で眺めていた宇宙が実は顕微鏡で眺めていた宇宙であるような構造」となる。 この宇宙の眺望において顕微鏡と望遠鏡はまったく同じものなのである。
 かって千利休が言ったという「世の中のこと一杯のお茶にしかず」とはこの宇宙フラクタルを象徴的に表現している。 まさに細部は全体であり、全体は細部なのである。 そしてこのフラクタルメカニズムは次の箴言を導き出す。
1人を救う者は世界を救い 世界を救おうとする者は 1人も救えない
現象と心象の狭間
 この宇宙は主観とは別に客観的に存在しているのか? それともそのような「客観的な宇宙」は存在せず「主観的な宇宙」をただ客観的な宇宙と錯覚しているのか? この正誤は永遠に判定できない。
 なぜなら主観的宇宙が自らの死後もなお存続し続けるのかは自らが亡くなってみなければわからないからに他ならない。 同様に客観的な宇宙もまた自らの死後も存続し続けるのかも自らが亡くなってみなければわからない。
 自分以外の他者が死んでも客観的な宇宙は存続しているではないかという主張は証明にならない。 そこには「他我問題」の壁が横たわっている。 他我問題とは他人の心をいかにして我々は知りうるかという哲学的な難問であり、結論から言えば「他人の心を直接に知る方法はありえない なぜなら私は他者ではないからである」というものである。 つまり、自分以外の他者が生きている世界もまた私の主観的な世界であって、私は他者ではなく、亡くなった他者の主観を直接的に知る方法はない。 結局、堂々巡りの末に、自らが死んでみなければわからないという、はなはだ曖昧な解決策に帰着してしまう。
 オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)は「主体は世界に属さない それは世界の限界である」という独我論を提唱した。
 この世界の限界とはどこにあり、世界の限界とはいったい何を意味するのか?
 ウィトゲンシュタインが言う「私の見る世界の視野に 私自身の眼は含まれない 私の眼はながめる世界の視野の限界に位置している」というときの限界とは世界を眺めている私自身の「眼」である。
 この限界(境界)の両側には、いったい「何が」あるのか?
 この限界(境界)の向こう側に広がる世界は、物質を主役とする現象世界であり、限界のこちら側に広がる世界は、意識を主役とする心象世界である。 その境界面(限界面)に私自身の「眼」が位置している。
 現象学を創始したオーストリアの哲学者、フッサールは、我々が見る現象世界は「意識の地平」であって我々の意識が編集した心象世界であるとした。 世界は現象世界と心象世界が交錯する「狭間」に拓かれている。 その狭間に位置するものがウィトゲンシュタインが言う「世界視野の限界である私の眼」に他ならない。
 物質と意識は「Pairpole」である。 物質は我々が眼にとらえ、手に触ることができる「現象世界の主役」であり、意識は我々が眼にとらえ、手に触ることができない「心象世界の主役」である。
 解りやすく表現するために「眼」という肉体的器官を用いているが、哲学的表現をすれば、それは「自己」と言っても良いし、「自我」と言っても良い。 つまり、私という自己は、物質で構成された現象世界と、意識で構成された心象世界の接点(限界点)に存在している。
 私という「自己の外」に構築されている現象世界は科学の方法論で分析され、記述され、認識され、その中核は物理学である。 他方、私という「自己の内」に構築されている心象世界は哲学の方法論で分析され、記述され、認識され、その中核は心理学である。 私という自己の役割は、外に広がった現象世界と、内に広がった心象世界を繋げることで、「ひとつの宇宙を構成」することにある。
 物質を主役とする現象世界は、ニュートン、アインシュタイン、ボーア ・・ 等々の物理学者たちによって探索され、また意識を主役とする心象世界は、フロイト、ユング ・・ 等々の心理学者たちによって探索されてきた。
 その探索結果から得られた両世界の諸事相は、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、ハイデッカー ・・ 等々の哲学者たちによって統合されてきたが、その探索と統合の試行錯誤は、この不可思議な宇宙の片隅の一部の世界を解明したに過ぎず、気の遠くなる程の広大な未知領域が未だ手つかずにのこされている。
 ただひとつ、彼等の探索と統合の報告書を読み比べてみると、あることに気づく。 それは両世界の構造が、きわめて相似していることである。 ニュートンの力学はカントの哲学に、ボーアの量子論はユングの心理学に相似する。
 以上を考える時、この知的探求の主題である「意識が物質を発生させるのか? あるいは 物質が意識を発生させるのか?」という根本義の何たるかが見えてくる。 つまり、「意識に物質が宿るのか? それとも 物質に意識が宿るのか?」という根本的懐疑である。
 帰着した私の懐疑はまた「物質と意識の結びつき」を研究した物理学者、ロジャー・ペンローズ(イギリス1931年〜)の代表作「皇帝の新しい心」の語るところと一致する。 「皇帝の新しい心」は発表されるやいなやセンセーショナルな論争を巻き起こした。 ペンローズはその中で「現代科学の知識がいかに豊富で優れていても存在の究極の謎である人間の意識を説明することはできない」と主張するとともに、その意識を解明する鍵は物理学の2大理論である「量子論」と「相対論」の狭間に隠されていることを述べている。
 多くの物理学者が量子力学と一般相対性理論をひとつにした継ぎ目のない「統一理論」を導きだそうとしては失敗を繰り返してきた。 ペンローズは「皇帝の新しい心」の中で、その統一理論の「あるべき姿」と、いかにして「その思考が生まれる」のかの道筋を描いている。 ペンローズの理論体系は漠然としたもので、物理学や神経科学によって立証されたわけではないが、もし彼の理論が正しければ、一挙に物理学の理論を統一し、哲学の最難問のひとつである「心と物の結びつきの問題」を解決するかもしれない。
 ペンローズは多くの物理学者が「統一理論」ではないかと期待を寄せている「超ひも理論」には否定的である。 彼が求めているのは「データを集めて結果を予測する単なる物理学の理論」などではなく「宇宙の謎である生命の秘密を解明する究極の答え」なのである。
 ペンローズは自他共に認めるプラトン主義者であり、真理は「発明」するものではなく「発見」するものだと考えている。 まことの真実には自ら開示する力を与えるような美しさ正しさ明快さを感じさせる「何か」が備わっているが、「超ひも理論」にはその「何か」が欠けているというのである。
 「皇帝の新しい心」には書かれてはいないが、ペンローズはきっとかく言いたかったのではあるまいか? 「意識が物質を発生させるのか? それとも 物質が意識を発生させるのか? しかして 意識に物質が宿るのか? それとも 物質に意識が宿るのか?」と ・・ あるいは「この問い」に答えることこそが「統一理論」に至る「究極の道筋」なのかもしれない。

2017.10.30


copyright © Squarenet