Linear ベストエッセイセレクション
パラレルワールド
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平行宇宙
 ・・・・・ 物質が粒子と波の両方の性質を見せることで奇妙な結果が生じる。 光子や電子を次々に2つのスリットに発射するとする。 粒子であればそのうちのどちらか1つのスリットを通過するはずである。 しかし、光子や電子はそのどちらのスリットもすり抜け干渉縞をつくる。 つまり、この干渉縞は光子や電子が波の性質をもっている証拠である ・・・・・
 平行宇宙(パラレルワールド)はアメリカ、プリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレットが1957年に提唱したのが最初である。それは量子力学の観測問題を解決しようとする研究の中から生まれた。彼は上記した「スリット実験」の結果を解釈するにおいて、光子や電子はスリットではなく 「宇宙を選択する」 のだと考えたのである。どちらか一方のスリットを選択することで、宇宙はふたつに分かれる。スリットの選択次第で、我々がどちらの宇宙にいるのかが決まる。その時点で宇宙はふたつに分かれ、観測が行われるたびに、次々に平行宇宙へと分岐し続ける。彼の着想の要点は、宇宙そのものがすべての可能な結果を含む波動関数によって語られるということである。無数の平行宇宙が、それぞれ独立して存在していることになる。観測者が測定を行うたびに、数えきれないほどの数の新しい宇宙(多世界)が生み出される。そのひとつ、ひとつが、それぞれ異なる可能な観測結果を表している。
 「シュレジンガーの猫」と呼ばれる思考実験を例にして考えれば、生きた猫と、死んだ猫の世界が同時に共存する。ここでは波動関数の収縮は起こらない。新しい宇宙がどんどん増えていくだけである。この考えは、9世紀頃のイスラム教の思弁神学、カラーム派の教えに似ているという。それによれば何か出来事が起こるたびに、世界は新しく生まれるというのである。
 エヴェレットが提唱した多世界解釈は、外部の観測者の必要性を取り去ってくれたことから多くの宇宙論学者に支持された。これは重要なことであり、もし意識をもとにした「ウィグナーの解釈」を採用するのであれば、宇宙の波動関数を収縮させることのできる唯一の観測者は神だということになる。しかし、エヴェレットの多世界解釈にも問題がないわけではない。それは観測過程のどんな点が、世界を分離させるかについて何も説明してくれないことである。
 アメリカの物理学者、リチャード・ファインマンは「歴史総和法」として一般に知られる方法で、微視的世界から巨視的世界へと移るにつれて、量子力学による説明が無理なくニュートン力学による説明へと変化することを示した。
 上記の「スリット実験」における彼の説明によれば、光子や電子などの量子粒子は発射源と蛍光板の到達点の間で、ありとあらゆる可能な道筋、あるいは軌跡を試そうとする。微粒子は波長が長いために水の波の干渉のように蛍光板上に干渉縞状の到達点の確率分布を示す。だが粒子の質量が大きい野球のボールともなれば、ニュートン力学が述べる道筋以外のいかなる軌跡でも相殺干渉が起こることを示している。
 量子論では電子がどこに到達するかを予測することはできない。それは電子がある点に到達する確率を示すだけである。言えることは電子を1個蛍光板に向けて発射したならば、蛍光板上の多くの点で閃光が現れる可能性である。だが確率は測定が行われることで事実に変わる。電子がある点で発見されたが最後、それがほかの場所で見つかる確率はゼロになる。何度も何度も実験を繰り返して初めて、確率分布が意味のあるものとなり干渉縞が形成されるのである。つまり、電子が蛍光板に衝突する前に、その所在を尋ねることはできない。 したがって次ぎのような結論に至る。
 電子は何らかの方法で空間と時間全体に広がっており、蛍光板に衝突する前は、まったくでたらめな方法で2つのスリットを通り抜け、自分自身と干渉しあっている。電子は同時にすべての場所に存在し、かつどこにも存在しない。事が起こるたびに、世界は新しく生まれるというのである。
 旧ソ連に生まれ、動物園の夜間警備員などのアルバイトをしながら物理学を学び、その後アメリカに移住して宇宙論研究に取り組んでいるアレックス・ビレンケンは、無からのトンネル効果で宇宙が発生するという「多世界インフレーション宇宙論」を提唱している。著作の中で彼は ・・ すなわち、宇宙は無限であると同時に有限、進化しているのに静的、永遠でありながら始まりがある ・・ さらに、私たちの地球とまったく同じ惑星が遠く離れたどこかの領域にあり、そこでは地球と同じ海岸線と地勢を持つ大陸があり、私たちのクローンを含めて地球と同じ生き物が住んでいて、このように同じ話をしている ・・・ と述べている。
 また車椅子の天才物理学者、イギリスのスティーヴン・ホーキングはマザー・ユニバースからチャイルド・ユニバースが泡沫のように生まれる過程を示したうえで「宇宙はわれわれの宇宙だけではない」と述べている。
 近年、平行宇宙は「パラレルワールド」として小説や、SF映画にしばしば登場、身近に語られるようになったが、その実在感はタイムマシンほどに希薄である。だが世界の先端的物理学者は大真面目でその存在を信じている。上記の「スリット実験」はこの世と呼ばれる現実世界にひょっこりと顔を出した平行宇宙の断片である。その断片の記述は量子と呼ばれる超ミクロの宇宙風景であるが、我々が今目にする現実世界がビックバンと呼ばれる超々ミクロの1点から始まったことを考えれば、記述された量子世界の胎動を、現実の宇宙風景に置きかえることに、何ら不都合は生じないであろう。
 つまり、目に見える風景だけが実在ではなく、多くの実在はその裏側に隠されているのである。
どこにもいて、どこにもいない
 量子の世界では物質は波動性と粒子性という2重の性質をもっている。但し、波動性を観測したとたんに粒子性は消え、粒子性を観測したとたんに波動性は消えてしまう。同時に観測することはできない。
 この状況を現実的に表現すると ・・ 私という物質は観測されるまでは宇宙全域に波動のごとく広がっていて、どこにもいて、かつまたどこにもいない。しかし、ひとたび宇宙の局所で観測されるやいなや、波動性は消滅し(あらゆる可能性は消滅し)、粒子性としての私はその局所にしか存在することができない ・・ と表現される。
 量子の2重性を表現するもうひとつの方法は「量子はあらゆる可能性を事前に試みる」というものである。たとえば台風の進路は進行方向に開いた扇形の確率で示されるが、我々が観測する進路はその中のたったひとつの進路のみである。だが台風自身はその扇形の進路すべてをすでに事前に試みているのである。この場合、扇形で示された確率的な進路が波動性であり、観測されたひとつの進路が粒子性にあたる。
 ここ5年ほど、私は研究している映像技術のために故郷の信州各地を巡り歩いてきた。つまり、私は波動のごとく信州全域に広がっていて、どこにもいて、かつまたどこにもいない状態であった。 その経過を記録した「信州つれづれ紀行」には、粒子としての私の局所における位置プロットデータが表示されている。
 この状況を物理学的な解釈をもって解説すると、私はこの信州紀行を始める時点で、すでに「あらゆる可能なルートを試し終わっていた」のであって、私の「5年間の粒子としての位置プロットデータの分布」とは、始める時点ですでに試みられていた波動性の確率分布であったというものである。 量子は一瞬の刹那に時空を超えて「あらゆる可能性」を把握し、体験してしまうのである。
 上記から導かれる帰結は、人の一生とは、この世に生まれ出た時点において、確率的に可能なあらゆる人生がすでに試みられていて、「私の人生とは1個の粒子として生涯をかけてその波動性確率分布をトレースするにすぎない」という運命論に近づいていく。
 これらの記述は「平行宇宙」で述べたリチャード・ファインマンの「歴史総和法」に基づいて思考されたものである。 しかして「信州つれづれ紀行」はまた我が身を使った「実験的経路積分紀行」でもある。

2014.10.31


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